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サンシャワー  作者: おにぎし
7/22

懐古する(慈視点)

雨は今朝から降り続いている。生憎の空模様は、まるで今のわたしの気分を反映してるみたいだ。


(昨日は厄日だったな......)


生まれて初めて痴漢され(全然めでたくない)、レストランの前でその痴漢と再会した(尾行されていたに違いない)。あのときヤツを投げていなかったら、どんな事態になっていたか分からない。きっと、駅員につきだしたことで彼の恨みを買ってしまったのだ。あのまま何もしなかったら、あの男に連れ去られて、また同じことをされたかもしれない。だからあれは正当防衛だ。


だけど正直なところ、背負い投げしたとき、久しぶりのあの感覚に、わたしは興奮で身震いした。まるで身体中に流れている血が沸き立つようだった。わたしの肉体は以前のようにビリビリと痺れた。相手を地面にのした瞬間、わずかに爽快感を感じてしまったことは否定できない。






わたしは戸田道場までの小道を傘をさして歩いていた。アパートの最寄駅から電車に乗るときは、昨日のことを引きずってしまって少し怖かったけれど、車内は幸い空いていたから勇気を出して乗ることができた。


ビニール傘に雨露がつたっては落ちていく。しとしとと穏やかにふる雨にわたしは気持ちを重ねていた。




(着いた......)


戸田道場は下町といえる地域の住宅地にあり、道場に隣接するように、父の生前に暮らしていた我が家が建っているが、今はどちらも売り払っていた。戸田道場は、古い木造建てだ。


わたしは道場の裏側に回った。そこにはひとつ窓がある。わたしは窓に手をかけ、古いため軋んだ音を立てながら窓を開ける。この窓は不動産業者のミスなのか、鍵がかかっていないのだ。


わたしはスニーカーを脱ぎ、その窓から難なく道場内に侵入した。



それから、いつものように、畳のうえに大の字になって寝転がる。父の死後使用されなくなって五年を経たが、この畳には汗の臭いがしみついている。


わたしは道場のど真ん中で天井を仰ぎながら、昨晩のことを思い出していた。




『わたしと逸郎さん、じきに結婚しようと思っているの』



正直、母のその言葉はショックだった。お父さんが交通事故で亡くなってから、まだたったの五年だ。もう五年だと思う人のほうが多数派だとしても、わたしにとって五年という期間は、父の死から完全に立ち直るためにはまだ十分ではないのだ。というより、父の死から完全に立ち直るなんてこといつか本当にできるのだろうか?時折、寂しくなると、父との思い出のつまった道場を訪れずにはいられなくなるのに?


父は稽古をしているときだけは厳しい人だった。わたしの未熟な技を上達させようと熱心に教えてくれた。その厳しい指導のおかげでわたしはうまくなったし、柔道がいやになった時期もあった。稽古が終わると、わたしは一番年の近かった同じ門下生と道場を飛び出し、近所の空き地で遊んだものだ。彼はわたしの幼馴染みだった。そういえば、彼はいまどこで何をしているのだろう?






わたしは母にお付き合いをしている人がいたのは知っていたけれど、再婚まで考えていたとは思っていなかった。


母の再婚話は、わたしの心に慢性的な痛みを残していた。正直、新しい指輪がお母さんの薬指にはまるのは見たくない。わたしのお父さんはひとりだけだ。父を想って流す涙はもう枯れ果てたけれど、わたしは彼の死を乗り越えられたわけではないのだ。



畳のうえに寝転んでもの思いに耽っていると、ふと、道場の外に、雨音に混じって足音が聞こえてきた。


その足音は、ゆっくりではあるが、だんだんとこちらに近づいている。


(やばっ......!)


非常事態だ。わたしは素早く身を起こした。もしも不動産業者が物件の定期的なチェックか何かでやって来たとして、わたしがここにいるのがバレたらまずいことになる。 この道場はすでに売却したものなので、わたしは本来ならもうここに入る権利はない。


足音が戸の前で止まった。ガタガタと扉が揺れる。誰かが戸を開けようとしている。


わたしは慌てて窓に駆け寄り、物音を立てないように注意しながらも急いで窓から外に飛び降りた。スニーカーのうえに着地し、それを履いてしばらく屋根の下で人が去るまで待機する。いま表のほうに出たら見つかってしまうだろう。


しばらくしてから、こっそりと道場の角から表を伺うと、傘をさした男性が道場を立ち去っていく後ろ姿が確認できた。


わたしは見つからなかったことに安堵して胸を撫でおろした。

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