体が自然と(慈視点)
わたしの父親は、五年前に交通事故で他界した。お父さんはうちの道場の師範で、わたしは幼い頃から柔道で父にしごかれてきた。道場ではとても厳しい人だったけど、普段はすごく優しくて、温和な人で、わたしはそんなお父さんが世界でいちばん大好きだった。
お父さんは、亡くなったときまだ49歳だった。
「慈ちゃん、こちら、小柳逸郎さんていうの。こっちは息子の遥斗くん」
頭が空っぽになる。今日はこんなことは二回目だ。今日の運勢は悪かったっけ。
わたしも席について、二人に会釈はするものの、気持ちがついていかず、上の空だった。
「きみが涼子さんの娘の慈ちゃんか。今日は仕事帰りかい?突然きみを食事に誘ってしまって、悪かったね」
「いえ、そんなこと......」
お母さんからこの人たちと夕食を共にすることなど事前に何も知らされていなかったけど、聞いていたふりをした。
柔和な顔立ちと高そうなスーツから気品の漂う、お母さんと同年代くらいの(50代あたりかな)男性だ。その隣にいるのは高校生くらいの男の子で、男の子といえどもなんだか可愛らしく整った顔立ちをしている。見ていると目が合ったので、軽く会釈するとにっこりと愛想よい笑みが返ってきた。
小柳さんは店員に料理とワインを注文し(ちなみにこの店にはメニューがない。そして料理名が長ったらしくて覚えられない)、おいしくておすすめだからとわたしたちにも同じものを注文した。
「青葉くんは、遅いわね......」
知らない名前にわたしがきょとんとしていると、小柳さんが説明してくれた。
「青葉はわたしの長男坊だよ。きみと年が近くて、20歳の大学生だ」
「そうなんですか」
いきなりの展開にまだ頭がついていかないし、二人を目にしたときから悪い予感が止まらない。胸がざわつく。この予感はきっと的中するだろう。
「青葉くんはまだ来ないけど、回りくどいことは言わないで慈にはもう伝えておくわね」
次に言われる言葉はすでに分かってる。
「わたしと逸郎さん、じきに結婚しようと思っているの」
今日はほんとに、人生最悪の日だ。
突然にお母さんから再婚話を告げられたあと、わたしはその場の雰囲気にいたたまれなくなり、トイレに行くと言って席を立った。
トイレの個室から出て、手を洗う。美しい彫刻の額縁にはめられた鏡の前のわたしの表情は、明らかに不安げで、顔色が心なしか青ざめている。
――気分が優れないとお母さんにメールして、今晩はこのままアパートに帰ろう。
こんな嘘の口実をつくって逃げるなんて、わたしらしくないけれど、彼らとディナーをする気分には到底なれなかった。例え料理が超高級でわたしなんて滅多に食べられないものだとしても。
今回ばかりはお母さんに非があるのだ。大体、再婚するかもしれない相手と娘をいきなり会わせる前に、そのことを伝えておくのが常識だろう。お母さんは、彼と夕食をとることを事前に言ってしまったら、わたしは断るだろうと思ったのかもしれないけど。確かに、前もって教えられていたらわたしは行かなかったかもしれないけど。
そうと決めれば即座に母にメールを打ち、レストルームを出た。彼らのテーブルには戻らず、ドア口でわたしを引き止めた店員に気分が優れないので食べずに帰ることを伝えて(なんだか申し訳なくなった)、レストランのドアをくぐった。
それが目に入ったのは、外に出て歩道を歩きはじめた直後のこと。
(あれ......?)
出口付近の、歩道のここから少し離れたところから、どこかで見たことがあるような人物がこちらに向かって歩いてくる。それが誰なのか分かった瞬間、わたしの血の気が引く。あれは、今朝見たばかりの忌まわしい顔......!
(へ、変質者だ.......!)
そう、今朝の電車での痴漢だった。
(うわあ......ど、どうしよう......)
心臓の鼓動が激しくなる。とにかく焦ったし、怖かった。もしかして、わたしに恨みをもって、あとを尾けてきたのではないか――。レストランから出た瞬間を狙って、わたしを連れ去ろうとしているのではないか。そのあとで何をされるか想像してしまい、鳥肌がたった。
「あ......!」
目がかち合う。ヤツもわたしに気づいたようだ。
「け、今朝の......。あれはあなたの誤解なんだ......!」
声をかけられたけど、わたしの脳はこの場所から早く逃走することを選びとった。それなのに、わたしの足はまるで地面に生えたように固まって動かない。
ヤツが近づいてくる。どんどんヤツとの距離が縮まる。焦燥。心臓がうるさい。わたしに向かってヤツの右腕が伸ばされる。逃げなきゃ。いや、もうだめだ。腕を掴まれた。すべてがスローモーション――。
わたしはとっさに上体を低くし、相手のフトコロに入り込むと、服の襟と腕を掴み、身を翻し、相手の体重に耐えるために両足に力を入れ、腕に力を入れ、体全体で一気にヤツの身体を投げた。
空中に舞うヤツの身体。歩道のアスファルトに落ちるヤツの身体。
わたしは恐怖のあまり、かつてのわたしの得意技・背負い投げを無意識で繰り出していたことに気がついた。