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エリザベス1世の治世・1

また文章の堅っ苦しさが元通りです。

いい加減、イギリス史の本だけじゃカバーし切れなくなってきました…

 まず、即位(1558年)した当初のエリザベス1世の状況と、国内外の状況について、箇条書きで大雑把に纏めていくよ!


<エリザベス1世>

・即位当初は25歳(それまでは、ハットフィールドで地味な生活をしていた)

・高度な人文主義教育を受けたプロテスタント(メアリーとは違う宗派ね)

・フランス語・イタリア語も話せるインテリ


☆ある一つの立場や主義に極端に偏る事のない、中庸・中立の治世だった!



<国内外の状況>

◎宗教的にわちゃわちゃ

宗教改革したと思ったら、メアリー1世がカトリックに戻しちゃうし。

 →清教徒(ピューリタンはこの頃蔑称だった)には期待されてるけど、カトリック教徒はメアリー・ステュワート(スコットランド女王、サマセット公に拉致されそうになってた人)にイングランド女王も兼任して欲しがった


◎世は正に大航海時代(スペイン辺りがヒャッハーしてた時代、イングランドはまだ二流国だった)


・社会経済、社会問題

例)ヘンリー8世(エリザベス1世の父親)が宗教改革の時に修道院解散しちゃったせいか、貧乏人とか捨て子の行き場が無い

※それまでは、修道院に収容してた



 大体こんな感じかな?

 じゃあ、順を追って説明していきます!

 あ、割と治世の後期まで話が飛んだりします。「アルマダの海戦終わってるじゃん!」というツッコミは、呑み込んで頂けると有難いです…


 まず、宗教的な話から。

 エリザベス自身は、上記の通りプロテスタントで、英国教会を父親の頃と同じ状態に戻したいと思っていました。

 そのため、彼女は「国王至上法」だけを復活させようとしていたらしいのですが…改革派(|ガチプロテスタント)への譲歩として、「礼拝様式統一法」の可決も承認しています。

 この二つの法は、どちらも彼女が即位した翌年、1559年に制定されました。

 エリザベス1世の宗教に対する態度は「教義的にはプロテスタント、礼拝様式ではカトリック」と言われます。上記の通り、ザ・中道ですね。

 この慎重に中道をゆく舵取りは、カンタベリー大主教のマシュー・パーカーによるものだそう(第3部の使徒継承の話にも出てた人)。

 ただ、極端な偏りがない故に、生涯を通じて極右・極左からは激しい抵抗を受けたそうです。極端な人達からすれば、どっち付かずでイライラしたんでしょうね。

 因みに、1570年、エリザベスはローマ教皇ピウス5世に破門されています。

 また、その後イングランドの再改宗(カトリック辞めちゃったから)のために、カトリックの宣教師や、イエズス会の会士が密かに送り込まれてきます…危険視されるんだから放っときゃ良いのに、と思ってしまいますが。


 この頃の宗教について、更に具体的な説明を加えていきましょう。

「礼拝様式ではカトリック」と言われるように、教会典礼(行事とかの事)の中心は英国教会では"聖餐式 -Holy Communion"、カトリック教会では"ミサ -Mass"と、異なる呼ばれ方をしてはいるものの、内容としては同じものでした。

 また、聖職者は白衣を着る、という点も、カトリック教会と英国教会の共通点です。

 ただ、ぶっちゃけ、この"白衣"というのが何なのか、作者はよく分かってません。

『イギリス史10講』においては、白衣に「サープリス」というルビが振られていますが、『イギリスの生活と文化事典』において、此処で言う"白衣"として紹介されているであろう長白衣には、「alb」というルビが振られています。

 いくら作者の英語技能が低いとはいえ、この二つの読みはどう考えても違うんじゃないかと(誰かきちんと知ってる方います?)…閑話休題。

 それから、教会が長老制ではなく位階制をとるところも共通しています。

 兎に角、典礼において、カトリック教会と英国教会の基本的な考えは殆ど変わらなかったという事です。

 しかし、勿論プロテスタント的な改革もありました。

 聖餐において、パンとぶどう酒が、それぞれキリストの肉と血に変質する、という化体説の否定・軽視がそれにあたります。

 この傾向は、19世紀半ばに、J・H・ニューマンによって指導されたオックスフォード運動(英国教会の典礼をローマ・カトリックの伝統に戻そう!という運動)の頃まで続きます。

 また、それまでにいくつも版があった英訳聖書を纏めて改定し、1568年に出版したのもプロテスタント的改革と言えます(即位から10年も経ってるじゃん!と思うのは、現代人の感覚でしょうか)。

 取り敢えず、宗教についての話はこの位にしておきましょう。


 次に、大航海時代について。

 こちらは、余り説明が要らないでしょうか?

 上で言ったスペインのヒャッハー、というのは勿論、1492年、イタリア人商人クリストファー・コロンブス(コロンボ)の、西インド諸島到達に端を発します。

 コロンブスの出身地・イタリアでは、スペインを繁栄へと導いたのはイタリア人、という誇りがあるとか何とか。またまた脱線。

 因みに、イベリア半島に最後まで残ったイスラム教の支配者をグラナダから追放し、ユダヤ人とムーア人を排除または強引に改宗させ、国土回復運動レコンキスタを完成させたのも1492年です。


 あ、そうそう。

 一応、"スペインのヒャッハー"なんて乱暴な書き方をしたのには、その頃西インド諸島に住んでいた現地人・アラワク族(今も住んでいるのでしょうか?)への、当時のスペイン人らの対応がひでーから、という理由もあります…閑話休題。


 さて、コロンブスによってヨーロッパと南北アメリカの間に永続的な連絡路が確立され、次いで30年も経たない内に、喜望峰を回ってインドへと行く航路も開かれました。

 喜望峰の方の航路は勿論、1498年バスコ・ダ・ガマが最初に到達したものです。

 但し、彼の航海は多くの犠牲者を伴い、交易にも失敗しています。

 それでも英雄扱いっていうのは凄いですね。


 これらの探険航海を切欠に、最初はポルトガルとスペインが(次いで17世紀にオランダ、そして後にはイギリスが)繁栄していきます。

 余談として、1580年にポルトガルのエンリケ1世枢機卿王が亡くなり、アヴィス王家が断絶すると、エンリケ1世の先代王(セバスティアン1世)の叔父であるスペインのフェリペ2世(メアリー1世と結婚してた人)がポルトガルを占領し、スペインに併合しています。

 スペインが"太陽が沈まない国"だったのはこの1580年以降60年間みたいです(その衰退は此処では詳しく扱いません)。あ、でも最初の方はポルトガルが優位だった筈(15世紀前半のエンリケ航海王子、後半のジョアン2世、バスコ・ダ・ガマを支援したマヌエル1世幸運王など、積極的に海外へ進出してますね)。

 "太陽の沈まない国"と呼ばれた所以は、何時でもスペインの領土の何処かで太陽が昇っていたからだとか。領土が世界中にあった証拠ですね。

 兎に角、新大陸における略奪や搾取(南アメリカの金とかか?)、交易により富を築いたスペインは、当時国際的な帝国だったのです。


 まあ、イングランド的には面白くないですよね。

 それで、どうしたのか。

 そういえばEU離脱について扱った本でも「イギリスは、"海賊国家"で云々」なんて言われてましたっけね…

 此処まで言ったなら、もう分かる筈、というか、知ってる人も多いのでは?


 …ヒャッハァァァアア!!野郎共ォ、船狩りのお時間じゃああああああああい!!!!


 はい、そうです、エリザベス1世は海賊を使って、スペインに対する略奪を働いたのです(こうすればスペインは弱るし、自分のところの船は襲われないしで一石二鳥)。

 場所は、西インド諸島近辺のスパニッシュ・メイン(堅い言い方をすると、カリブ海周辺大陸沿岸のスペイン帝国地域)。

 カリブ海で暴れ回っていた海賊の事を、「バッカニーア -buccaneer」と呼ぶみたいですね。

 女王は、スペインから奪った金品の1割を貰う代わりに、海賊バッカニーア達を私掠船・私拿捕船として認め、利用しました。平たく言うと、政府公認海賊団。

 まあ、当時のイングランドは、十分な常備の海軍を持ってませんでしたから。

 でもそれで、所謂犯罪者集団をも利用するというのが凄いですよね。

 ただ、余りにも海賊行為が度を超していると、スペインとの外交問題に発展してしまう訳で。

 この時期の両国は、度々ピリピリした関係になっています。

 そういう時は一応、イングランドは()()()の取り締まりに本腰を入れる様子を見せなければなりませんでした。表面上は。


 え?実際はどうなのかって?

 …海賊であった、()()・フランシス・ドレイク※が、エリザベス1世から騎士ナイトの位を与えられた(1581年)、という事を述べておきましょう。騎士とは一体…

 サー(sir)っていうのは、貴族(lord)ではない平民の中で、最も高い位だった筈です。…すみません、情報源が割とあやふやなので、あまり当てにしないで下さい。

※イングランド南西部・デヴォン州出身の()()()船長。海軍軍人でもある。1568年にメキシコのサン・フアン・デ・ウルアでスペイン艦隊の奇襲に遭って以降、カトリックを強く憎悪するようになる。ゴールデン・ハインドというガレオン船で世界を周り、スペイン船を襲撃・略奪していった。1580年、マゼランに次いで、世界で2番目に世界周航を成し遂げた。また、アルマダの海戦の際には、イングランド艦隊副司令官としてスペイン無敵艦隊と対峙している。


 海賊行為以外に、貿易についても少しだけ書いておきましょう。

 この頃に創られた王許の貿易法人には、ロシア会社(1555〜66年)、イーストランド会社(1579年)、レヴァント会社(1581〜92年)、そして、かの有名な東インド会社(1600年)などがあります(多分、東インド会社の設立&東洋との貿易強化には、アルマダの海戦でスペインを下し、オランダと共に海の制覇権を握った事も影響していると思われます)。


 正直、大航海時代については書き足りないところもあるのですが、取り敢えず次に進みます。


 えー、次。社会経済、社会問題について。

 先に言った通り、修道院に貧民らを収容出来なくなったので、救貧のため、その他の代替策が必要になってきました。

 エリザベス女王の時代に、救貧・貧民対策関連の法律が繰り返し議会で審議されたのは、このためです。

 女王が生きた16世紀頃だけに絞って話すと、1597年と1601年の立法によって、大体次のような事が決められました。


・救済の対象者は、働けるか働けないかで分けよう

・働けない人は、出生した教区※で最低限の生活を送れるように救済しよう

・余所者や浮浪者は教区から追い出せ!


※住民の信仰生活の中心であると共に、近世以降は世俗統治のローカルな末端…との事。地域差は大きいものの、一つの教区の人口は平均数百人だったらしい。住民達は、教区の寄り合いでインフラとか貧民への措置について話し合ったため、「小さな議会」などとも呼ばれる。


 何故教区という小さい区域単位で救貧が行われたのか、というのにも理由があります。

 第一に、救貧活動の財源は一般住民の中の、比較的裕福な人達(土地財産所有者)からの税だったから。国家じゃないんですねー。

 第二に、16世紀後半のイギリスは社会的に安定しておらず※、浮浪者達に反乱を起こされでもしたら、政府があっという間に壊滅してしまうから。

※当時は、封建制社会が崩壊して、近代社会へと移る過渡期で、イングランド内は思想・宗教においても、経済・生活の面においても不安が渦巻いていた。


 もう少し詳しく解説していきます。

 最初に挙げた理由については、例があるといいかも知れません。

 例えば貴方が誰かにお金を渡さなければならないとして、友人と赤の他人、何方に渡しますか?

 大体の人は前者だと思います。

 それと同じで、施しを与える側と受ける側が、同じ地域内で知り合える方が、生活共同体としての意識、連帯感を高める事に繋がるため、望ましかったのです。みんな友達、ってやつですね。

 それに、"教区"という字面を見れば分かると思うのですが、この時代の救貧活動は、キリスト教的な慈愛の精神で行われていたので、同じ教会で結ばれた住民同士である方が良かったそうな。

 二つ目の理由については、特にこれといった解説はありませんが、余談として…浮浪者に無秩序にうろうろされても困るので、1572年の法令によって、各教区はその地域の貧民に仕事を与えるよう、規定されました。

 その結果生まれた共同の仕事場こそ、悪名高き救貧院に繋がる"授産所 -workhouse"なるものなのです(ディケンズがけちょんけちょんに言ってた…クリスマスキャロルにも出てくるアレ。基本スタンスは「自分のパンは自分で稼げ」)。


 それから、王立取引所についても言及しておきます。

「悪貨は良貨を駆逐する」という名言で有名な商人・金融業者、トマス・グレシャムが設立した取引所ですね。

 当時の西欧の商業・金融の中心地、アントウェルペン(現在のベルギー、アントワープ)で活躍し、後に王室の銀行家や、その代理人にもなった彼は、1560年の帰国後、ロンドンに商談のための場所がない事に驚き、アントウェルペンに倣って取引所を創ろうと思ったとか何とか。

 それまでは何処で商談してたのかって?そりゃ、セント・ポール大聖堂…(商談って、聖堂でやる事じゃなくないか…?)。

 最初は取引所なんて要らんわ、って感じだったみたいですが、6年かけて何とかかんとか750人の商人から寄付を受け、4000ポンドで用地を購入したそうです。

 それから私財を投じて取引所を建築、完成したのが1569年夏。

 そこからエリザベス女王の訪問を受け、公式に開所されたのは更に2年後の1571年となります。

 この時の建物は残念ながら1666年にロンドンの大火で焼けてしまいます(パン屋何やっとんの!?)。その後再建された建物も1838年の大火でまた焼けて(何てこった)、今ある建物は3代目です。


 さて、大分冗長になりましたが、今回は此処までです。

 次回は、エリザベス女王の外交政策などについて書いていきます。もう暫しお付き合いください。

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