宗教改革〜ジェーン・グレイ処刑
薔薇戦争を終結させたランカスター家のヘンリー7世の息子、ヘンリー8世。
ルネサンス君主であった彼は、最初の奥さんであった、キャサリン・オブ・アラゴン(スペインの王女)という人と離婚がしたくて、宗教改革を起こしています。
じゃあ、そもそも何で離婚したかったのか?
理由を三つ挙げると、こんな感じです。
◎彼女との間に生まれたのが後のメアリー1世だけで、後継ぎとなる男子が生まれなかったから
・イングランドとスペインを結びつける為に政略結婚したはいいが、スペインがメキメキ力をつけてきて、イングランドが飲み込まれるのでは、と恐れたから(スペインは新大陸も見つけて、ウハウハだったんですこの頃)
・キャサリンと、キャサリンの前の夫であるアーサー・テューダー(ヘンリー8世の兄だったが、15歳の若さで亡くなった)との間に肉体関係があったのではないかと疑ったから(どう考えても苦し紛れです本当にありがとうございました)
因みに、キャサリン・オブ・アラゴンの娘メアリー1世は、「ブラッティー・メアリー」という真っ赤なカクテルの名前にもなっています。
プロテスタントを処刑しまくった事がその由来です。ほら、ラティマー司教とか。
それはさておき、上記の理由で、ヘンリー8世は離婚したがった訳ですが、奥さんのキャサリンは、当時の神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)の叔母さん。
まあ、離婚してしまえば、カールを怒らせかねないですよね。
どう考えてもやばいでしょう。スペインと神聖ローマ帝国、二つも冠被ってる奴ですからね。めっさ権力者。
しかも、「イタリア戦争(フランスvsスペイン=ハプスブルク家)」を有利に進めたために、ローマ教皇すらその支配下に置いていましたし。フランソワ1世はおこ。
だから、ローマ教皇クレメンス7世は二人の離婚を認める訳にはいかなかったのです。
正確にいえば、「離婚する」ではなく、「結婚をなかった事にする」といった感じですが…
この問題には当初、ヘンリー8世の治世を支えており、教皇庁にも勢力を持っていたトマス・ウルジ枢機卿(あと大法官)が取り組みましたが、上手くいかず、離婚出来なかったため、信用を失った彼らは失脚しています。
後任にはエラスムスの親友で、「ユートピア」書いた事でも知られるトマス・モアが就きましたが、ヘンリー8世と違って、家族と上手くいっていたモアは、彼にキャサリン王妃とよりを戻すよう勧めて(フィッシャー司教もそれを勧めてた)、そのせいで後に首ちょんぱされます。
因みに、ちょんぱされた首は半茹でで竿の先に突き刺され、ロンドン・ブリッジで晒されました。酷い事するね。
しかし、モアの娘が中々やり手で、橋の番人に賄賂掴ませて首を降ろして貰い、家にこっそり持って帰ったそう。やるな。しかし、この話はソースが一個しかないので、ネタと思って聞いておいてください。
…話が脱線しました。
とにかく離婚するには、ローマ教皇と決別する必要があり、ヘンリー8世は宗教改革に踏み切る事に(元々敬虔なカトリックだったのですが…「信仰の擁護者 -defender of the faith」なんて称号もらってる位ですし)。
一言でまとめると、
「え、カトリックのままだと離婚できない?じゃあカトリックやめるわ」という事です。
…すごいですよね。
そんなこんなで、ヘンリー8世はキャサリンと離婚し、1533年にアン・ブリンと再婚。
因みに、この辺りでヘンリー8世を支えている忠臣は、トマス・クロムウェルです。何だかトマスばっかりですね。
ヘンリー8世は、1534年には「国王至上法(首長法)」を宣言して、英国教会の首長となりました。1538年には、ローマ教皇パウルス3世に破門されています。
また、アンとの間に、エリザベス1世を設けます。
というか、離婚問題でゴタゴタしてた頃に、彼女はエリザベス1世を妊娠してました。
…こんな事書くと気を悪くされる方がいるかも知れませんが、このフランス帰りの女官、手の指は6本、乳房は3つあったらしいですよ(少なくともウィリアム・パウエル・フリスの絵では普通に描かれてますし、真偽の程はかなり怪しいですが)。凄い変わり種ですよね。正直ちょっと気持ちわr
1533年の「上訴禁止法」は、アンの妊娠が分かった後、イングランドが「うちは至上権力が隅々に及ぶ主権国家なんだぞ!」と宣言し、周り(ローマとか)に有無を言せずにさっさと離婚するための法律でした。ちょっと言い方悪いけどね。
その後、ヘンリー8世は財政を立て直す為(大陸での戦いとかで財政破綻してたので…)、1536年と39年にそれぞれ「小修道院解散法」と「大修道院解散法」を出し、修道院から土地を獲得しています。
既に底を尽きていたヘンリー7世(ヘンリー8世の父)の遺産に代わる財源を、当時800以上もあって、国土の4分の1程度を占めていた修道院に見出したんですね。
結局、戦費などを賄う為、後に土地は貴族やジェントリー、大商人に売却され、エリザベス1世の時代には、その4分の3が国王の手から失われてしまうのですが…
(これのおかげで、ブルジョワ・ジェントリーは力をつけた〜とか、色々考えていくと面白いですね)
ともかく、話を戻します。
アン・ブリンと再婚したヘンリー8世でしたが、結局また、後継ぎとなる男子は生まれませんでした(アンの妊娠中、ヘンリー8世が馬上槍試合で落馬して死に掛け、その知らせを聞いた彼女は驚いて流産しています)。
男児だったかは置いといて、これにはヘンリーも失望してしまい(おめーが落馬したせいだろ!)。
最終的にアンに愛想を尽かしたヘンリー8世は、アンを、彼女の兄との姦通罪やら魔術を使った罪(上記の障害が根拠になっているのでしょうか)やらを着せて彼女を処刑してしまいます。勿論、冤罪説が濃厚。ひでぇ。
因みに、アンが処刑された1536年に、前妻キャサリンも亡くなっています(余談ですが、この年に「連合法(合同法)」に基づき、ウェールズが併合されてます)。
ああ、そうそう。キャサリンには、毒殺説もあるらしいですよ。
キャサリンが亡くなった時には、ヘンリーとアンは黄色い衣装を着て祝ったそう。
それがどうしてああなった?しかも同じ年に。
何かもう、この辺は腐れ外道過ぎて一周周って笑えてきます。
しかも、アンの処刑の翌日には、ヘンリー8世は、多産のシーモア家の娘、ジェーン・シーモアという女性と婚約しています。またかよ。
そして、このジェーンが1537年、ようやっと待望の後継ぎ・エドワード6世を出産しました。
但し、ジェーンは出産直後に、産褥熱で亡くなってしまいます。
悲しみに暮れるヘンリー8世。
しかし立ち直り、ウルジ失脚後、活躍し始めたトマス・クロムウェルに新しい妻を探させる事に。えええええ。
そして、アン・オブ・クレーブス、通称「フランドルの雌馬」(酷い渾名ですね…)と再婚…しますが!やっぱり上手くいかなくて離婚しています。
政治的には良い結婚だったようですが、ヘンリー的にはクレーブスというか、ヒデーブスじゃないか!って感じだったらしい。
<ドイツ・クレーヴェ公女アンとの結婚>
当時の偉い人達は、結婚前に顔を合わせる機会などなく、肖像画を見合い写真代わりにしていました。
ヘンリー8世も例に漏れず、ハンス・ホルバイン(1497or1498〜1543年)という画家が描いたアンの肖像画を見て、彼女との結婚を決めました。
だが、しかし。
やって来たアン本人を見て、ヘンリーの期待は大きく裏切られます。
何か、絵と違う…
ヘンリーは、「肖像画と全然違う!醜いではないか!」と、怒り狂ったそうな。
しかも、この結婚はトマス・クロムウェルのアイデアだったので、クロムウェルは首を刎ねられてしまいます。この時、ホルバインはさぞかし怖かったでしょうね。次は、アンの肖像画を描いた自分かも知れない…と。
クロムウェルって、宗教改革の時にビラとか作ったり、ローマ教会攻撃したり、修道院の財産ボッシュートしたり、色々ヘンリーに協力してたんですけどね…暴君め、ちょっとやらかすと直ぐ首ちょんぱなんだから…
1539年、カール5世(神聖ローマ帝国皇帝・スペイン国王)とフランソワ1世(フランス王)が同盟した後は、神聖ローマとフランスが攻めて来る妄想に取り憑かれ、沿岸部の防護を固めまくった上、同盟国とヨーロッパ大陸からの後妻を強く求める様になります。
結局、ヘンリー8世は生涯の内6回結婚しました。わーお、バツ5ですよ!人生の内、何回聞く言葉でしょうね!
因みに、アン・オブ・クレーブスの後の妻は女官キャサリン・ハワード、こちらはヘンリー8世には賢すぎたようで(皮肉)、首刎ねられてます。まあ、有り体に言えば、不倫したとの事です。ちゃんとした真偽は不明らしいですが。
その後にキャサリン・パーと最後の結婚をしました。
パーは、ヘンリー8世の晩年を支えた良妻賢母だったそうです。義理の娘・息子であるメアリー、エリザベス、エドワードの養育にも気を遣っていました。
ヘンリー8世の晩年である1540年代には、彼は再び軍事的な野心を抱き、当時フランスと手を組んで、イングランドの脅威になっていたスコットランドを併合しようとします。
失敗したけど。
1545年には王立艦隊を創立、「メアリー・ローズ号」など、181隻の艦隊を招集。
海軍増強に務めました。
それでもって、カール5世と結んでフランスとの直接対決に乗り出します(ハプスブルク家とヴァロワ朝フランスは仲が悪いのです)が、ブローニュ(地図を見れば分かりますが、めっちゃイングランドの近所です)を占領した程度で上手くいかず、1546年に病死します。
彼の死後、その遺言に乗っ取り(エドワード6世→メアリー1世→エリザベス1世の順に即位するという内容)、僅か9歳にしてエドワード6世が即位します。
まあ、彼の治世下で実際にイングランドを支配していたのは、サマセット公エドワード・シーモア(以下サマセット公)ですけれど…
敬虔な少年王は幻想だったんだ…
ともかく、サマセット公はプロテスタントだった為、より一層、宗教改革を推し進めます(ヘンリー8世は宗教改革したっていっても、ほぼカトリック※1で、1539年の「六カ条法」何かはだいぶ保守的だったのです)。
プロテスタント信仰の邪魔になる法律は廃止し、1549年の「礼拝統一法」で、英語での礼拝を義務化(それまではラテン語が中心だった)。この年に、英語による最初の祈祷書も作成されています(3年後によりプロテスタント的に改定)。
その後も幾つか法律を打ち出し、1553年に決められた「四十二カ条の信仰箇条」※2によって、この時期の宗教改革は頂点を迎えました。
※1改革の動機からして、純粋な宗教上の教義についての違いや対立が大きかった訳ではない。
「六カ条法」においても、ルターやカルヴァンの教説を否定し、ローマ・カトリックの教義や儀式・祭礼を重んじている。
但し、次第にプロテスタント的な傾向が強まっていった。
※2主に、トマス・クランマの手によって成立。
ルターの「信仰義認説」や、聖書の重要性の強調など、プロテスタントの原理が盛り込まれた。
しかし、サマセット公はヘンリー8世同様、スコットランドの統合に失敗(スコットランドの女王メアリー・スチュアートを攫おうとするもしくじって、メアリーはフランス国王アンリ2世の所へ逃げ、後にその息子・フランソワ2世と婚約、結婚してしまいます)。
後には、スコットランドの同盟国・フランスとの戦争費用が重くのしかかりました。
挙句、1549年の「ケットの反乱」※1の鎮圧にも失敗したサマセット公は、とうとうノーサンバランド公ジョン・ダドリー(以下ノーサンバランド公)に失脚させられ、1552年には処刑されてしまいます。
※1囲い込み※2反対〜!貧乏な水夫と漁民は、国王に被害を与えない限り、漁獲の全利益を得られる様にする事と、河川の解放もして欲しい!っていう内容の反乱。
※2此処では第一次囲い込みの事。
羊、育てるよ!そのために大きな土地が要るから、違法だけど強引にゲットしちゃうよ!ってやつ。首ちょんぱされたトマス・モアが、『ユートピア』の中で「羊が人間を食べている」って批判していた。
ノーサンバランド公は、権力を握るとすぐに財政を圧迫していた、フランス・スコットランド戦争の講和を結びます。
更に、プロテスタント的な改革を進め、それから、ヘンリー8世の頃からのさばっていた悪質な貨幣を、良質な貨幣に改鋳しました。…まあ、輸出にストップがかかり、あまりいい結果にはなりませんでしたが。
その後、生まれつきの病弱(梅毒?)で、余命幾ばくもないエドワード6世に、自分の息子(四男のギルフォード)の妻である、ジェーン・グレイ(ヘンリー7世のひ孫)を次の王にする遺言を書かせます。
だって、何の遺言もなければ、カトリックのメアリーが次の女王になりますし(ノーサンバランド公はプロテスタント的改革をして来たので、メアリーに嫌われるのは目に見えてるでしょう?)、プロテスタント(正確には英国教会)だったエドワード6世は、姉の信仰をおかしいと思っていたそうですから。
しかし、エドワード6世が亡くなり(この時僅か15歳!)、ジェーン・グレイが即位した際、彼は、メアリーを拘束する事が出来ませんでした。
結局、ジェーンはそのまま女王となりますが、逃げたメアリーがサフォークで反乱すると、人々はメアリーを支持し(だってプロテスタントとか過激派の清教徒はエロい事もお酒も禁止!みたいな奴らばっかだし…国民はそういう事したかったんですよ、きっと)、貪欲なノーサンバランド公と、ある意味その犠牲となったジェーン・グレイ(この時16歳4ヶ月)、そして彼女の夫はたった9日間で廃位させられ、処刑※されてしまいます。
※1554年2月12日。ジェーンはタワー・グリーン、ギルフォードはタワー・ヒルにて。一応、メアリー1世はジェーン・グレイに、カトリックへの改宗と引き換えの助命を提案しています。拒否されたので、処刑しましたけども。
<まとめ>
①ヘンリー8世、離婚のために英国教会をつくる
②ヘンリー8世、フランスをボコるためにお金使いまくって、死ぬ
③エドワード6世、即位
④サマセット公、プロテスタント的改革を進めるも、失脚・処刑
⑤ノーサンバランド公、権力を握り、息子を偉い人の曾孫と結婚させる&エドワード6世、死す
⑥↑の息子の嫁ジェーン・グレイ、即位するも、9日間で廃位・処刑
⑦メアリー1世、即位
あんまりゆるくないですね…
しかも、異様に()が多い。分かり辛っ!
こんな駄文をここまで読んで下さり、ありがとうございました!