Hello, Variants (3)
馬車を降りると、月がやっと顔を出した。輪郭がぼやけるほど眩しく見えた月は足元の、枝を麻縄で縛られた木を冷たく照らしていた。
眼前に並ぶ青リンゴの皮をむいたような山々は鉱山で、バールフはその坑道を巣にしているらしい。私は丸太を尻目に準備運動を始める。
「ところでハインケスさんよ、あんたそんなモノで大丈夫なのか?」
「いや……まあ、使い慣れたものの方が楽ですしこれは……」
言いかけた口を閉じると、飛んでくると思っていた続きの催促は意外にも来なかった。ギロチンの入った袋と大剣を軽々と担ぎ上げて、彼はいう。
「そうだな。さて……行けるかい?」
もちろん。そう答える代わりに、きゅっと口結び、頷いた。
とは言っても、巣にされている坑道の入口までは少し歩かなければならない……鎧はまあ、そこまで重くないが。50歳を過ぎているであろうギルには堪えるんじゃないだろうか。そんな不安を予想していたかのように、また言われまいとするようにずんずんと一人で歩いていくこの人に、私はうまく説明できない奇妙な感覚を覚えていた。
山道(軽く舗装済み)を歩いている途中に、なぜかギルが持っていた半径10cmの小鍋について尋ねてみると「俺がここで鉱夫になる前は、山に生えてたきのこを食って意識が飛んだ奴がいたからよぉ、まだ生えてたら麻酔にできるんじゃねえかと思ってな」と、存外頼もしいセリフが帰ってきた。
「鉱夫の前は調薬師だったのですか」
しばし黙って──馬車でのやりとりのデジャヴな気もするが──笑いながらこういった。
「いいや。だが、よく使うんでな」
***
「ここだな」
「ここですね」
互いにわかりきったことを口に出し、ものの数分でついてしまった“獣”の巣窟に向かい、気持ちを落ち着ける。
狩りを終えて眠りにつく夜更け間際のこの時間。眠っていてくれと祈りつつ、手持ちのランプを消してゆっくりと足を踏み出す。
坑道の中は、武器の関係で私の後に入ってきたギルでも立って進める程度には広かった。足元の錆び付いたレールに転ばないように気をつけつつ、無音の闇に目を凝らす。
「大丈夫か?」
ささやくギルにハンドサインで返した私は、すぐにサインで「止まれ」と送りなおすはめになった。私の足音が変わったのだ。視線を落とし、地面を触ってみてすぐわかった……特徴的なぬめりは血液だ。そして触れていた壁がなくなり、採掘場に出たとわかった。採掘場では、有毒ガスが発生した時のために通気口が用意される。そこから差し込む月光に、私は団子を吐き出しそうになった。
酷く顔をしかめた私の立っているここと、3つばかりあるさらに奥へ進む坑道の近くに、軽装の男たちが腹部や首を裂かれ、乾き始めている血潮に転がっていた。双眼鏡にランプ、持っている道具から察するに斥候たちか……。
だが、この状況で幸いと言って良いのか、今回のターゲットは採掘場の真ん中で群れに囲まれ月光に照らされながら眠って動かない。1m前後のバールフ達5頭が群れのリーダーのターゲットを囲んでいるということは、ギロチンの用意までに12の耳と6つの鼻に気がつかれないようにしなければならないわけだ。
「一旦出直しましょう」
私のサインに気がついて(いなくても逃げたくなるが)、くるりと後ろを向くギル。さあ、静かに逃げれば問題ないのだが──そう思った瞬間、間抜けな声とともにギルが血に滑った。……今でこそこうして書き綴ることができるが、その場で私がギルをぶった切ってやろうかと本気で考えたことについては情状酌量の余地があっても良いと思う。
***
心臓の鼓動が早鐘みたいに耳元で響く中、私へ1匹、ギル目掛けて2匹、小さなバールフが突っ込んできた。それらを視界の淵に入れた瞬間、私は両鞘から剣を抜きギルとバールフのあいだに走る。地面を蹴り込み「さっさと立て!」と叫びながら先頭のバールフの頚動脈めがけて左の剣を突き込むと、鈍い衝突とともに肉を引き裂く慣れてしまった感覚が手のひらに伝わる。
そのまま前転し振り返り、ギルを狙っていたもう1匹が反射的に後ろに跳ねたのを聞くと、私を追ってきたバールフが目前に迫っていた。飛び込んできた獣に対して仰け反ると同時に右の剣を顎の下から叩き込む。起き上がって地がこちらへかからないように両剣を抜き、ギルが一刀両断した首と、それにくっついていた胴だけの獣を尻目にターゲットへ視線を向ける。残りの2匹と一緒にまだ様子を伺っているようだが、あの巨体に私の剣は届かないだろうな……
「ギルさん、まだ殉職したくないですよね」
今さっき私を殺しかけ、死にかけた男に答えの見えている問を小声で投げてみる。私と同じく脂汗の浮いた顔をが頷くのをみとめたとき、突然バールフ達が遠吠えを始めた。仲間を呼んでいるとしたら──そうでなくても、早く逃げねば。
「ギルさん、私の合図で剣と荷物を置いて出口へ走ってください。道はさっきの通りですので、コケたらあいつらと心中してもらいます」
返事を待たずにポーチからカラーボールを3つ取り出し、深呼吸の後、右手のボールを2つ奴らと私らの間に山なりに投げる。と同時にギルに「走れ!」と叫ぶ。奴らが追ってくるのはわかっている。だが、逃げの一手ではない。これは、攻めの一手だ。
奴らが駆け出した気配の下時には入ってきた坑道に駆け込み、そこにもカラーボールを叩きつけることができた。坂を駆け上がり、ポーチから火炎瓶を取り出し、安全機構セーフティを外す。ギルが入口(もはや出口だが)へ到達したのを見届けた私は後ろへと火炎瓶を放り込んだ。
──さて、これを読んでいる君。カラーボールに使われている粉は紅花という赤い花から作られた染料なのだが、これは燃えるんだ。可燃性の粉塵と、火。そう、つまり──
鼓膜と禿山を揺らす爆発を背に、私たちは馬車に駆け込み、敗走した。