第1章 ③
(嘘でしょ?)
少しずつ、顔から指を引きはがしていく。
そこには、ファンタジー世界がそのまま眼前に広がっていた。
テレビで見た西洋の金ぴか宮殿。
白と金を基調とした豪奢な壁と、両親二人分のベッドよりも大きなてかてかの机。
椎菜がへたりこんでいる床は、つるつるの大理石だった。
そこに何やら怪しげな模様が刻まれている。
今まで椎菜がいたアパートの床は、色落ちした絨毯が敷かれていたはずだ。
目を閉じただけで、部屋が変わるなんて、どんなマジックだろうか。
もはや、大口を開けてぽかんとするしかない椎菜の耳元に、熱い息がかかった。
「うわっ!」
思わず仰け反った椎菜を、ひょいと骨張った腕が支えた。
「……おい」
「その声は?」
受話器越しに聞いていた低音だった。
しかし、声質は変わっていた。
今までくぐもっていたはずの声は、間近で聴くと澄んだ響きを持っていた。
椎菜は受話器を持っていない。男とは今まさに面と向かって話しているのだ。
「どうして……どうやって私はここに?」
(それに……)
「外国人?」
驚いたことに男は外国人だった。電話では、日本語がぺらぺらだったから、まったくこんなことは予想していなかった。
金髪、碧眼。麗しい容貌と、白の上下に金縁の襟は、アニメで見た王子そのまんまだった。
おかっぱ頭でなく、長い髪を一つに束ねているのが残念だったが、これで薔薇を咥えて、白馬に乗っていればほぼ完璧に近い。
「あのー。貴方は?」
――何でコスプレをしているんですか?
思わず口に出そうとして、慌てて椎菜は首を振った。
そんなことを訊いて、機嫌を損ねられても困る。
「お客様のお名前は、伊藤様ではなかったのですか?」
「イトー? 何だ。それは? 私の名前はオーディン=リムブール=フィルロネラ=レクス」
「オー……ディンさん?」
一体、伊藤は何処にいったのだろうか。まったく一文字もかぶらない。
「私のことはレクスで良い。姓が関わると色々と面倒だ。レクスの名は庶民の誰も知らぬ」
「はあ……」
庶民も何も、外人の名前など椎菜にとってはどうだって良いのだが……。
この青年はどうやって、椎菜をアパートから連れ出したのか。そのほうが、よっぽど面倒ではないか……。
(もしかして、私犯罪に巻き込まれているとか?)
ただ掃除機を売り裁こうとしただけなのに、さっぱり分からない。
いや、拉致したくなるほど電話セールスされたのが嫌だったのか?
男は腕を組んで、あらゆる角度から椎菜を眺めていた。
正直、気持ち悪いが、椎菜は恐怖心で抵抗することが出来なかった。
「イズク。この女で大丈夫なのか。見た目はリムブール人と変わらないが?」
突然レクスはあらぬ方角を見て、尋ねた。
視線の先を追ってみると、部屋の隅に、暗闇……ではなく、黒ずくめの男がいた。
「俺の召喚術が信用できませんか?」
(喋った……)
遠巻きに、人形のような姿勢で直立していた男が顔色を変えず口だけ動かした。
ややあどけなさの残る顔をしていたが、とにかく表情がないことが特徴だった。
レクスよりも、大柄なのに気配もなくこちらにやって来る。
いや、椎菜が夢を見ているとしたら、そういうのも有りだろう。
黒のチュニックの上に、長ったらしい灰色のローブをまとっている。
この男、単純に勢いに乗ってコスプレするタイプには見えないのだが……。
「俺の術に間違いありませんよ。……この者です」
「女だぞ。それに、まだ若い。こんな者と商談などして良いのだろうか?」
「殿下。召喚する前から女だってことは分かっていたじゃないですか?」
(……殿下?)
コスプレだけではない。上下関係と身分まで徹底した西洋ファンタジーごっこのようだ。
「もっと、年がいっているのかと思ったんだ。色仕掛けとかが専門かと」
「はあっ!?」
椎菜は思わず仰け反った。夢なら覚めろと、自分の頬を軽く叩いてみたが、その無駄に綺麗な男は悪びれたふうもなく、きょとんとした顔で椎菜の前に立っている。
(どうしよう……)
最初から、色仕掛けを期待して椎菜を拉致したのか。だったら、コスプレ好きでも、西洋ファンタジーマニアでもない。ただの犯罪者だ。
「何を驚く? 色仕掛けはしないのか?」
「あいにく当社は、そのようなサービスはまったくしておらず……」
椎菜は、しどろもどろになりながら説明した。
「そうだな。お前じゃ無理だろう」
「なっ……!?」
何を言うんだ。この男。冗談じゃないとは思っているが、まるで椎菜の子供っぽさを指摘されたようで、ちょっと傷ついた。
確かに椎菜は若い。格好も制服だし、スカートの丈は学校標準の膝丈程度。ポニーテールは一層童顔を引き立てている。販売員として、怪しまれるのは当然だとは思う。
だが、一番怪しいのはお前たちだろう。突っ込みたいのは椎菜のほうだった。
椎菜は傍らにあった掃除機の入っているダンボールを手繰り寄せた。
夢でないということを主張できるのは、もはやこのダンボールの掃除機しかなかった。
「それがお前の商売道具か?」
「はい」
とりあえず、椎菜は本能的に営業スマイルを作った。
ダンボールからガムテープをはがす。
見本として一台だけ掃除機を目にしていたが、詳しい機能についてはよく知らない。発泡スチロールが一杯につまったダンボールから、作りだけは格好良い黒の掃除機を取り出した。
……重い。
椎菜の妹並みの重さだった。
(さすが二十万……)
よろよろと取り出すと、椎菜の非力さにレクスが顔を顰めていた。
「お前、大丈夫なのか。そんなんで?」
まるで庶民の小娘を小馬鹿にしている貴族の顔つきに、つい椎菜もむきになった。
「えー。こちらの商品のテーマはエコ。ソーラーエネルギーで可動します。手間なコンセントは必要なく……」
「だから、まったく意味が分からんと言っているだろう」
レクスは興が失せたのか、椎菜から目を逸らした。
「なあイズク。私は、この者では駄目だと思う」
「殿下。そう、わがままをおっしゃられましてもね」
(くそーっ)
やはり、椎菜が掃除機の機能を説明したところで、馬鹿なのか、説明嫌いなのか、レクスは耳を傾けてくれない。――ならば。
(実際に操作するしかないわ……)
幸い部屋は金ぴか。日当たりも良く、目映いばかりに陽光が差し込んでいる。
掃除機に埋め込まれた太陽電池が反応していた。
電気のバロメーターが赤くなっている。電気が注入されている証拠だった。
「よしっ」
椎菜は試しにノズルについている掃除機のスイッチをONにした。
「なっ!」
「うわっ」
その場にいた三人の何とも言えない声が室内に轟いた。
――迂闊だった。
椎菜の思っていた以上に、掃除機の吸引力は強かった。
勢いに従わざるを得なくて、体が前のめりになる。そこにはレクスがいた。
「ひゃあ!?」
「うぉぉっ!」
不穏な音と共に、レクスがおもいっきり掃除機に引き摺られた。
「えっ。嘘。ちょっと嫌だ」
椎菜が混乱して、ノズルを引っ張ると、更にレクスが苦しんだ。
「いたたたたた!」
レクスの無駄に長い金髪を、掃除機は容赦なく吸い込んでいる。
「娘さん。……どうにかして下さい」
意外に淡々とした様子で、イズクが言った。
「ど、どうにかって」
椎菜は完全にパニック状態だった。手が震えて電源を押すことが出来ない。
「かみ、髪が……。私の髪がああああっ!」
「殿下っ!?」
人形のような顔をしていたイズクまでもが驚いたようだった。
「す、すいません! 思った以上に強力な……、凄まじい性能を秘めていたようで」
椎菜はめちゃくちゃなことを口走りながら、急いで電源を切った。……殺される。
(夢の中だっていうのに?)
「ごめんなさいっ!」
椎菜はその場に膝をついて、生まれてはじめて土下座をした。
「あのなー。娘……」
やっと掃除機から解放されたレクスが部屋の奥に消えたと思ったら、すぐに戻ってきた。
(どうしよー)
絶対に怒っているはずだ。手に持っているのは凶器だろうか?
これから何をされるか分からない。椎菜は泣きそうになって、きつく目を閉じた。
じゃらじゃらと何かが目の前に落とされた気配がして、背筋が寒くなる。
(一体、何の道具を調達してきたのよ?)
拷問か?
そういうプレイに強制移行なのか……?
しかし、椎菜は何もされなかった。
叱責すらされない。
「どうして?」
おそるおそる目を開ける。……と。
(あれ……?)
外は夕闇に染まっていた。
陽の色が違う。先ほどの目映いばかりの太陽はどこにもなかった。
椎菜の正座しているぼろぼろの絨毯には、わずかに西日の温かさが残っていた。
「……ここは」
父の会社。アパートの一室ではないか。
「……夢だったんだ」
ほっとして、笑みが零れると同時に腹立たしくなった。
随分と手のこんだ性質の悪い夢だった。何故、自分は怪しげな異国の王子もどきなんぞに、必死になって掃除機を売り飛ばそうとしていたのか。
「嫌だな。まだ一日目だっていうのに、もう疲れちゃったのかな……」
椎菜は盛大に息を吐いて、ついでに絨毯に手をついてうなだれた。
だが、その手が何かごつごつした異物を掴んでいた。
(……何?)
おそるおそる、周りを見回せば、煌びやかな宝石が山のようにして椎菜を取り囲んでいた。
「うそ……?」
さきほど、レクスはこれを取りに部屋の奥に行ったのだろう。
しかし、どうして報酬を支払う気になったのだろうか?
――いや、まず何より……。
「――夢じゃなかったの?」
椎菜の独り言は冷えた室内に、ぽつりと落ちて消えた。




