第3章 ⑤
昔訪れた母の実家のような田園風景だった。
水車と古民家。煙突からは白い煙が上がっている。
だが、椎菜が知っている風景には、風車と小麦畑はなかったし、馬車の往来もない。
少なくとも車だった。やはり、椎菜の記憶の中の景色というわけではないらしい。
一歩も屋敷の外に出たことがなかった椎菜としては、衝撃ではあった。
ラングレの屋敷を出て、小麦畑を横切り、小高い丘にかけのぼった。
注目を集めるようにして植わっている大木の裏で、椎菜とレクスは休んでいた。
馬車ですぐに帰るという選択肢もあったのに、こんなふうに目立つ場所で二人きりでいるのは、主にレクスの気分が悪くなったせいだった。
「…………女じゃない。シーナは異世界の動物。メス。メス。メス」
「失敬な……」
いくら、気持ちを落ち着けるためとはいえ失礼な奴だ。
椎菜は少し離れて木に寄りかかった。
聞きたいことは山程ある。しかし、何よりこの一言を言わずにはいられなかった。
「――本当に、女嫌いなんですね?」
「……らしいな」
レクスは口に当てていた手を放した。漫画のキャラのように青筋の入った顔は、美丈夫も台無しなほど蒼白かった。
少し椎菜は落ち込んでいた。レクスとは他愛もない話を色々としてきた。イズクの期待に応えたいというわけでもなかったが、もしかしたら、椎菜であれば大丈夫なのではないかと思っていたのだ。女扱いされているのは、嬉しいことかもしれない。だけど、こんなふうに具合が悪くなられてしまっては、自分のせいではないのに罪悪感もこみ上げてくる。
レクスも椎菜の暗い気持ちに感づいたのか、少し考えてまた首を振って、深呼吸してから、小声で呟いた。
「そんな顔をしないでくれ」
「……元々こんな顔ですよ」
「そうか……。じゃあ傷ついたわけじゃないな」
「うぬぼれないで下さい」
「実は……。私は、女と手を繋いだのが初めてだったんだ」
「――ごほっ」
椎菜は思わず、むせた。
「何だ。その顔は?」
「元々、こんな顔なだけで……」
笑いをこらえているせいか、変な顔になっていたのかもしれない。
椎菜は、にやけてしまいそうになるのを懸命に耐えた。
「レクス様は、どうして女の人が嫌いなんですか?」
「どうしてって……。そんな」
発作的にレクスは、椎菜との距離をあけた。どうやら、トラウマに触れてしまったらしい。
「そ、そうですよね。別にどうだっていいじゃないですかね。そんなこと……。ははっ」
荒っぽく話題を流してみせた椎菜だったが、レクスは流されてはくれなかった。
むっつりと押し黙っている。
「……レクス様?」
レクスは周囲にきょろきょろと気を配り、人がいないことを確認してから呟いた。
「私が女嫌いになったのは、両親のせいだ」
「両親……。それって?」
レクスの父は無論国王。母は后ということだ。
「言っただろう。父は政治に興味がない。毎日遊興三昧だ。そして好色。イズクは私と腹違いの兄だ。母が違う」
「そんなことを聞いたような……」
「子供の頃、何度も見たんだ。父上が母上以外の女性に鼻の下を伸ばしている所を……」
それは、ちょっと……。いや、かなりヘビーかもしれない。
「世の中珍しくもなんともないことらしいが、結構、衝撃的だったぞ。何しろ私は子供だったからな。父親が毎日違う女性をとっかえひっかえしているのを見たら、さすがに嫌気も差してくる。それで嫉妬に狂った母の顔を毎日見ていれば、恐ろしくて仕方ない」
「まあ。そりゃあ……」
女嫌いにもなるだろう。
「幼い頃から、そういうわけで父上、母上とも、まともに話をした記憶がないんだ。だからかな。愛情を持たれているとは思えない。父上が私を追放したくなるのも分かるような気がする」
「……そんな!」
「何だ?」
レクスが驚く。椎菜は、感情的になって捲くし立てた。
「そんなの理解しちゃ、駄目だと思います。私の父は、借金こさえた挙句、突然姿をくらませてしまいました。黙っていられることほど辛いことはないです。本当に辛いんです。話し合いは大切ですよ。……レクス様」
「…………シーナ?」
――どうして、父は消えてしまったのだろう。黙って消えてしまうのは酷い。
……それでも、椎菜の父親なのだ。切っても切れない縁がある。
「イグリードを葬れば、父は目を覚ましてくれるかもしれないと思っていた。私は……」
「違います!」
椎菜は、完全に感情的になっていた。
「それがおかしいんですよ。考えが飛躍しすぎです。暗殺なんて、逃げじゃないですか。自分の手を汚すことなく、対話するでもなく、いきなり実力行使なんてひどすぎます」
「……そうかな?」
「そうですとも!」
鼻息荒く、腰に手を当て背中を反らすと、レクスはぷっと吹き出した。
椎菜は我慢したのに、ずるい。
「確かに、お前の言う通りかもしれないな。私は今までこんな話を誰かにしたこともなければ、父と話そうともしなかった。最悪の事態になってしまうのを、傍観してるしかないと思ってた」
レクスは勢いよく立ち上がった。顔色がすっかり良くなっている。それは良かったのだが。
「じゃあ、一つ。お前の熱意をくんで、私も動いてみることにしようか」
「はっ?」
椎菜は自分の意見を押し付けただけだ。レクスを励ましたわけでも、諭したわけでもない。レクスはもったいぶって咳払いしてから、重々しく告げた。
「父上とちゃんと話をする」
「えっ。出来るんですか?」
「父上にお会いすることは無理だったが、母上となら会うことは可能だろう。もちろん、少人数で行かなければ怪しまれるが」
「何だ。だったら、もっと早く……」
暗殺にまで考えが飛躍する前に、その手に出られなかったのだろうか。
椎菜はてっきり、追放されてしまったから、王宮に立ち入れないのだと思っていた。
冷ややかな眼差しを向ける椎菜にレクスも溜息をついた。
「言っただろう。私は父上も苦手だが、母上はもっと苦手なのだ。出来れば会いたくなかったが、まあ、少しお前と話して女のことを見直してみようかと思ったんだ。私にとっては、画期的なことなんだぞ」
「はあ」
反乱やら、暗殺やら恐ろしい単語が並んでいたわりに、問題の根本はそこだったらしい。
(女嫌いって、お母さんも入っていたのか……?)
それは重症だ。イズクも心配するだろう。
「……それでだ。もし、母上を介して父上との交渉が決裂になった場合、お前にイグリードを葬ってもらう。これで良いだろう?」
「ちょっ! よくないでしょう!!」
何が良いのか、ちっとも分からない。相変わらず、物騒な単語が並んでいるではないか。
「何故だ。当然だろう? イグリードは私の力を封印した何かを隠匿しているはずだ。私の力を取り戻すためにはそれを取り戻すか、術者のイグリードを葬るしかない」
「でも、もっと穏やかにね。そう簡単に殺すとか言っちゃ駄目です。日本じゃ捕まりますから」
「まあ、いきりたつな。シーナ。あくまでも、お前は最終手段だ」
「私を最終手段に使わないで下さい」
「なかなか謙虚な殺し屋だな。そういうのは嫌いではないぞ」
……駄目だ。このバカ王子の頭の中は、自己都合でしか構築されていない。
何をどう説明したら良いのか。いや、全部説明してしまったら、イズクが怒るかもしれない。暗澹たる思いで沈黙していると……。
「イズク!」
背筋が震えた。レクスは椎菜を軽やかに無視して、両手を振る。
仏頂面にわずかな変化も与えることなく、イズクは真っ直ぐこちらにやってくる。
「珍しいな。お前が私を迎えに来るなんて?」
「まさか。俺はラングレ将軍と話すために来ただけです。殿下の迎えはそのついでです」
「話し?」
怪訝な顔つきのレクスに対して、イズクは氷の微笑を浮かべてみせた。
「子供の喧嘩にしゃしゃり出るわけにはいかないと控えていた親が、いよいよ自分の安全すら脅かされると、重い腰を上げて相手の親に注意をしに来た構図がもっとも近いかもしれません」
「すまん。お前が何を言っているのか分からない」
「良いんです。分からないように言っているんで……」
「何だ、そうか。どうりで分からないと思った」
それで納得してしまうレクスもどうなんだろうか。
「それに、シーナさん」
「はい?」
いきなり話をふられた椎菜は竦みあがった。
「暗殺道具を忘れたようですね。ほら」
イズクは、親切にダンボールごと掃除機を投げて寄越した。
「あのー…………」
「何か? ああ、そうでしたハサミをつけるのを忘れてました。すいません。易々、メイドごときに攫われてしまう貴方には、それくらいの装備は必要ですよね」
(イヤミですか)
ただの嫌がらせで大掛かりなことをする。
椎菜は頬をひきつらせながら、重い掃除機を受け取って、…………見事に落とした。




