くまさん
まだまだ暑さの残る九月半ば、すでに私はボロボロだった。理由は一週間後に迫った学園祭「風城祭」があるからなんだけど、私にはもう少し別の理由もあった。
他のクラスは夏休み前には出し物を決めて少しずつ準備を始めていた。だが我が一年C組はほんの三日前まで出し物が決まらなかった。おばけ屋敷、ミュージカル、雀荘(?)など好き勝手に意見を出しておきながら、結局意見がまとまらず夏休み明けまで決まらなかった、という訳だ。
我がクラスの担任は宮崎先生という国語科の女の先生で、この宮崎先生、かなりの曲者である。まだ二十代で茶髪のセミロングのヘアースタイルが似合う、女の私から見ても美人な先生だ。だがこの先生怒ると怖い。他のクラスの人は――と、いうよりは最初に言い出したのは私たちなのだが、彼女のことを「姉御」や「番長」などと影で呼んでいる。そして三日前。まだ私たちのクラスの出し物が決まらないことに、とうとう「姉御」がキレた。
放課のホームルーム。教壇に立つや否や、
「いい加減にしなさい!」
と、名簿を叩きつけて言った。いや、怒鳴った。
私はケータイを咄嗟にカバンに入れた。隣でマンガを読んでいた由美子も同じようにカバンにマンガをしまった。教室の後ろで騒いでいた男子たちは一瞬金縛りにあったように動かなかったが、すぐに自分の席へ戻った。学祭の出し物が決まらないクラスが久し振りに一体となった。これはヤバイ、と。
「あんたたちは本当にガキなんだよ! だらだら一つのことも決められないで、もう一回中学生からやり直すかい?」
私たちは絶対に姉御と視線を合わせないようにひたすら下を向いていた。こうすれば安全だったからだ。だけど今回はそう上手くいかなかった。
「川島! 篠崎! あんたたち実行委員としての責任感が足りないんだよ!」
実行委員――そう、私は学祭の実行委員なのである。四月の頃は学祭の実行委員なら働く期間が短いから楽だと思っていたから立候補したのだ。だからこんな大変な仕事だとは思わなかったのよ!
姉御に当てられた私と篠崎君にもう逃げる術は無く、「はい」と返事して立ち上がる以外に選択肢は無かった。
「今日のうちに決めなさい」
私と篠崎君は一瞬目を合わせて教壇の前に立った。姉御は教室の後ろへ向かい、腕組して私たちを睨みつけた。
篠崎君は頭を抱えながら進行を始めた。
「えーと……ではこれから学祭の出し物を決めたいと思います……。今まで出た意見では――」
「喫茶店でいいんじゃねーの?」
篠崎君が話すのを遮って平井君がそう言った。
「えーと、平井君から喫茶店がやりたいという意見が出ましたが、異論はありませんか?」
ナイス篠崎君! 妥協案をさも、やりたがっているように言い換え、さらにはそれとなく議論を終わらせようという方向へもっていくとは! 篠崎君、君はきっと将来良いお役人になれるよ。平井君もグッジョブ!
「喫茶店でいいの?」
姉御が訊いた。私はこのクラスのことだから、何か言う奴がいるかな、と不安だったけど今日ばかりは皆空気を読んだ。
「では一年C組の出し物は喫茶店に決まりました」
篠崎君がほっとした声で言った。
……と、事の顛末はこういう訳。この時も大変だったけど、本当に大変なのはそれから。なにせ出し物が決まったのが学祭一週間前、実行委員会本部に書類を提出して、どういう雰囲気の喫茶店にするかを考えて(この時も色々揉めた)、予算を組んで、また書類提出して……あーっ! なんであたしだけがこんな大変な思いしなけりゃなんないのよ! 篠崎君は部活の大会が近いとかで、あんま手伝ってくんなかったし。由美子は「みずき、がんばー」なんて応援してるのか煽ってるのかよくわかんないし。もう! 私の青春を返せ!
そんな激動の三日間が過ぎて今に至る。今日が日曜日じゃなかったら私は潰れていたと思う。だからといって今の私に休息の文字は無い。学祭実行委員の集まりがあったのだ。篠崎君は部活の試合ってことで欠席。そのため私一人にしわ寄せが来る。篠崎め……明日からはコキ使ってやる、今までサボってた分、ぜーったいにコキ使ってやる!
明日からの一週間は授業が午前中だけとなって、午後は丸々、学祭の準備に当てられる。どれだけの人が残ってくれるかは疑問だけどね。どうせ皆、部活だの塾だのバイトだのでウチのクラスの出席率は悪そうだ。
秋の日は短い。それに伴ってあんなに暑かった気温がずいぶんと低くなる。まだ六時をまわったばかりなのに、すっかり薄暗い。私は暗くならない内に帰ろうと、普段より急いで自転車をこいだ。
しかし世界には誘惑が多い。見たことのないお店が途中にあった。正確にいえばそのお店は前からあったのかもしれないけど今の今まで気づかなかった。私は無性にそのお店が気になって自転車に乗ったままガラス張りの店内の様子を覗いてみた。このお店はどうやら雑貨屋さんのようで、こぢんまりとした店内の中は、お洒落な食器やガラス細工、壁には絵が掛けられていた。
私は自転車を降りた。このお店に入ってみることにしたのだ。ドアを開けるとカラン、とベルの音が小さくなった。するとカーテンの奥から小柄なお婆さんが出てきた。
「いらっしゃい」
お婆さんはこのお店の人のようだ……って当たり前か。店の奥から出て来たしね。
六十歳くらいかな。だけど肌や白髪には艶があって、とっても綺麗。それに薄い青のブラウスと、白いジーンズもお洒落。齢をとるならこういう風になりたいわよね。
私はまず入り口の近くにあったティーカップを手に取った。そのティーカップは、水彩画で描かれたような淡い金魚の絵がプリントされてあって、取っ手が二つ、左右対称に付けられていた。
「なんかいいなぁー」
私は無意識の内にひとり言を呟いてしまった。ちょっと恥ずかしくなってお婆さんの方をちらりと見ると、お婆さんは優しく微笑んでくれた。お婆さん、気持ちは嬉しいけどここは聞かなかったことにしてよ。余計恥ずかしくなっちゃったじゃない……。
ティーカップをもとの場所に戻して、私はお婆さんと目を合わせないように店内を見回した。すると壁に掛かったピカソっぽい絵の下に置いてあるバスケットが目についた。そっと近づいて中を見てみるとそれはキーホルダーだった。イチゴやぶどうの果物、ロボットのようなヘンテコなもの、キリンやネコなんかの動物など、小さなバスケットの中にたくさんのキーホルダーがあった。
その中から一つ目についたキーホルダーがあった。それは手芸で使うようなアップリケで作られていて、赤色のオーバーオールを着たクマのキーホルダー。私はそれを手に取って目の高さまで上げてじっくりと見てみた。
「これください」
この時の私はどっかイッちゃってたのかもしれない。どこにでもあるような、何の変哲も無いクマのキーホルダーを買った私の心理状況は間違いなく、『心ここにあらず』だったに違いない。
五百八十円。決して安いとは思えないキーホルダーをカバンに押しこんで、私はもう日のすっかり落ちた、ちょっぴりいつもと違って見える帰り道を冷たい風を切って家へと帰った。
オイ、オマエノナマエハナンテイウンダ?
……返事は無い。当たり前か、だってキーホルダーだもん。オレノナハ、なんて返ってきたら気味が悪い。
晩御飯をしっかり食べて、お風呂にも入って、由美子と長電話して、メールとか返して、プリン食べて、一応勉強してる現在午後十一時。普段ならまだ眠くない時間だけど、なにせ激動の一週間。私の体は悲鳴を上げている。気づいたら私はキーホルダーを握ったまま眠っていた。
――オイ、起きろ、時間だろ――。
夢の中で聞こえた声はいつもの目覚まし時計の音ではなかった。お母さん? いや、男の声だ。お父さん? いや、トモかな? それにしちゃ声が低い……。
「起きろって言ってんだろがぁぁぁ!」
私はびっくりして体を高速で起こした。私が昨日寝たのは勉強中。イスに座って机に突っ伏して寝てた。必然的に重心が後ろに傾き――
「わわわわわわ……」
と、叫びながら私は背中を床に思いっきり叩きつけることになってしまう。
「いたた……」
今の痛みですっかり目を覚ました私は、部屋の中を見渡してみる。どこから、誰が声を出したのか、寝起きの頭をフル稼働させて考える。決して片付いているとはいえない私の六畳半の部屋には人の気配は無い。じゃあ、さっき聞こえた声は夢だったのかな?
そんな私の考察は、机の上にあったケータイのメールチェックをしようとした瞬間にどっかへすっ飛んでった。
「ヤバ……」
普段だったら制服に着替えて朝ご飯を食べてる時間。私は急いで支度を始めた。
「今日から一週間の間に、我がクラスは遅れを挽回しなければいけません。残れる人は出来るだけ残ってください」
午後からの作業を始める前に、私はそう言った。
問題児の多いクラスのことだから学祭準備なんて思うように進まないだろうなぁ、と私は思っていたが週末の間に何かあったのか、クラスの、もとい男子のテンションは高かった。先週までのテンションの違いに不気味になった私が篠崎君に理由を訊くと、
「あー…野口がさ、『学祭には他校の女子生徒が大勢来るのか?』って昨日訊いてきたんだ。そんで僕が『当たり前じゃないか』って言ったら、ばーっと男子全員に広がって急にやる気出し始めたんだ」
だって。……それってなんか私たちに対して失礼じゃないか? っていうか普通に考えたらわかることでしょーに!
「よーし、野郎共! まずは内装の準備だ! この計画書によると発泡スチロールと木材が必要だ! 出来るだけ掻き集めて来い!」
男子のリーダー格の川口君が大声で指示を出す。あの、実行委員は私たちなんですが……。
……まぁ、理由は不純だけどヤル気になってくれたことはありがたい。この男子のテンションに釣られたのか女子のテンションも上がって、私の指示をきちんと聞いてくれる。女の子は真面目に、細やかに動いてくれる。頼りになるのはやっぱり女の子だ。あちこちから「カッコいい男の子来るかなぁ?」とか「白弥学院の子は毎年たくさん来るんだって」「やだ、玉の輿狙っちゃう?」「きゃー、やだー」なんて黄色い声が聞こえてくるけど聞かなかったことにしよう。
私が職員室の近くを通ると喫煙スペースで宮崎先生がタバコを咥えながら数学の河原先生に
「私は生徒の自主性、判断力を信頼してますから」
と言って、ガハハと笑っているのが見えた。私は目まいがした。
家に着いたら家族は皆、晩御飯を終えていた。珍しくお父さんまでいて、すでに寝巻に着替えてテレビを観てた。「おかえり」と、テレビから目を離すことなく呟いて、発泡酒をぐいっと呑んだ。
「おかえり。味噌汁温めるから、ちょっと待ってね」
キッチンからお母さんが出てきてそう言った。食卓の上には野菜炒め一品。せめてもう一品くらいはあってもいいんじゃないの? でもこんなこと言うと怒られるので黙ってるけど。
自分の部屋に荷物を置きに二階へ上ると、弟のトモが勢いよく部屋から出てきて、
「ねーちゃん夜遊びかよ。感心しねーな」
と囃したてた。カワイクない弟だ。一発殴ってやろうか。
「あたしはね、トモ、学園祭の実行委員という責任ある仕事をしているの。アンタみたいに気楽な小学生とは違うの」
「なんだよ、それ。俺だって別に呑気に毎日暮らしてるわけじゃねーぞ」
「ハイハイ、わかったから。そこどきなさい。邪魔」
私はトモを押しのけて自分の部屋に入った。ドアの向こうから、そんなんじゃ男にモテないぞ、なんて声が聞こえてきたけど無視した。
カバンをそこら辺に放り投げて、部屋着に着替えようとした。――そのときだった。
「おう、おかえり」
私はびくっ、として辺りを見回した。――誰もいない。ドアを開けて廊下を見た。――誰もいない。それに今聞こえた声はトモの声でもお父さんの声でもない、朝聞こえたあの声と同じだった。
私は怖くなってベッドに飛び込んで枕で耳をふさいだ。今のは悪い夢だ、今聞こえたのは幻聴だ。私はぶつぶつと呪文のように繰り返した。
「瑞希、ご飯よー」
びくっ、とした。だけど今の声はお母さんの声だ。私はほっ、としてとりあえず着替えるのは後にしてご飯を食べようとリビングへ降りようとした。その時だった。
「おい、シカトすんなや」
私はこの時息をしてなかったと思う。声がした方へゆっくりと顔を向ける。色々な雑貨や学校のプリントが所狭しと机の上に置かれている。机に近づいてそっとものをよけて漁ってみる。
「おい、こっちだよ。こっち」
私は意を決して声のした方のプリントや教科書をどけてみる。するとそこにあったものは――
「ふー、苦しかった。ったく、早く気づいてくれよな」
それは紛れもなく、私が昨日買ったクマのキーホルダーだった。恐る恐る手にとって話しかけてみる。
「えーと、……あんたが喋ってたの?」
「おう、そうだ。やっと気づいたか」
「すごい、こんな機能ついてたんだ……」
「ちゃう、ちゃう。ボイスレコーダーだとかそんなチャチなもんじゃねえぞ?」
「えーと、貴乃花がプロレスに参戦して……ジャイアンツがエビちゃんにサイン貰ったのがえーと、去年の話で……」
「おいおい、しっかりしろ! 意識を保て! 何かワケのわからんこと言うな。……おーい、こっちの世界に戻ってこーい」
「え、どういうこと?」
「どういうことってーもなぁ……『なんでお前は言葉を喋れるのか?』って訊かれても、答えられねーだろ? そういうことだよ」
私はとりあえず落ち着くために、頭の中に浮かんだ貴乃花を遠くへブン投げて現在の状況を整理してみた。
昨日買ったクマのキーホルダーが喋ってる――以上。これ以上の考察なんかできるはずが無い。と、いうかしたくない!
「まぁ、とりあえずメシ食ってこいや。話はその後だ」
ワケのわからないこの現象はこの一言で終わった。私がいくら呼びかけても、さっきまで冗舌だったクマのキーホルダーはうんともすんとも言わなくなった。
晩御飯を終えた私はすぐに自分の部屋へ戻った。そしてかなり滑稽だとは思うけど、「おーい……」と語りかけてみた。
「おう、腹一杯食ったか?」
……オーケィ、わかった。これは夢だ。きっと疲れが溜まってるんだ。早くお風呂に入って、早く寝よう。
「おい、なんか返事しろよ。俺が一人で喋ってるみたいだろ」
「これは夢だ、多分私が寝たらパッと朝になってるわ。うん、そうだ、そうにちがいない……」
「なんだ、まだ信じてないのか? じゃあよ、洗濯バサミもってこい」
「へ? 洗濯バサミ?」
私はキーホルダーに言われるままに洗濯バサミをタンスから取り出した。
「よし、じゃあそれで鼻を挟んでみろ。もし夢なら痛くないはずだろ?」
「そうね……あんたの言うとおりだわ。やってみるから……」
私は後ろを向いて、洗濯バサミを鼻に挟んでみた。結果は――痛かった。
「な? これでわかったろ?」
クマの表情は何一つ変わってない。だけどどこか勝ち誇ったような顔をしてる気がした。私は涙ぐみながらソレを睨みつけた。
「えーと、どっから話すかなぁ……。まぁ、あれだ。俺は十年前にイギリスの――ま、いわゆるブリティッシュってやつだ――テディベア作家が友人の子どものためにつくられた。ま、そこからドイツやスウェーデン、カナダにマカオにも行ったかな。スウェーデンの生活は快適だったなぁ。だってよ、俺を買った娘がすんげぇ資産家の娘でさ。笑っちまったよ。絵に描いたような豪邸なんだもん。食事も腕の良いシェフが作るんだよ。美味そうだったねぇ……」
「あの、気持ち良く喋ってる途中に申し訳ない。私が聞きたいのはそんな話じゃなくて……」
「あぁ、なんでこんな島国に来たのかって? それがさ、ブラジル人のロベルトっちゅー奴の旅行カバンに着けられてたんだけど、あのアホ、俺を落としたことに気づかないままブラジル帰っちまいやんの。笑っちゃうだろ? おかげでしばらくの間、俺は宿無しよ。辛かったねぇ。雨とかも降ってきてさ、風邪ひくかと思ったもん。あ、人形だから風邪ひかねぇか」
「タンマ! だから私が聞きたいのはそんな話じゃなくて、アンタがどうして人間の言葉を話せるのか、ってことなんだけど。話してもらえる?」
「なんだよ、そんなことか。だからさっきも言ったろ? 『なんでお前は言葉を喋れるのか?』って訊かれても答えられないって。まあ、あえて言うんなら長いこと生きてりゃ言葉なんて他人が話してるのを聞いてれば会話する分には困らない程度にはなってくもんだろ。そーいうことだよ」
「いや…そんなこと言われても、さっぱり意味がわからないんですけど」
「だから、そのまんまの意味。俺もいつの間にか人間の言葉を喋れるようになったんだ。それに気づいたのが半年前。あの婆さんに会ってからだ。もともと俺には意識はあった。けど言葉を喋ることはできなかった」
「ちょ、ちょっと待って。『あの婆さん』ってまさか……」
「そう、お前が俺を買ったあの店の婆さんだ。あの婆さん、俺に毎日話しかけてたんだ。他愛もないことだよ。『今日は良い天気だね』だとか。ホント、俺が言うのもなんだが、変な婆さんだよ」
「そっか……じゃあ、あのお婆さんもアンタが喋れるのは知ってるの?」
「ま、そーいうことになるわな」
「じゃあ明日あのお店に行って話聞いてくるわ」
翌日、学校の帰りにあのお店に寄ってみた。ドアを開ける。カラン、と乾いたベルの音。お店の中は初めて来た時と変わらない。ただ…どこか寂しい、まるで人がいないみたいに。
「すみませーん」
カーテンの向こうに向かって消えそうな声で呼びかけてみた。けど、店内は静まり返ったままだった。
不気味なまでの静寂。壁に掛けられてる絵が私を見つめてるような気がした。
カラン、と後ろから音がした。驚いて後ろを振り返るとあのお婆さんが左手に花束を抱えてドアの所にいた。
「あら、この間の」
お婆さんはにっこり微笑んで、私の方に近づいてきた。
「ごめんなさいね、ちょっと所用で出ていたもので」
お婆さんはお店の中にある、陶器の花瓶を手に取ると、値札をはがしてカーテンの奥へ引っ込んでしまった。
水道の音がする。きっと花瓶に水を入れているんだろう。水道の音が止まり、すぐにお店へ戻ってきたお婆さんの手にはさっきの花が花瓶に活けられていた。
「あの、すみません。勝手にお店に入ってしまって……」
「いえ、いいのよ。お店を開けたまま外に出た私が悪いんですから」
お婆さんはそう言うと、またにっこり微笑んだ。
私は正直迷っていた。お婆さんにあのキーホルダーのことを話してもいいのか。アイツの言うことを信じれば、お婆さんはきっと、アイツが喋れることを知ってる。でももしそれが嘘だったら? もしくは本当に私の勘違いかなんかで、実際はキーホルダーは喋ってなんかいなかったら? 私は確実に変な子と思われる。
「あっ、あの…………」
私はいつの間にか声を出していた。お婆さんが優しい目でこっちをみる。ヤバい、どーしよう? まだ決心ついてない、頭の整理ができてない……。
「何か?」
私がそれっきり何も言わないから、お婆さんが心配そうな目で私を見てる。ここはとりあえず何か言って……
「あの、えーと…大丈夫なんですか? お店空けて。あの……お金とか」
自分でも何を言いたいのかよくわからない。けど、お婆さんは私の言いたいことを察してくれたようだった。
「そうね、確かに無用心ね。でも取られて困るものは無いわ。お金も別の所に管理してるからね」
「え? でも商品が……」
「私はお金儲けをしたいわけじゃないし……。もし泥棒がウチに入って何かしら盗んだとしても、私は悔しくなんかないわ。むしろ嬉しい」
「嬉しい?」私は不思議に思った。
「ええ。その人がどんな作品に価値を見たか、興味があるのか、そういうのに私は興味があるの。もっとも泥棒だと直接会うことはないけど。そうね……例えばあなたがクマのキーホルダーを買っていったようにね」
私はドキッとした。正直、お婆さんと話してる間、キーホルダーのことは忘れていた。どうする? 今訊くべきか? あぁ! 声が出ない!
「あなたが今日来た理由はあのキーホルダーのことでしょう?」
お婆さんは意地悪な目をしてそう言った。やっぱりお婆さんは知っていたんだ、あのキーホルダーのことを。私は唾を飲み込んで訊いてみた。
「そうです。あのキーホルダーのことを訊きに来たんです。話してくれますか?」
私はお婆さんの目をじっと見て言った。お婆さんは意地悪な目をやめて、さっきまでの優しい――それでいて真剣な目をして言った。
「中にお上がりなさい」
「あれは半年くらい前だったかねぇ。バスの座席の下に落ちていたのを、私が見つけて拾ったんです」
お婆さんは私に紅茶を差し出しながらそう言った。店のカーテンの奥にある、おそらくはお婆さんの自宅だろう、座敷はものが雑然と置かれ、決して広くはない座敷をさらに狭くしている。
「普通落ちてるものなんか拾わないでしょう? でも私は拾ってしまったの。今考えると本当に不思議。まるであのキーホルダーに呼ばれた、としか言いようがないわ」
「あの、それで、あのキーホルダーは『毎日お婆さんに話しかけられているうちに人間の言葉を喋れるようになった』って言ってたんですけど、それは本当なんですか?」
「ええ、そうね……確かに話しかけていたわ。でもそれを望んだのはあのキーホルダーよ」
「え?」
私はアイツの言っていたことを思い出す。アイツの言い分ではお婆さんが一方的に話しかけてきた、みたいな感じだったはずだ。でも今のお婆さんの話し振りからすると、アイツが話しかけられるのを望んでいたことになる。このくいちがいは何なのだろうか。
「あの、それはキーホルダーが先に喋ったということなんですか?」
「いえ、そうじゃないの……何て言うか…テレパシーじゃないけれど…何か私の心へ訴えてくるような……そう、夜に夢にも出てきたの……」
「それで、それから話しかけるようになったんですか?」
「そうよ」
今、この段階でどっちが本当のことを言っているかはわからない。だけどお婆さんは嘘をつくような人じゃなさそうだし、アイツも口は軽そうだけど嘘をついてるとはどうしても思えなかった。
私が考え込んでいると、お婆さんがおもむろに口を開いた。
「ごめんなさいね、私が商品として店に並べたばかりにあなたに迷惑かけて……。でも、どうすればいいのか……」
「いえ、そんなことは……とりあえずあのキーホルダー、私が持ってても大丈夫ですか?」
「それは構わないけれど……本当にいいの?」
「はい。ちょっとやかましいけど……」
「ごめんなさいね……実を言うと、あなたがあのキーホルダーを買って行ってくれて私、ホッとしたの。『あぁ、これであの不気味なものを手放せた』って。嫌になったらいつでも私の所に持って来てちょうだい。その時は私が責任をもって、処分します」
お婆さんは私の両手を強く握ってそう言った。私はただ、「はい…」としか返事できなかった。
「それで、俺を引き取るってことになったわけか」
私はお婆さんとの会話を隣の部屋にいるトモに聞こえないように小声で、この小生意気なキーホルダーに話した。
「そうよ。だからアンタは私の気分ひとつで処分されるかどうか決まるわけ」
「なんかムカつくな」
「あら、嫌ならいいのよ? 明日お婆さんの所に持って行くだけなんだから」
「おいおい、待てよ。そんなセミみたいな生涯は嫌だよ。まだ俺は十年しか生きてないんだぜ?」
「キーホルダーだったら十年生きりゃ十分でしょうに……。アンタあとどんくらい生きたいのよ?」
「そりゃ、お前、地球が無くなるまでだよ」
私はソファに座り込んで考え込んでしまった。地球が無くなるまでって私、死んでるじゃない!
「ああ、心配するな。お前が死んだら別の人間にもらわれるだけだよ」
「そんなことはこれっぽっちも心配してないわよ……」
もう私は疲れていた。不思議なキーホルダーとこうやって喋るのもそうだけど、迫り来る学祭の気苦労もあった。忙しいことっていうのはどうして、こうもいっぺんにのしかかってくるのだろう?
「あ、あと言い忘れてたことがあるんだけど」
私の「気苦労の種」のひとつが陽気に切り出した。
「何?」私は思いっきり苦い顔をして訊いた。
「そんな嫌そうな顔すんな。これは大事な話なんだ」
声のトーンを落として深刻そうに言った。私もその雰囲気にのまれ座り直した。ごくん、と唾を飲み込む。
「俺の名前なんだがな……」
うん、アンタの名前。そうか…………ん?
「俺の名前は『小次郎』っていうんだ。だから次からはちゃんと名前で呼べ」
「何だ、そんなことか……っていうかアンタ名前あったんだ」
「そりゃ、あるに決まってんだろ!」
「でもアンタ前に『自分はイギリス生まれだ』って言ってたじゃない。なんでそんな和風な名前なの? お婆さんにつけられたの?」
「……まぁ、とにかく俺の名前は小次郎だ。以後、気をつけるように…」
クマのキーホルダー、いや、小次郎は私の質問に答えず喋るのをやめてしまった。
「風城祭」は土曜日から日曜日にかけて二日間行われる。そしてその前日――つまり金曜日の午後七時、遂に私たちのクラスの出し物「Vacation」は完成した。
綺麗にペイントされたコパルトブルーの仕切り版とウェイトレスのコスチューム、BGMに三浦さんが持ってきてくれたアルバム、宮崎先生が持ってきたデッキチェア、全てが揃った。今、一年C組の教室に宮崎先生含む三十一名も全員揃っていた。全てがカンペキだった。
「えー…皆がこの一週間、毎日遅くまで作業してくれたおかげで無事遅れを取り戻し、明日の風城祭に間に合わせることができました! 実行委員として、またC組の一員としてとても嬉しく思います」
篠崎君が少し興奮した声で言った。そしてその興奮は三十一名全員に共有されていた。彼の次に私が挨拶した。
「えーと、出し物がなかなか決まらなかったり本当に大変でしたが、こうして明日の本番を迎えることができて、本当に嬉しいです! えっと、皆、ご苦労様でした」
そう、大変だった。出し物が決まらない、決まったら決まったで書類に忙殺され、近所のスーパーやら作業所からいらないダンボールなどの調達、予算のやりくり、実行委員としてオープニングセレモニーとエンディングセレモニーの準備も平行してやった。本当に大変だった。昨日などは迂闊に私に話しかけようものなら噛みついてやる! くらいの殺気は出していたかもしれない。
原因は仕切り版の損傷だった。お店として使う部分と私たちが控える休憩室とを仕切る板が、ほんのちょっとした不注意で穴が開いてしまったからだ。私と篠崎君は急いで新しい仕切り版を探しに学校中を走り回った。だけど学校内には仕切り版として使えるような板はもう残ってなくて、「ヤバイ、ヤバイ…」なんて半泣きまでしてしまった。結果的には頼れる姉御――宮崎先生に泣きついて、先生の車とポケットマネーで国道沿いのホームセンターまで買いに行ったんだけど……本当に焦った……。
「みんな、コップ持った? ジュース入ってる?」
篠崎君が大声で訊いた。ウオ―、と怒号のような、悲鳴のような奇声が返ってきただけだったけど、篠崎君は満足気にうなずいた。
「それでは今日までのみんなの頑張りと、明日からの二日間の成功を祝って――」
篠崎君がそう言って紙コップを持ち上げる。みんなも私も同じように持ち上げる。
「乾杯!」
初日はなかなかの繁盛ぶりだった。最初のうちはなかなかお客さんが来なかったけど、一人来たら後はトントン拍子。一日目の売上目標も軽くクリアした。もちろん明日も目標をクリアしなければ赤字だけど……。
だけどクラス全員で何か一つのことに打ち込むっていうのも悪くない。最初はまとまりが悪かった。だけどそんなこともあれはあれで悪くない。思えば、忙しかったこの一週間って高校に入って一番楽しかった一週間かもしれなかった。それがどうしてなのか、よくわからないけど、「ヒマ」を感じることはなかった。退屈なんかじゃなかった。
「ま、退屈じゃなかったのはアンタのせいでもあるけどね」
私はベッドの上で仰向けになって小次郎に話しかけた。
「そうかい、そりゃご苦労なことだな」小次郎は少し不機嫌なトーンで言った。
「あー…明日で風城祭終わっちゃうんだ……。ホント、大変だった……もう二度とやりたくないって感じ」
「いや、お前は来年またやるよ」
小次郎がぽつりと言った。
「え?」
「お前さ、これまでに『頑張った』って言えるようなことって何かしてきたか?」
そう訊かれて私は考え込んだ。頑張ったって言える経験……。
「うーん、やっぱ高校受験?」
「それは確かにそうだ。でもそれって結局は自分一人が頑張ったってことなんだよ。教師とか両親とか友達とか、お前を支えてくれたのかもしれない、一緒に頑張ったのかもしれない。けど受験ってあくまでも自分のためだろ? 今回みたいにまったく同じものを他の人間と目指して頑張った経験はお前にはないんじゃないか?」
私は今までの自分を思い出していた。嫌なことは全部誰かに押しつけてたっけ。小学校の夏休みの自由研究も、ちょっと難しい算数の宿題もお父さんがやってくれた。家庭科の裁縫や絵画コンクールの絵もお母さんに手伝ってもらった。トモの面倒とかもみてなかった気がする。中学校でも部活や委員会に入らなくて――。
あれ? そんな私がなんで学祭の実行委員なんかになったんだろう? それは仕事が楽だと思ったからだっけ。でも委員会に入る必要なんてないのに――。
あぁ、そうだ……。私は変わりたかったんだ。頑張ること、真剣になることを気づかないうちに避けてた自分を変えようとした自分がいたんだ。
そして今の私は――。
「思い出したか? 今のお前は忙しいことの充実感を知った。一生懸命になることの楽しさを知った。みんなと頑張る感動を知った。大丈夫、お前は立派に成長してる、変わってる」
私は何かが胸のなかにこみあげてくるのを感じた。それは昨日の乾杯の時とは違う気がした。
「ありがとう」私は小次郎にそう言った。小次郎が微笑んだような気がした。もちろん、表情は何一つ変わっていないんだけど。
「でも何で私のことそんなに知ってるの?」
「くまはなんでもお見通しさ」
えー、何それ。私は笑いながら小次郎をつついていじってみた。だけど小次郎は何のリアクションも返さなかった。結局、今の言葉が小次郎の最後の言葉になってしまった。
小次郎を失くしたのはその二、三日後だった。すっかり喋らなくなった小次郎をせっかくだから、とカバンにつけたんだけど、帰り道で落としたのか家に着いた時にはすでに小次郎の姿はなかった。帰り道を探そうと思ったけどやめた。アイツは流浪人みたいなヤツだ。きっともう誰かに拾われて生意気な口をきいてるかもしれない。
私はあの生意気なクマのキーホルダーみたいなヤツに当たらないように祈りながら、お婆さんのお店でオレンジの匂いのする消しゴムを買って、明日も学校に行く。