第66話
「パパが…絶対に迎えに来るからここでいい子にしててね」
「マ、ママは!?」
「ママはちょっと用事。大丈夫、悪いことの後にはいいことがあるの」
ソフィを女子トイレの個室に押し込んだマイアはそう言うと、有無を言わさずに個室の扉を閉め始める。
そんな母の行動にソフィは、何か言わなくてと焦るが、かけるべき言葉も思いつかず、口も開けずにいた。
「鍵、しめなさいよ」
母はそんな娘の葛藤に気付かずに、ひとことだけ言い残すと口惜しそうにソフィがいる個室の扉を閉めた。
「………あっ、…ママ」
閉じられた扉にソフィは手を伸ばすが、当然その様子は母のマイアには見えない。
このままだと母はどこか手の届かない遠くに行ってしまう、そう自分に言い聞かせてソフィは開かなかった口をこじ開け、動かなかった喉に鞭打って声を張り上げた。
「………ま、待って!」
だが、その声は同時に響いたチェーンソーの音に掻き消されて母の耳に届くことはなかった。
「あっ、待って!ねぇ、ママ!」
だんだんと遠ざかって行くチェーンソーの音にソフィは必死に声を張り上げたが無情にもチェーンソーの音は、つまりチェーンソーを持っているであろう母は離れていく。
ソフィは母が離れて行くことを察し、思わず閉められた扉を開けようと前に手を延ばす。
だが、その扉を開けようとした瞬間ソフィは思い直してその手を止めた。
ここで外に飛び出すことは母の決死の覚悟をむだにすることを意味する。
いくら幼いソフィといえど流石にそのことには気づいているのだ。
「………一人にしないでよ」
ガチャリとソフィは延ばした手で個室の鍵をかける。
こうするのが一番いいと頭では理解していても、湧き上がる悲しみは抑えることはできない。
「ママ…ママァ、嫌だよ…一人は嫌だよ」
ズルズルと壁に沿うように崩れ落ちたソフィは汚いトイレの床にへたりこむ。
そして、湧き上がる悲しみを堪えることができず、ついに涙がこぼれ落ちた。
声を出してはいけない、そう思っても泣き声を抑えることができず、ソフィは個室の床にペタリと座りながら泣き続ける。
どれだけ泣いただろうか。
ソフィにはそれが永遠とも思えるほどの流さだったが、実際に過ぎ去った時間が短いのか長いのかソフィにはわからなかった。
遠くからは今もチェーンソーの音が聞こえてくるが、さっきまでと違い音が動くことなく同じ方向から聞こえてくる。
それが何を意味するかに気付いたソフィは収まってきた涙が再び溢れだしてきた。
「…パパ………迎えに来てよ」
ソフィの心が折れかけたその時、引き籠もるトイレの個室の扉を何かが当たるバンッという音が響いてきた。
ソフィは父のジャックかと思いパァッと笑顔で顔を上げるが、扉越しに僅かに聞こえたゾンビのうめき声にその表情を凍り付かせる。
「ヒッ!う、嘘!」
思わず悲鳴を上げてしまい、普段はチェーンソーなどの音に掻き消されるはずの音が壁一枚隔てるだけの至近距離にいるゾンビの耳に届いてしまったのか、ゾンビは離れることなく扉をガンガンと何度も叩き始めた。
「や、やめて…来ないで!」
ソフィの懇願虚しくゾンビは扉を叩くのを止めようとしない。
ゾンビが扉を叩くたびに、扉はガタガタと激しく揺れ今にも壊れてしまいそうだった。
ソフィに出来ることはできるだけ扉から距離を取ることぐらいだが狭い個室では離れるにも限度がある。
一番奥で何も出来ずにガタガタと震えているソフィだったが、その間にも扉は刻一刻と崩壊に近付いていた。
そしてついに、バキリという音ともにゾンビの猛攻に耐え切れなくなった個室の鍵が壊れ、残酷にも床に転げ落ちる。
「………あっ、嘘」
ソフィがついポロリとそんな声を漏らし、目の前の扉は鍵を失ったことで軋みながらゆっくりと開いていく。
開かれた先に佇んでいたのは父でも母でもなく、一体の見知らぬゾンビであった。
息を呑むソフィ、一方のゾンビはゆっくりと個室の中へと足を進める。
狭い個室で逃げ場がないソフィは泣きながら命乞いをすることしかできなかった。
「ひっ、嫌だ!近づかないで!来ないで!こっち来ないでよ!死にたくないよ!
助けて、ママ!助けてパパ!」
パパという言葉を発すると同時に、何故かゾンビが何かに引っ張られるように個室の外へと吹き飛ぶように、まるで服の襟を引っ張られるように出て行ってしまった。
ソフィはいきなりのことにキョトンとしてると、吹き飛ばされたゾンビはバランスを崩して床に倒れ込んでしまう。
そして、どこからか現れた人影がゾンビが立ち上がらない様に、倒れたゾンビを踏み付けて、頭目掛けて持っていた銃を何発も撃ち込んだ。
頭を撃たれたゾンビは、さっきまで動き回っていたのが嘘のようにパタリと動かなる。
ゾンビを踏み付けていた人影はそのことを確認すると安心したように一息吐いてから、背中を向けていたソフィの方に体を向けた。
「………お待たせ、ソフィ。遅くなってごめん」
そこにいたのは紛れもなくをソフィの父親であるジャックだった。
「パパ?」
「あぁ、パパだ。怖い思いをさせてしまって本当にごめん」
「………パパ!」
ソフィは感極まって泣きじゃくりながら、ジャックの元に飛び付くように駆け寄り、そのまま足に抱き着いた。
ジャックはそんなソフィの頭をポンポンと撫でる。
「パパだ!本物だ、本当だ!パパがやっと来た!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をジャックの足に埋めるが、ジャックは嫌な顔一つせずにソフィを見守る。
だが、ソフィが埋めていた顔を上げると微笑んでいたジャックの表情に変化があった。
「………ハハッ、おかしいな。父親として、大人として、不安がらせないようにと思ってたのに…」
ソフィの顔を見たジャックも堪えていた涙腺が崩壊し、ボロボロとその目から涙がこぼれ落ちてきた。
ジャックはソフィと目線の高さを合わせるようにしゃがみ込むとギュッとソフィを抱き締める。
「もう離さないぞ!お前は俺の娘だ!最愛の…一人娘だ!
いいか、よく聞け!何度でも言うが一度も聞き逃すなよ!俺はお前を愛してる!何があっても一緒だ!」
「パパ………おかえり、遅かったね」
「なんだ………ママの真似か?真似が上手くなったのか似てきたのかわからんな。
………あぁ、おかえり」




