第52話
シノアはゆっくりとこちらに歩いてくる男に身構えるが男はシノアの予想を裏切り、何もせずにシノアの横を通り過ぎた。
襲ってくる群衆を返り討ちにしたシノアのことを恐れたのか、はたまた何か別の理由があるのかはわからないが疲弊したシノアにはありがたい話である。
この男は不気味な人物だ。シノアが命懸けで戦うのを遠巻きに、どこか悦喜の入った表情で眺め、自分は一切の手を出してこなかった。
男の他にもシノアに手を出さない人物は何人かいたが、それらの人々は巻き込まれないうちにどこかに去って行ったが、男は逃げることも向かってくることもせず遠巻きに眺めているだけだった。
だが、いくら考えたところで正解がわかるわけもなく、むしろこのゾンビに満ち溢れた世界で正常な思考をしている方が稀なのだ。
そう考えれば、この男の目的など考えるだけ時間の無駄、助かったことを喜べばいい。
シノアはそう結論づけ、男から意識を外すと同時にようやくある事に気がついた。
シノアが立つ通路の先に一人の人物が、シノアと同じように驚愕や歓喜が入り混じった複雑の表情をして立っているのだ。
シノアはこの人物のために身も心も犠牲にし、長い屈辱に耐えてきた。全てはついに再会を果たしたブライという男のために。
待にも待ったいつ訪れるか、訪れるかどうかさえわからなかったこの瞬間にシノアは言いようもない程の喜びを感じ、痛む体に鞭打って前に進み始める。
今まで耐え忍んできたことを思えば、体の痛みなど屁でもない。
シノアとブライ、お互い駆け寄り合うことで2人の距離は確実に近づいていった。
後少しで2人の手が互いに届き合う、ようやく念願が叶うとシノアの傷ついた心が希望に満ち、その希望が顔にも溢れ出る。
同時に辺りに銃声が鳴り響き、シノアの背中に何回も衝撃が襲う。シノアには何が起きたか全く理解できなかったが、確かなのは自分が立つのもままならない状態に陥ったことだ。
膝が崩れ落ちてその場に倒れ込み、意識がどんどん遠退いていく。
シノアが意識を失う直前に見たのは喜びが悲痛に染まったブライの表情。
もう言葉を口にすることができないほど弱ったシノアだったが、ブライの無事を最後まで祈りシノアはその意識を手放した。
ブライは目の前の光景を受け止めきれなかった。長い時間をかけて昏睡状態の中で再会を願い続けた相手が目の前で何発もの銃弾を撃ち込まれる光景はとても許容しきれない。
シノアが倒れる様はまるでスローモーションのように感じ、シノアが倒れることによりシノアの後方にいたシノアを撃った人物が少しずつ露わになっていく。
そこにいたのは見知らぬ男だった。デニスでもカーソンでもなく全く見知らぬ男。
こんな見たこともない男にあっさりと壊された再会にブライは心の底からどす黒い物が湧いて出てくる。
そして、自分が感情に身を任せてカーソンをめった刺しにしなければ間に合ったかもしれない、そんな考えが自分に対する怒りとしても湧いて出てきていた。
「シ、シノアァ!シノア!」
僅かな希望を抱き、倒れたシノアに駆け寄るが、それがブライをより絶望の渦へと落とすこととなる。
手遅れだ。助からないなどではなくシノアは既に息絶えていた。
「あ……あ、ぁ、あ」
一言。一言だけ言葉を交えることすらできなかった。
なぜこんなことになったのかと、シノアを殺した張本人に目をやれば男はケタケタと笑っていた。
「ハハハ、ハハ…アハハハハハ!ざまぁぁみろ!俺を騙すからだ!騙したのが悪いんだ!」
「………どういうことだよ…騙したってどういうことだよ!理由があるんだろ!?俺が納得できる理由が、俺が仕方ないと思えるような理由が、俺が踏ん切りがつく理由が!
何でシノアを殺したんだ!?」
「へぇ、そいつシノアって言うんだ」
「………な、名前も知らないのか?知り合いだったんじゃないのか?」
「知るわけないだろ、そんな人間の女。ついさっき初めて会ったばかりだ」
「………さっき会ったばかり………名前も知らない」
その瞬間、ブライの中の何かが切れた。
「クソがあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
持っていた銃でがむしゃらに憎き男に銃弾を叩き込んでいく。男は銃弾を何発もその身に受けながらもケタケタと笑い続けていた。
だが、余裕そうな表情とは違い体は複数の銃弾を浴び、すぐに限界を迎える。
銃弾によって出来た傷口からは血が溢れ、息をすれば口からも血が溢れ出てき、足は震え立っているのがやっとっといった様子だ。
それでも何が男を駆り立てるのか、男はケタケタと笑いながら大量の血反吐を吐きながらブライに言った。
「ざまあみろ」
その一言で男は満足したのかパタリと倒れてしまった。
だが、ブライの怒りはそれでも治まることはなく、男の近くまで大股で近づくと死体に弾倉の弾が尽きるまで撃ち続ける。
そして、弾が切れると死体に足蹴を何度も入れ始めるが、いくら男の死体を傷めつけた所でシノアは返ってこない。
「クソ、クソ、クソ!クソ!」
ブライの家族・友人・知り合い、その全てが死に絶え、過去のブライを知っているのはシノアのみだった。
そして、そのシノアも今この男によって殺されてしまう。
もうブライのことを知る人間はこの世に存在しない。そう思うとブライは経験したことない孤独感に襲われる。
自分が生きて築いてきたものは何もかも無意味だ。そう言われてるような気がしてならなかった。
「ちくしょうがああああああ!」
ブライの悲痛な叫びがショッピングモールの一角に虚しく木霊するが、現実は変わることはない。ブライは1人になってしまった。




