雨になればいい
どこかから幽かに、電子音のジングルベルが漂ってくる。
ひょっとしたらどこかからではなく、どこもかしこもからなのかもしれない。
そんな夜を、オレたちはふたりで歩く。
「雪は嫌いだな」
「なんでだよ。世間はホワイトクリスマスだなんて喜んでるぜ。積もりそうな粉雪で、明日はきっと子供が大はしゃぎだ」
さらさらと落ちてくる雪を見上げながら、こいつはべーっと舌を出す。
見慣れた横顔を確かめながら、オレはいつも通りの返しを装う。
「だって、未練がましいからね。溶け残ると汚いし。邪魔だし」
「余韻ってものを解さねぇ女だな」
「そんな女に告白したの誰だよー。だーれーだーよー」
「うっせ」
後頭部でも引っぱたいてやりたいところだが、残念ながらそうもいかない。
コートのポケットから抜き出した手を所在なくぶらつかせると、目ざとく気づいて寂しく笑った。
「あたしはともあれ、君は傘をさすべきなんじゃないかなー、とか思うけど?」
「うっせ。別にいいんだよ」
肩に積もる粉雪はまるで水っぽくなくて、身震いひとつで路面に零れる。
けれど白片のひとひらとて、こいつには触れる事がない。そこに何もないかのように、それこそが真実だと言わんばかりに、その体をすり抜けて降る。
ああ、もう生きていないんだなと今更ながらに思う。
先月、こいつは事故って死んだ。
原付でオレの安アパートに来る途中、脇見運転に撥ねられて死んだ。
なのにその声で今夜ドアがノックされて、質の悪い冗談ならぶっ飛ばしてやろうと飛び出したら、そこに居たのは本人だった。
「あたしはね、残響なんだよ。神様かなんかの気まぐれで、ちょっとだけ間に合ったエコーみたいなもの。発展性も何にもなくて、振り返るだけの役にしか立たない。もう少ししたらぱっと綺麗に消えちゃうから、だからさ、それまでちょっとだけ付き合ってよ」
言われて、雪の降る中に引っ張り出された。
曰く「オレんちから決して止まらず真っ直ぐ歩いて現場まで」。
それがこのちっぽけな奇跡のリミットで、まるで詐欺みたいな手のひらサイズだとオレは思う。仮にも奇跡なんだ、小出しないでもっと大盤振る舞いするべきだろうに。
だが、どんなに文句を垂れたって、泣いて喚いたって現実は変わらない。何一つだって変わりはしない。オレはそいつを思い知っていて、だから今夜、オレたちはふたりで歩く。
できるだけゆっくりと、時間をかけて。
「同じ降るなら雨の方がいいよ。うん、ずっといい」
「雨も雪も変わんねぇだろうが。どうせ同じ水だ」
隣のこいつは少しも変わらず朗らかで、天冠も白装束も着けず服装だってそのまんまで、透けてもいないし足を動かいて歩く。
まるで生きてるみたいなのに、傘はまったく必要じゃないのだ。
「ううん、違うよ。雪は駄目だよ。縋り付くみたいに溶け残って、そのうちすっかり汚れちゃうから。いつまでも、邪魔しちゃうから。邪魔になっちゃうから」
「別にいいじゃねぇか。居たいなら居残ったって」
「そうかもね」
小さく頷いて、それからちょっと口をつぐんだ。
静寂が道行きを包む。雪片が音を吸い取ったかのようだった。
「でも。それでもやっぱり、雪は未練がましいよ」
やがて前を向いたまま、こいつははっきりとした声を紡いだ。オレと自分に、言い聞かせるみたいに。
「あたしは雨がいい。強く降っても陰鬱に降っても、お日様がまた顔を出せば、すぐに乾いてそれきり忘れてしまえるから。だから、あたしは雨がいい」
「雨だってすっぱり忘れられたりしないだろ。水は人とは切っても切れない生活必需品だからな。降った分はダムに貯まって発電や飲用に使われてずっと暮らしの一部になる。それに必要としてた恵みの雨なら、長く覚えておかれるに決まってる」
「……そういう事を言ってるんじゃ、ないんだけどな」
一歩分の距離を先行したまま振り向いて、不満げに口を尖らせる。
でもオレは、そういう事を言ってるんだよ。そういう事だと思ってるんだよ。
オレの心中を他所に、こいつは子供のような仕草から憂い顔を経て、ふっと自嘲めいた面持ちにたどり着く。
「ま、未練がましいとか、あたしが言うなって話だけどね」
「まったくだ。迷惑なんだよな。忘れた頃に湧いて出やがって」
「ひど!?」
後ろ歩きしながら大げさに仰け反って見せ、それからすぐに立ち直ってオレの頬を指先で突いてくる。正確には、突く素振りをしてくる。
少し先の交差点のカーブミラー、その根元に横たわる花束を指して笑った。
「忘れてなかったくせに。全然忘れられなかったくせに。あの花、君でしょ? このロマンチストめ」
「うっせ」
ぼんやりと、あそこがオレたちの時間の終点なんだろうと思う。
ただでさえ遅い足並みがまた鈍った。
「ありがとう、こんなのに付き合ってくれて」
「……」
「そういう、ぶっきらぼうだけど優しいとこ、好きだったな」
「……なんか、」
「ん?」
「なんか、言いたい事があったんじゃねぇのかよ。それで出てきたんじゃねぇのかよ。恨み言でも何でもいいから、オレに残していけよ」
けれどこいつは目を閉じて、静かに首を振った。
「ううん。もういいんだ。何にも言い残せなかったのが悔しくて、何か伝えとかなきゃって思ったけど。いざとなると出てこないんだよね。ま、君の顔も見れたし満足満足。……それじゃ、あたしの事はこれですっぱり綺麗に忘れてよ。幸せに生きてね。あ、あと、メリークリスマス!」
大きくバイバイと手を振って、思い出したように言い足して。
それで電気のスイッチを切るみたいに、あいつは一瞬で消え失せた。
つくづく、余韻ってものを解さない女だと思う。
そんなとこまで含めて、好きだった。
花束を見下ろしたまま、オレはしばし立ち竦む。やがてオレの耳にまたそっと、小さくジングルベルが寄り添ってきた。
「メリークリスマス」
届かないのを承知で口にして、空を仰ぐ。
もう二度と手を繋げないオレたちの代わりに、世界中のありったけが幸せであれと祈る。
この雪は、きっと深く降り積もるに違いない。長く溶け残るに決まってる。
けれど。
──いつか、雨になればいい。
弱く小さく、そう思った。