結末3 慟哭
「今から、依頼を遂行する」
「ねぇ愛徒? 貴方は一か所だけ間違えているわ。そしてその一か所は、きっと貴方の思考を覆す事になる大きな誤りなの」
落ち着いた態度で話し始めた標的を、醜悪はいかにも訝しげに見た。何の事か見当もつかないが、相手の悪あがきかもしれない情報にプロが振り回される訳にもいかず無言を貫く。その状況に困った標的は、再び口を開いた。
「結婚詐欺にあったのは、ワタシの方」
「……それを信じろと?」
「段ボール箱の中の箱を見てくれない? 逃げないから大丈夫。ていうか、そんな事出来るはずもないしね……」
醜悪はやけに落ち着いている標的をやむを得ず視界の隅に捉えたままの状態で、箱の中身へと手を伸ばした。中から出て来たのは何枚もの書類――裁判の内容が記されている紙だった。確かに被害者は毒原真弓となっている。
「わかって、くれたかな……?」
「こんなものいくらでも作れるだろう」
醜悪の心が少し乱れてしまった瞬間に、標的が彼との間合いをぐっと詰めた。初めて醜悪が家に訪れた時のように体を寄せて包み込む。香水の甘い匂いが彼の鼻をくすぐり、官能的な柔らかさがさらに心を乱した。標的と接触する事を心のどこかで楽しみにしていた事実が、明らかな物となって脳まで伝わってしまう。
「何故近付いた! お前は殺されるんだぞ!!」
「信じてるからだよ!! 今までの愛情が嘘だっていいから……せめてこれからは、本当の愛情を私に注いでよ……結婚詐欺で受けた傷を癒してくれた貴方に、ワタシは本当の愛情しか抱いてない! だから……だから……ッ」
ほんの少し覗いた醜悪の人間らしさが、彼女を信じたいと言った。化け物の部分がそれを飲み込もうとするが、返り討ちにあった。人間に生まれ変わった醜悪は――薬矢憐治は標的ではなくなった毒原を自分からも抱き締めた。
嗚咽交じりに何かを話す毒原を慰めるように、黙ったまま真心を込めて頭を撫でたり背中を摩ったりを繰り返す憐治。しかし床に置かれていた彼のスマホから鳴りだした通知音が、どことなく良い雰囲気だったはずの空間に水を差す。
憐治は毒原を見つめたままで音を頼りにスマホを掴み、若干の苛立ちを込めて着信に応じた。聞こえたのは、彼をだました憎むべき対象の下卑た声。
『首尾はどうだい醜悪さんよぉ……あの女は殺せたか? そうそう、組で俺を慕う部下達に金を貰ってお前への報酬は準備完了だ。連絡をよこさなかったって事は、まだ手こずってやがんのかぁ?』
「いや、もう終わった。今すぐ報酬をいただこう」
カタカタと体を震わす毒原の口を手で覆う憐治の目は、醜悪の目つきへと戻っていた。溢れ出る殺気は全て彼から吐き出される言葉に溶け込み始める。彼の異変に気付くのは毒原だけであり、能天気な依頼主は提案を持ちかけた。
『今から○×の男子便所に来い。俺もそこに向かうとするぜ。いやぁ助かったぜ、頭に知られずに事がすんだのはでけぇ……また頼む事があるかもしれねぇからその時は――つか、俺等の組に入らねぇかオメェ?』
「興味無いな。公園には向かう」
憐治は調子に乗って聞き苦しい声で喋り続ける依頼主を冷たくあしらうと、電話を切ってスマホをおもむろにポケットにしまう。心配そうに彼を見遣る毒原の額にそっと唇を当て、意を決して匍匐前進を始めた。まるで戦争前の軍人である彼にかける適切な言葉が思いつかない毒原は、形容しがたい顔をただ浮かべていた。
「真弓は、ここにいてくれ。帰って来る」
「う、うん……」
毒原宅から出る直前に、優しい声で憐治は言った。その言葉を信じたい一心で大きく頷いた毒原は懸命に涙を堪えた。信頼への嬉しさ、ヤクザの一員である依頼主と接触する事への不安、万が一を最悪を考えてしまう苦悩が大きく渦巻く。
外に出た憐治が目にしたのは、銃を構える謎の男達。隣家の庭に一人、傍に立つ電柱の陰に一人、毒原の愛車の奥に一人いる。そして見えづらいが道の向かい側にも一人立っている。彼だけは他の三人とは違う雰囲気を漂わせていて、こういった状況に慣れているようだった。
「おーう、迎えに来たぜぇ醜悪。違うな……殺しに来たぜ、か」
「やはり住所も知っていたのか。最初から俺の事も殺すつもりで依頼してきたな……このゲス野郎が」
「人の事言えんのか殺し屋がぁ! まぁ、標的といちいち仲良くなっているようなド三流だがな」
険悪な空気が張りつめて、会話をする憐治と依頼主以外の三人も状況に気を配る。銃口はしっかりと憐治に向けられていて、彼の生存は危ぶまれる。懐に再度収めたサバイバルナイフに手をかける事すらも許されない。
自宅の外で繰り広げられる憐治の絶体絶命に気付いた毒原は、慌てて一一〇へと電話をかけて家の前でヤクザが暴れていると通報する。それから躊躇無く玄関の扉を勢い良く開けて、すぐ近くに立っている憐治に向かって叫んだ。
「早く逃げてっ! 警察を呼んだからっ! 五分もあれば来るからっ!!」
「なんで出てきたっ! 早く中に――」
「おいおいおい! 殺してねぇのは流石に予想外だぜ! そこまでポンコツだったのかよ……オメェら醜悪を殺せえええぇぇぇっ!!」
一瞬毒原に気を取られた憐治に銃弾が飛びかかる。彼は毒原を家の中に押し戻すと、体をねじって危機から脱する。一つが左腕を撃ち抜くも、車の陰から銃を撃った一人と冷静に距離を詰めた憐治は懐に手を突っ込む。暗闇にぎらりと輝いたナイフが甲高く唸った。
首から吹き出る鮮血に銃を構えた二人の手が止まる。その隙の中に滑り込むような俊敏さで電柱付近まで移動し、首を斬り捨てた。返り血が憐治にまとわりついて、彼の狂気を掻きたてる。
「何してる! ぼやぼやすんなぁ!!」
「う、あ……ぅわあああぁぁぁぁっ!?」
庭から逃げ出した男には目もくれず、憐治はナイフの切っ先を突き出して依頼主に素早く駆ける。しかし焦らない男は、二丁の銃を構えた。先程の部下達とは比べ物にならない威圧感と殺意が憐治を迎え撃つ。
「死ぃねえええ――――――ッ」
銃弾が放たれた時、憐治の体は地面すれすれを通っていた。体をぐんと上に起こして心臓にナイフを突き立てる。そのまま右に切り裂くと、腕を回して首を水平にざっくりと斬った。いかにも悪人な頭部がごとりと地面に落ちた。
仕事を終えた憐治が踵を返すと、立っていた依頼主の体が後ろに倒れた。その音に重なるように、銃声が響いた――憐治の心臓が撃ち抜かれた音がした。静かにその場で崩れ落ちる彼を放っておいて、逃げたはずだった男が歓喜している。
刹那、聞こえ始めたサイレンに驚いたその男は慌てて逃げた。反対に、安心した毒原が扉を開けて外の様子を確認する。そして、驚愕する――絶望する。見た事無い男が二人、憎むべき男が一人、そして愛する男が一人倒れているのだ。文字では表せない声をあげて憐治に駆け寄る。
「うああああ、ああっ、っああぁぁ、ああぁぁああああぁっ」
これが限界だった。血に塗れた憐治はすでに冷え始めていて、毒原の体温すらも奪われてしまうようだった。抱き締めている彼女の涙は止まらず、もう止まった鼓動を必死に確認する。生き返るなんて奇跡は、決して起こらない。
サイレンに混じった悲痛な慟哭は止まない。二人の関係が幕を閉じた――。