結末1 愛情
「俺はお前を殺すために、接触したんだ。情報を集めるのに手間どらせられたが、ようやく依頼を達成出来る。愛された側のお前を、殺せる」
いつにない重低音を吐く醜悪の目は、虚ろになっていた。全ての感情を抹消したようなその目で、目の前の標的を睨みつける。素早く取り出されたサバイバルナイフが、ぎらりと光った。
「愛された、って……もしかして、貴方に依頼した人に……?」
醜悪は頷いて肯定を示した。突如、標的の顔つきが豹変する。
「そんな事あり得ないわ! ワタシはあの人に見捨てられたのよ!? 確かにワタシに非が無いとは言えるはずないけど……それでも! 少なくとも、あの人に愛されてはいなかった!」
予想外の発言に、醜悪は面食らってしまった。まるで詐欺にあったのが自分だと言うような、被害者は自分だと訴えるような激昂が彼の心を揺らがせる。彼はしばらく心中で考え、短く言葉を発した。
「詳しく話してみろ」
「ワタシにはね、癌を患ってるお母さんがいるの。死んじゃったお父さんの分まで頑張ってワタシを育ててくれた、大切で唯一のお母さんが。他の家族は皆治療を諦めちゃったんだけど……どうしても見捨てる事なんて出来なくて……」
鬼の形相から一転、幼い子供のように標的は泣き出した。化粧と混ざって黒や白に濁る涙が、とめどなく頬を伝ってこぼれていく。
「でも、最初の治療にすら手が出なくて……そんな時にあの男に出会ったの。落ち込んでる時に優しくしてくれて、否定的な事ばっか言うワタシを支えてくれて、寛容な人だなって思った。でも結婚が申し込まれた時に母親の事を話したら、それを先に言えって蹴り飛ばされたの……。どうせ助からない奴に金を無駄に使えるかって、その日は家を追い出されちゃった」
「…………」
「その日は仕方なくカプセルホテルに泊まったけど、やっぱりワタシには他に行く所なんて無かったからあの男の元に帰ったわ。家の中では、ワタシの知らない女とアイツが寝ていた。それで気付かれないように金庫からお金を取り出して、そこから逃げた……でもやっぱり居場所もバレちゃったのね。直接的な罪にならないようにアナタに依頼するくらい、ワタシを憎んでる」
「……………………」
「駄目ね、ワタシは……最悪な泥棒に成り下がって、お母さんが喜んでくれるはずがない。心が醜くなるくらいに、あの男を許せなかったの。せめてそれだけは、貴方にもわかってほしい」
「……証拠はあるのか」
固く閉ざされていた醜悪の口が重々しく開かれた。ナイフを持つ右手を下ろし、先程よりもわずかに真っ直ぐな目をして尋ねる。標的は静かに段ボール箱を指さした。
段ボール箱の中に入っている箱、その中から医師からの診断書や今後の治療スケジュール。痩せこけてしまっているお婆さんと標的が写っている写真が出て来た。写真に写るお婆さんの後ろにある白い壁には、『毒原実代子』と書かれたプレートが貼られている。
「これだけか?」
「ごめんなさい。あの男との話は、信じてもらうしか他無いの。貰った物も売るなり捨てるなりしちゃったし、連絡先も当然消去。関係があるものは何もかも手放したから……あ、そのお金があったね。半分近くはもう使っちゃったけど」
苦しそうな表情でその場に立ちつくす標的に、醜悪がそっと近づく。右手をゆっくり持ち上げると――ナイフを思い切り放り捨てた。
「……もう、やめだ」
醜悪、否、薬矢憐治が毒原真弓を強く抱き寄せた。依頼も決意も全てかなぐり捨てて、愛する者を胸の中に収めた。細かく体を震わせる彼女の止まりかけていた涙は、再び溢れてしまった。
「今の俺は、醜悪をも捨てた。愛ってやつを、取り戻したから」
「……愛徒くんッ……」
結婚詐欺だと責任を全て押し付けられた毒原が憐治に抱いた愛情は、紛れも無く本当だった。自身の愛を受け止めてくれた彼の体にすがるように抱き付いている。愛が欠失して孤独な化け物となったはずの憐治が、優しく微笑みかける。
「残った金は俺が返して来る。向こうにも非はあるわけだから、なんとか認めさせてみせる。真弓にも関わらないように、強く言って来るよ。それで、いいね?」
「……ぅ」
我儘な話だが、ここで残りの金が無くなるのは真弓にとって相当痛いのだ。中途半端に治療したとしても意味が無く、継続してこそ強い効果を生む。素直に了承出来ない彼女は、顔を隠すように憐治の胸に押し付ける。
「実代子さんの治療費は、これから俺が代わりに払っていく。俺の集めた金も綺麗な物とは言えたもんじゃないけど、真弓のために使わせてほしい。その代わりに――お前が欲しい」
醜悪の名残りか少し言葉が乱暴だが、自分の意思をしっかりと述べた。彼女の額には、憐治の乱れた心音が伝わった。本心で言っている事の証に、毒原は思わず笑ってしまった。最早さっきまでの恐怖心等は持ち合わせていない。
「素直に、嬉しいです……」
「結婚詐欺なんてしたら、誰にも依頼せずに俺が殺すからな」
憐治は結構本気なのだが、毒原の方は笑っていた。彼女にそんなつもりは無くて、今はただ幸せに満ちているからである。ほんのわずかに距離をとった彼女は、静かに目を閉じた。
「ありがとう。ワタシなんかを愛してくれて、信じてくれて」
「ありがとう。醜悪な俺に、人を愛させてくれて」
二人は初めて明確な愛情をお互いに抱いて、優しく口づけた。罪人同士が重なりあって、真っ直ぐに道を歩き始めた――。