5 葛藤
「札束……これは、決まりかな」
箱の底が見えないくらいにびっちりと並んだ札束は、結婚詐欺を臭わせている。憐治の心に、醜悪としての掟が絡み始めた。『愛される側にも罪があれば、その者を殺害する』という端から見れば異常な掟が、彼の傾いていた心を安定させる。
その時、外から車の音が聞こえた。エンジン音や駐車する音が、毒原が帰って来た事を明らかにしている。慌てて扉の下に作ったままの空間に体を通し、枕とクッションを抱えてベッドへ飛び込んだ。掛け布団を被り、狸寝入りをする。
「ただーいまっ! あ、寝てた寝てた……」
帰宅した毒原はそれから小声で謝ると、夕飯の支度を始めた。なんとかバレずにすんだ安心感と、必死に行動していた事による疲労感から、憐治はそのまま深い眠りについてしまった。
* * * * *
憐治が起こされたのは午後五時。料理から漂う香ばしい匂いや毒原の優しい声によって目を覚ますと、夕飯が机一杯に広がっていた。ハンバーグに野菜炒め、オムライスまで作られていて、机の端にはプリンも置かれている。病人に食べさせるにはあまりに豪勢な夕飯に、憐治の目は点になった。
「は、張り切り過ぎちゃって……。食べれそうな物から食べてっ?」
「ん、わかった。ありがとう」
憐治が言われた通り食べる事が出来そうなプリンを手にとると、毒原はとても寂しそうな表情を浮かべて彼を見た。憐治は視線の意味に気付くと、プリンを置いてオムライスを口に運ぶ。ふんわりとした甘さの卵と、酸味が丁度良いチキンライスが上手く噛み合っていて、素直に美味しいと感じた。
「美味い……本当に美味いよ、コレ」
「ほんとっ!? もっと食べて食べてっ! なんなら食べさせてあげるっ」
舞い上がった毒原は憐治からスプーンをひったくると、ハンバーグを彼の口に運ぶ。彼がまだ咀嚼している間に箸で野菜炒めを挟んでいる。彼女の顔は無邪気な子供のようで、純真無垢にも思えてしまう程だった。
――こんな食事、いつ以来だろう。
憐治は自分にもあったはずの賑やかで幸せな食事を思い出す。母親、父親、妹、それに悲劇を引き起こしたあの女性。しかしすぐに過去へ遡るのは止めて、今隣にいる毒原の方を見つめた。
――愛する者なんていらない。相手から貰う愛情は、自分の首を締めるとげとげしい荒縄なんだ。
「どうしたの? やっぱりまだ辛い……?」
光を失って冷めきった目をしている憐治に声をかける毒原。彼女の真意が、本性が掴み切れない事に、憐治はただ焦りを覚える。脳を曇らせる考えを振り払うように首を横に振ると、彼なりの笑顔を毒原に向けた。
「ううん、ぼーっとしてた。美味しいよ、真弓さん」
「……真弓、でいいよ。そう呼んで? 愛徒」
吉良愛徒。殺し屋『醜悪』こと薬矢憐治が名乗った偽名。思い付きの偽名なのに、毒原は愛おしんでそれを呼んだ。いつもなら鼻で笑っているはずの憐治が、今日は何故か安らぎを感じている。
――俺は、おかしくなってしまったのか。
「…………真弓、っ」
考えるのを止めて強引に抱き寄せた後で、柔い唇を欲張る。昨夜の繰り返しが行われて、そのまま日付が変わった。狂っていく二人をよそに朝日が昇り始めたが、その時間には流石に二人共が眠りについていた。
* * * * *
憐治が毒原に接触してからもう一ヶ月になる。随分と深い関係になった二人は、告白の言葉等無いままに交際を始めていた。その期間はまだ十日と短いが、長年連れ添っているかのような親密さが彼等の間には既に生まれている。憐治の方は合鍵も貰っている程だ。
醜悪としての悪い心が、人間としての憐治の心を飲み込んでいく。しかし毒原と会う度に、愛情を渇望してしまっている事にも彼は気付いていた。不安定な精神をなんとか毒原には気付かれまいと、笑う事に日々全力を尽くしていた。
『ねぇねぇ、明日も来てくれる?』
日課となっている就寝前の電話で、毒原が明るく尋ねた。仕事先の店員達にはまだバレていないから良いのだが、あれだけ足繁く喫茶店に通っていたら時間の問題だ。憐治にとって大人数に認識される事は極めて良くない。
「明日は……仕事の都合によるかな。また連絡するよ」
『そっかぁ、分かった! 連載小説家も大変ねっ』
「毎月十ページだし、大したことないよ」
憐治は自身の仕事をそう偽っていた。そうでなければ、ほぼ毎日の午後が空いている事の説明がしにくいからである。喫茶店にも時々ノートパソコンを持って行って書いている振りをしているため、バレはしないだろう。
『尊敬するけどなぁ……ふわぁ。そろそろ寝るね? おやすみ、愛徒』
「わかった。おやすみ、真弓」
一人でいるとすぐに考え込んでしまう憐治は、大量の水と共に睡眠薬を一錠飲み込んで強引な睡眠を試みる。ベッドに寝転がり深呼吸にだけ集中して目を瞑っている彼が、不意に一つだけ考えてしまった事は――。
明日は行かないでおこう――だった。