3 好転
「いらっしゃいませー!」
今日も憐治は喫茶店に訪れている。もう百回以上聞いたんじゃないかと思われる決まり文句に、彼は正直飽き飽きしていた。白色と茶色をベースにしたウェイターの正装にも、もうあまり可愛らしさを感じていない。
今日は毒原がいつもより早く仕事が終われるという事で、食事をする予定になっている。標的の方から誘われるというのは、憐治にとって稀なケースだ。午後四時になって、ホットコーヒーの会計を済ませた。
帰り際に飛んできた毒原のウィンクに、照れたような(もちろん嘘)素振りで対応する憐治は正直疲れていた。早いところ次の段階に移る事を胸に誓って、早足で自宅へ向かう。恋人関係、もしくは親密な関係になれれば充分なのだが――。
「お待たせー吉良くんっ!」
この間の分かれ道で待っていた憐治に、息を切らす毒島が駆け寄った。高そうな服から気品と甘ったるい香水の匂いが漂って来る。待ち合わせ時間は午後六時半だったが、時刻は七時になりかけていて、憐治は寒空の下で約三十分待っていた事になる。
「はぁ、待たされたなぁ。ぶすは……真弓さんに奢ってもらおうかなぁ」
「今、毒原さんって言いかけたから帳消しねっ?」
意味が分からない理由でねじ伏せられるが、会話の主導権は毒原に握らせておくのも今回の作戦なのだ。相手をその気にさせなければ何も生まれないし、何も始まらない――終わらせるために始まりが必要なのだ。
「お魚よりも、お肉だったよね?」
「うん。白ワインよりも赤ワインなんだ」
いまいち的外れな返し方をする。毒原の話に付き合っている間に、彼女おすすめの洋食料理店にたどり着いた。これまた気品が漂う店で、ほぼ新品のスーツを気紛れで着て来た事を幸運に感じた憐治は、彼女に悟られないよう胸を撫で下ろす。
「どぉ? 美味しかったぁ?」
「美味しかったよ。このソテーが特に……聞いてる?」
間抜けな話し方で尋ねる毒原は完全に酔っ払っていた。頬を紅潮させていて、目が少し虚ろな事からも泥酔が察せられる。仕方なく憐治はホットコーヒーが一体何杯飲めるだろう金額を支払って、肩を担いで店の外へ連れ出す。
「ありえないだろ……いや、本当に」
毒原をおぶってとりあえず分かれ道まで向かう。口では愚痴を垂れているが、心の底ではこの状況を結構得だと捉えている。次の段階に繋がる『家の所在を知る』という結構手間取る情報も、案外楽に入手出来るかもしれないからだ。
「ほら、起きてください? 真弓さん?」
頬をつついたり伸ばしたり、軽くはたいたりもするが起きる気配は無い。しかしこのままではどうにもならないため、少しばかり乱暴に扱った。電柱にもたれさせて、肩を掴み大きく揺らす。
「んん、家……あっち。ごめんね……」
少しだけ気力を取り戻した毒原を再び背負い、曲がり角を左に曲がる。耳元で呟かれる方向に曲がってようやくたどり着いた。小奇麗な一軒家だが、あまり周りの家と変わらない事に憐治は少し驚いた。
――家だけは、普通なのか。
下ろした毒原が肩にかけている鞄から鍵を探し出し、玄関の扉を開ける。中もそこまで着飾った感じは無くて、高級感が溢れている訳でもなかった。再び昏睡しているらしい毒原をきちんと整えられたベッドに寝かせた憐治は、心を切り替えた――人から化け物へと切り替わった。
「さて……動くか」
一つだけ電気を点け、部屋の中の引き出しを開け始めた。慣れた手つきで静かに開けては収納物を確かめて、元の状態に戻す。キッチンや、トイレ、風呂場までも確認するが、めぼしい情報は得られない。苛々が募って来た時、一つだけ開かない扉を見つけた。
「……ここか?」
どうするかを脳内で模索していた――その時。
「ねぇ……帰らないで? 吉良くん……っ」
毒原の艶めいた瞳と湿った唇が色気を辺りにばらまいている。憐治が点けて来た電気が淫らを身に纏う彼女をぼんやりと照らす。眠っていた彼女を起こす些細なきっかけになり、憐治の男としての本能をくすぐる状況を生み出している。
抱き付いてきた彼女の甘ったるい吐息が憐治の耳にかかり、脳の中心までをも惑わせ、押し付けられる柔らかな胸の感触が心臓を乱すように誘惑する。憐治は彼女に手を引かれるままベッドへ倒れ込むと、そのまま淫らな展開へと持ち込まれた。彼は敢えて抵抗せずに、毒原の欲求に応じる。
――これで、第二段階も終わった。
――標的との関係は、さらに深まっていくはずだ。
自身の功績を祝福するように、目の前で激しさを増していく快感に浸った――。