1 醜悪
薬矢憐治は十二歳の時、初めて殺人現場を目撃した。
自分の父親が、自分の新しい母親になるかもしれなかった女性に殺されたのだ。
首を包丁でざっくり斬られた父親から噴き上がった真っ赤な鮮血に恐怖を感じて、号泣しながらも口元だけで歪に笑っている女性の狂気を感じた。逃げるように物置小屋に身を潜め、握っている妹の手は決して離さない。お互いの手汗が混じるのを、気持ち悪く思う余裕も無かった。
戸の向こうでは、荒い呼吸と虫唾を走らせるような笑い声が続いている。二人に父親の仇を討とうという意志は生まれず、その場から動く事すらも出来なかった。恐怖に支配された二人の心は、最早壊れたも同然である。
怯えて体を震わす事、十五分。狂った女性の気配は消えて、二人の心にも動ける程の余裕が心に生まれた。そっと戸を開けて静かに家の中を確認しに回るが、どこにも女性の姿は無く、靴すらも残っていなかった。自分の目的を達成した事に満足して、どこかへ行ったらしい。
女性は二人の父親を愛していた。彼の苦手とする料理もこなし、彼の仕事が忙しい時は泊まり込んで二人の面倒を見た。実の母親を亡くして消極的になってしまった二人に話しかけ、元気づける事も決して欠かさない完璧な女性だった。
だが父親は、彼女が妻のように、母親のように振る舞えば振る舞う程、複雑な気持ちを抱えてしまっていた。実の妻と過ごした満ち足りた日々をどうしても思い出してしまい辛くなるからだ。彼の人生の中でパートナーとなる唯一の存在は、既に交通事故で失ってしまっている。誰であろうと、彼女の代わりになんてなりはしないのだ。
その結果、女性は遂に発狂した。散々尽くさせておいて、目一杯活用したはずの自分を愛していなかっただなんて、許せるはずが無かったのだ。愛情は裏切られて憎悪を生み、生まれた憎悪は殺意へと派生してしまった。だから今回の事件に至ってしまい、恋愛は終わりを迎えた。人が人を殺す理由なんてのは、案外何のひねりも無いものである。
「お……お父さ、ん……」
握っていた手を振り払った妹が、既に命を失った父親の体に抱き付いた。彼女の体にもべったりと血が付着して、服に蘞たらしいシミを作っていく。その光景を、憐治は極めて異常だと思ってしまった。最後の家族である妹を、心が酷く拒絶してしまっていた。
何も言わず、彼は家を立ち去った。死体にべったりと抱き付いて離れない妹を置いて、一人で惨劇から逃亡した。彼の容量を軽く超えてしまった脳で、誰がおかしくて誰が正しいのかを必死に模索しながら、長い年月を跨いで逃げ続けた――。
* * * * *
『おい……依頼だっ! 毒原真弓って女を殺してほしいッ!!』
「詳しく話せ。その女の事を」
いかにも危ない電話の内容。殺害の依頼を受けた男は黒のよれた帽子に、これまた長く着られたであろう黒の長いコート。十一月にしては暑い今日だが、彼の青白い肌に汗は滲んでいない。
毒原真弓の現在の職は喫茶店のウェイター。依頼主に恨まれてしまった理由は、彼に結婚詐欺を働いたため。充分な証拠があれば警察に任せられるというのに、依頼主はただ憤慨の裁きを彼女に与えたいから男に依頼したと言う。
「お前は、その女を愛していたのか?」
『ああ、そりゃこないだまではな……だが、俺から一千万円を奪った挙句に、子供が出来たなんて話も嘘だったとはよぉ。俺が優しく撫でていた腹は、ただ紙を詰めたものだったなんて……頼むっ! ブッ殺してくれぇ!!』
「……わかった。受領しよう」
黒い服に身を包む男は依頼を承諾した。とりあえずしばらくは自身に課した掟に基づいて行動する事になるだろう。男が電話を切ろうとした時、依頼主はまだ何かを言っていた。
『殺してくれたら、ツテを当たってでも五百万円を用意する! だから、必ずあのクソアマをブッ殺してくれ! 良い報告を待ってるぜ……醜悪さんよ』
醜悪と呼ばれた男は無言のまま電話を切った。まずは標的の人柄を完全に把握するために、直接接触しなければならない。仕事の準備を整えるために、住んで三年になる自宅へ帰った。
「毒原真弓、愛された側……か」
醜悪を名乗る殺し屋、薬矢憐治。重い過去を引きずる孤独な化け物が、依頼完了への道を歩き始めた――。