九
「丁!五十年前の裁判目録を今すぐ礼部尚書に持ってかないといけないんだ、至急用意してくれ!」
「おーい、それが終わったらこっちを手伝ってくれー!早く終わらせて昼飯を食うぞー!」
「はいっ!」
広い蔵書室の中、明燕はぱたぱたと走り回っていた。かれこ休憩をとる時間もなく、朝から働きづめである。蔵書室の仕事は想像していたよりもずっと忙しかったが、それが苦だとは思わなかった。的確に裁判目録の書棚を見つけると、つま先立ちをして取り出す。比較的小柄な明燕にとって、高いところの書物が取り出しにくい、それが仕事におけるたった一つの悩みだった。
「室長、裁判目録です」
「おお、早いな!褒美をつかわそう」
「わっ」
「腹の足しにしてくれよ~」
室長は月餅を懐から素早く取り出すと、明燕の頭の上にぽんと置く。明燕が慌てて頭の上から月餅手に取ると、満足そうに笑い、足早に礼部に向かっていった。多忙な一日が苦痛でない大きな理由に、周りの人の環境があった。麗千という友達ができたのはもちろん、蔵書室の官吏は皆優しかった。仕事を教えてくれない、とか、あからさまに無視されると零す麗千や他の同僚達の話が俄かに信じられなかったぐらいだ。しかし、久しぶりの新人ということも相まってはいるのだろうが、この蔵書室はとても変わっていたらしい。礼部や吏部など、他所に頼まれた書物を届けに行く際、それを身をもって体験することになった。
「あれが、下賤の…」
「…下賤の女に学があるなんて、不正でもしたんじゃないか?」
「女で庶民だなんて、宮中が穢れるんじゃないか」
「どうせ碌に役に立たないんだろう」
ぶしつけに寄越される嫌悪の視線と、誹謗中傷。ほんの一部ではあるが、確かにまだまだ女官吏という偏見、そして庶民という差別は残っているようだった。
しかし明燕にとって、そのような視線や言葉は些細なことに過ぎない。父親の屋敷で暮らした時と比べたら可愛いぐらいである。それよりも問題なのは、直接手を出してくる場合だ。
「おい丁。それ、どうしたんだ?」
書類の整理を手伝っている時、向かいに座りながら仕事をしていた張高悠が訝しげに視線をよこした。
「へ?」
「それだよ、それ」
「ああ、これですか」
視線の先が、自分の官服の袖に向いてることに気づいて納得する。
「ぼろぼろじゃねえか」
「はは……まあちょっと色々ありまして」
「誰だ、どこの奴にやられた」
「いやあ、朝派手に転びまし、」
「あ?」
さすがに子供だましの嘘は通じないらしい。張の目がいっそう鋭くなる。
「……初対面でしたからどこの方なのかはちょっと。それに顔もあまりよく見れませんでしたし」
結局正直に言うことになった。眉を下げて笑う明燕とは逆に、張は厳しい顔をして明燕を睨みつける。その怒りの先は明燕の袖を破いた人間にあるのだが、こうも真正面から睨みつけられると、まるで自分が怒られているように思えてしまう。
「丁。」
「はい。なんでしょう」
「俺はお前の先輩だ。先輩は後輩を守ってやらねばならない。何か困ったことがあったらすぐ言うように。」
まさに先生に叱られる生徒の心情である。明燕は素直に返事をした。
「いいか、命令だぞ」
「ふふ、分かりましたよ、張さん」
「笑ってんじゃねぇ、さっさと続きだ!そして飯だ!」
明燕より一個上の張は、三年越しに自分の後輩ができたことが嬉しくてたまらないらしい。空前の高水準といわれる三年前の科挙で第5位及第をした張は、頭は非常に切れるのだがどうも子供っぽいところがある。どちらが年上なのか分からない、とよく他の蔵書室の官吏にからかわれていた。もちろん本人はそれが気に食わないようではあるが。
ちょっとの問題はあるが、穏やかで充実した毎日。
もう少し時間が経てば、他の官吏からの嫌がらせもなくなるだろう。
そう、この時の明燕は思っていた。




