八
目をゆっくりと開ける。
春を迎えたばかりの、まだ冷たさを帯びた空気が蔵書室の中を満たしていた。
止水はやっと明かりを灯す。燭台の炎がゆらゆらと揺らめいて、どことなく幻想的だ。
(確か…この辺りに)
遠国の史書が収められている書棚の右端一番下。ほとんど使われることのない棚にあるはずだと、埃のかぶったとりわけ重厚感のある書物に手を伸ばした。
西国の流れるような横文字が並んだ黄ばんだ紙を一枚一枚めくっていく。半分ほどまでめくったところで、止水の手がぴたりと止まった。
「山茶花……」
懐紙にはさまれ、さらに本に挟まれていたのは薄い桃色をした山茶花の花弁。
傷つけないように丁寧に手にとる。十年という時を重ねた花は、まだその美しい色を留めていた。
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「陛下、こんな夜更けにどこほっつき歩いているんですか」
寝所に戻ると、扉の前でよく知った人物が腕を組んで仁王立ちしていた。
李千樹である。
「千樹こそどうしたんだ.緊急の報告か?」
「どうしたもこうしたも、大変だったんですからね」
憮然とし顔の千樹が答える。その顔には、確かにどことなく疲労が滲んでいるように見えた。何があったのか、と聞くまでもなく千樹は続ける。
「林家の可玲様がいらしゃって大騒ぎです。来たはいいけど、陛下が寝所にいらっしゃらなかったわけですから」
「……またその手か。林がそんなに浅慮だとは知らなかったな」
「林家はまあ、かなり追い込まれておりますからね。どうにか娘を陛下の手籠めにさせて、政治の中枢に関わっていたかったんでしょう。」
林家は先の官吏監査によって門下侍郎の職から大幅に降格させられていた。そのような出世の道を閉ざされた貴族が、自分の娘を止水の側にと、侍女やら妓女やら、いろんな形で置こうする行為はよくあることであり、安易に咎めることはできない。しかし、最近は林家のように、寝所に直接息女を送ってくるような事も稀に起こるようになっていた。
「それで林可玲は」
「眠らせて、仮牢に。林家自体には明日処罰の旨を報告します」
「馬鹿なものだな。何人もの前例が同じく牢に入れられているというのに」
「馬鹿ですから仕方ありませんね」
千樹はやれやれというように肩を竦めた。
「それに、陛下をその気にさせるんでしたら、若い女性ではなく、ありし日の山茶花の君のように幼い少女でなければ…って陛下?」
いつものように、冷え切った目で見られるかと思いきや、深刻そうに黙りこくった止水に千樹は少なからず驚く。
「そのことなんだが、」
止水はゆっくりと切り出す。
「私が十年前に会った少女は、今年科挙の国試に次席合格した『丁明燕』だ。」
千樹は、止水の差し出した山茶花の押し花を凝視した。先程のちゃかした雰囲気はすっかり消え失せている。広い蔵書室の膨大な書物の中、どこにはさんだか忘れてしまったと、昔独り言のように呟いた止水を思い出した。
「……離す気は、ないんですよね」
「愚問だな。」
「分かりましたよ……あなたが十年間想い続けていたのを、だてにずっと見続けていたわけではないですからね。」
「すまない、そしてありがとう」
想い人が現れなかったら、一生独身を貫くと決めていた止水。
その時ばかりの言葉かと思いきや、その覚悟は千樹にもしっかりと伝わっていた。
それならば想い人が現れた今、千樹にすることは一つしかなかった。
(応援しますよ、陛下)




