七
「明春、君は城に来るのは初めてか?」
「そうです、とても大きくて本当に驚きました。」
明春は先程とはうって変わって、はきはきと物を話した。もう叱られることはないと安心したのだろう。
「君の屋敷も負けずに大きいだろう?」
明春の姓は『劉』と言っていた。劉家は蒼国でも有数の大貴族だ。ただ、現当主の評判は著しく悪く、宮中において高い位にはついていない。その分、裏の家業で稼いでるというほの暗い噂もある。
しかし、明春は困ったように眉を下げた。
「私、最近父に引き取られたばかりなんです、母が死んでしまったので。…それに私、義理の母にあんまりよく思われてなくて、別邸に住んでいるんです……」
「……すまない。言いにくい事を言わせてしまった」
「いいんです!もう過ぎたことですし、今の生活も少しずつ慣れて楽しくなってきたところなんですよ」
手をぶんぶんと横に振って否定する。
「それに、お父様のお屋敷にはたくさん本があって、とても勉強になります」
「此処にも、本が見えたから入ったと言っていたが、明春は本が好きなのか?」
「はい。純粋に知識が増えていくのも楽しいですし、知識があればできることだってあります」
「できること?」
止水は明春の力強い目に首を傾げた。こんな小さな女の子が、知識で成し得ることがあるだろうか。
「私の母は、三年前の飢饉の時にかかった病が長引いて死んでしまったんです。私の友達も、近所の人もいっぱい死にました。その時、街の衛生状態がすごく悪くって。原因は井戸の水だったんですけど、ちゃんと沸騰させてから飲んでいれば防げたことでした。三年前の私が知っていればきっとまだ皆は……」
そう言うと、悲しげに目を伏せた。睫毛が白い頬へ影を落とす。
三年前というと、止水は十五歳である。そんな時に飢饉など起こっていただろうかと思い返してみるが、自分の日常は何の変化もなかったように思う。白い米に野菜、それに魚は毎日三食欠かすことなく、当たり前のように目の前にあった。
そして止水は気づいた。
自分の世界はこの広くて狭い城の中だけであることに。
側室の子、それも三男であった止水は、陰謀渦巻く宮中に縛られていた。そして誰とも分からない人間に、命を狙われている自分が不幸だと思っていた。街の民のように、何にも煩わされず、自由に暮らしたいと思っていた。
(なんと傲慢なことだろう)
民は、自分などよりずっと恐ろしい現実に直面して生きているのだ。凶作に飢饉、疫病、そして追い打ちをかけるような国の搾取。国によって守られるはずの民が、国によって命を奪われている。そんな現実。煩いのない自由なんてあったものではない。
父や兄達を軽蔑して、自分は誰も虐げずにひっそりと生きていきたいと思っていた。腐りきった国を変えることができる可能性を持ちながら、目を向けることを拒否し続けていたのだ。
「私、いつか平和で豊かな国になったら、こういう所で本に囲まれて働きたいんです!それか、学問所の先生!」
明春は、伏せていた目を上げ、再びきらきらと目を輝かせる。止水はそこに、確かな希望を見た。そして、その光を守りたいと思った。
「……残念ながら官吏も、学問所の教師も、男しかなれないな」
「今は、そうです。でも次の国王陛下が変えてくださるかもしれないし、その次の次の国王陛下が変えてくださるかもしれません」
「前向きだな」
ククク、と笑みがこぼれる。
明春が言うと、なぜかそうしたい気持ちになってくるから不思議だ。
この小さな女の子の夢が、今や自分の目標になりつつある。
(私は、この子が生きたいように生きられる国をつくりたい)
止水は、明春の綺麗に整えられた髪を一房取ると、そこに口づけた。無意識の、自然な行為だった。そんな行動をとった自分自身に驚くと同時に、真っ赤になる明春を愛おしいと思った。
西日が格子窓から柔らかく差し込む。明春の簪の鈴がちりんと鳴った。
「さあ、英遼殿まで送っていってあげよう」
顔を髪に挿した山茶花と同じ色に染めた明春の手を引く。
二人は黙ったまま、蔵書室を出た。見張りの兵がいない道を通って行くが、さすがに皇妃である英遼殿までは入れない。
「私が送れるのはここまでだ。そこに入口が見えるだろう、さあお行き」
止水はそっと明春の手を放した。きっとこの少女は自分の元へ再び現れてくれるだろうと信じて。
「あの……」
さっきから足元を見ていた明春が顔をあげて、口をきっと結んだ。
「私の本当の名前、丁明燕です。明春は新しくお父様から頂いた名前だけど、お役人様には明燕って呼んで欲しいです。私は明燕だから」
「丁明燕……いい名だ」
止水は不意に抱きしめたくなった無理やり衝動を抑えこんだ。
かわりに、挿してあった山茶花をすっと抜き取る。
「これをもらっていいか?」
こくりと頷く。
「……また、会えますか?」
「ああ、きっと会える」
ゆったりと、それでいて深く頷いた止水に、明燕は安心したように顔を綻ばせた。
「ありがとうございました、お役人様」
頭をぺこりと下げて背を向けた明燕。
小走りで駆けていくその背に、止水は自分の名を告げていないことに気づいた。きっと明燕は。親王であろうが、何であろうが、ただの蒼止水を見てくれるに違いない。
「明燕!私の名は――――――」
届いたどうかはわからなかった。




