六
十年前のある日――――。
宮中の喧騒とは程遠い静かな蔵書室に、カタンと音が響いた。自分一人だと思っていた止水は身構える。親王という自分の身を狙う暗殺者はとてつもなく多い。先日成人の儀を行ってから、その数はいっそう跳ね上がり、それと同時に擦り寄ってくる輩もずいぶんと増えた。
そんな煩わしさから解放される、唯一の場所がこの蔵書室である。止水は静寂をやぶった何者かが潜む場所を睨み付ける。
「誰だ」
隙のない、氷のようだとも形容される声。返答はない。
護身用に帯刀している剣の柄に手をかけ、物音のした方向へゆっくりと足を進める。
「……子供?」
止水は、目に入ってきた人物に拍子抜けした。背の高い書棚の隙間で、一人の少女が寝ていたのだ。歳のほどはせいぜい八、九歳といったところか。膝の上に暑い書物を置き、すやすやと寝息をたてている。状況からしてみるに、本を読んでいるうちに眠ってしまったのだろう。貴族の息女らしく、絹でできたかなりの上等品を身に着けている。あどけないその表情に、さっきまでの緊張が一気に和らいだ。思わず少女の頬にかかっていた髪をはらうと、小さく身じろいだ。ん、というかすれた声とともにうっすらと目を開ける。どうやら起こしてしまったらしい。
「……誰?」
「それは、私が君に聞きたいところだが」
寝ぼけているのだろう、その目はぼんやりと止水を見ている。
しかしすぐにハッとしたようにごしごしと目をこすると、勢いよく立ち上がり、その勢いのままに頭を下げた。
「私は丁…劉春明です。あ、あの迷子になってしまって、それで本がいっぱいあるのが入口から見えたので…その…勝手にはいちゃってすいません…」
「いや、構わない。見張りの兵はいなかったのか?」
「はい、誰もいなかったです…」
勤めの時間は既に終わっていたため、蔵書室の人間がいないのは仕方ないが、見張りがいないとなると、少し問題だ。後で宰相に報告しなければいけないと、止水は眉をひそめた。それを怒っていると勘違いしたのか、明春はまた小さな声ですいませんと謝った。
「あの、お役人さんですよね?」
「ああこの蔵書室に努めている。」
とっさに嘘をついた。ただでさえ恐縮している彼女に、自分が親王だということを明かしてさらに震えあがらせたいとは思わない。幸運なことに、明春という名の少女は自分の顔を知らないらしい。
「申し訳ないんですけど…英遼殿というところまで連れていってくださいませんか…?場所が分からなくて…」
「英遼殿…」
その言葉に、自分の異腹の弟の事を思い出した。今日はその弟の母親である蓮淑妃が客人を招くらしと側近から聞いていた。なるほど、客人というのは自分の息子の妻にと考える貴族の息女達であり、英遼殿でその顔合わせが行われているらしい。
「あの…お役人様?」
黙り込んだ止水を怪訝に思ったのか、明春が首を傾げた。
「もちろん、連れていってあげよう。ただその前に、ちょっと私と話さないか?」
明春は、止水の突然の提案に目をぱちくりとさせた。
止水が少女を引き留めたのは、思惑が渦巻く城の中で久しぶりに出会った純粋な目に動かされたと、ほんの気まぐれだったと、後から理由づけるのは簡単だった。




