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五
止水は寝所に戻ったものの眠ることができず、蔵書室へ向かっていた。日はとっくの前に落ち、月の青白い光だけが頼りである。時間外には立ち入りの禁止されている蔵書室はであったが、やって来たのが帝である止水だと分かると、見張りの兵士はうやうやしく頭を下げた。広い蔵書室は、物音一つしない静けさをたたえている。
「丁明燕…か」
先程から幾度となく呟いたその名前は、もうすでに自分の口に馴染んでいるようにさえ感じられた。任官式に遅れなければ、と今更ながら後悔する。急遽やってきた隣国からの使節の対応で、止水が任官式に出れたのは後半だけであった。その時にはすでに、任官先の発表は終わっていた。その上帝の席はかなり新官とは遠く離れた玉座に位置していたため、顔を見ることも叶わなかった。
止水はそんな後悔と共に、相反する安心した気持ちを持っていた。
(もしあの少女だったとしたら、今度こそ私は、彼女を離せないかもしれない)
十年前、名前を知らずに別れたまだ幼い少女。
理知的でありながら、きらきらと光る優しい目を今でも鮮明に思い出すことができる。
蒼国の皇帝、蒼止水が后はおろか、妃を一人もとらない理由はそこにあった。
彼は一度だけ会った少女を、今でも強く想い続けていたのである。
止水は目を閉じて十年前のあの日へと思いを馳せた。




