二
都の中心部から。少しばかりはずれにある古本屋は、いつも以上の客で溢れ返っていた。小さな店内でひしめき合う客のほどんどは顔の見知った常連である。
「明燕ちゃん、ほんとうに行っちまうのかい」
「うん、でも遠くに行くわけじゃないし、お休みをもらった時は帰ってくるよ」
明燕と呼ばれた少女は、鼻をすすっている男に笑って答えた。
「それにしても寂しくなるわね、看板娘がいなくなっちゃうなんて。これはあたし等からの餞別だよ、受け取っておくれ」
近場で定食屋を営む体格のいいおばさんが、近所の人とお金を出し合って買ったのだという筆を明燕に渡した。
「おばさん、でもこれ…」
「いいんだよ、皆明燕が大好きなんだ。使ってくれたら私らもこの筆も本望ってもんさ」
下級官吏の、しかも平民出身の明燕が使っていいのかと気後れするほど、有名な職人の作った筆である。困惑の表情を浮かべた明燕に、定食屋の女将は豪快に笑ってみせた。
「ま、お給金が出た時には是非うちで食べて行っておくれよ」
「ありがとうございます…!」
好意を無碍にしてはいけない。明燕は筆を大事に鞄の中に入れる。
「いやあ、それにしても明燕ちゃんがいなくなっちゃうとなると、この店も残るはババアだけになっちっまうねぇ」
「なんだって!?」
不意に店の奥から聞こえた声に、発言した男が固まった。
「しょ、昌花さん…」
「誰がババアだって?もう一度言ってみやがれ」
鋭い眼光で男を睨みつけたのは明燕の伯母である昌花だ。今年三十八歳になる彼女にとって、ババアという言葉はまだまだ禁句であるらしい。美しい眉間に皺が寄っている。昌花はつかつかと近寄ると持っていた本で男の薄くなった頭をパシンと叩く。
「ほら、あんたの探してた本だよ、次またババアなんて言ったらしょうちしないからね」
「す、すまないねぇ」
頼んでいた本がやっと手に入った嬉しさと昌花への恐怖で脳内をきれいに半分に分けられた男は、はた目にもおかしいぐらいしどろもどろになっていた。
「それから、」
昌花は明燕へと向き直る。
「覚悟はあるんだろうね、明燕」
その言葉にこくりと頷く。
「女が官吏になれるようになって三年っていったって、まだまだ宮中って場所は男社会に違いないんだ。それにお前は先立つ女性官吏の方々とは違って下町出身なんだ。風当りは強いかもしれないよ。」
厳しい言葉の中に、伯母の不安が現れているようだった。今までの女性官吏は十二名。その全てが貴族の才媛である。いくら男社会といったところで後ろ盾を持つ彼女達に真っ向から立ち向かう者はなく、せいぜい隠れて嫌味を言うぐらいで済まされているのが現状だ。その中に我が子同然の明燕を放り込むというのは、昌花に言い知れない不安を感じさせた。
「ありがとう伯母さん。でも、心配しないで。私、見たことのないたくさんの本の中で仕事できるって思うとすごく幸せだと思うんだ。だから、大丈夫。」
しかし明燕はそ、んな考えを一気に忘れされてしまうように笑った。つられて昌花も笑顔になる。
(きっと大丈夫。この子なら。あれだって乗り越えたんだから)
昔を思い出し、少し切ない気持ちになりながらもずいぶんと芯の強くなった姪っ子の頬を両手で引っ張った。
「辛くなったらすぐ帰ってきてもいいなんてアタシは言わないよ。行ってきな」
まったく素直じゃないねぇ、などという周りの声を知らんぷりし、明燕を店の出口まで追い出す。
「ほら、行った行った!」
シッシッと子犬を払うような昌花に、明燕は思わず笑ってしまう。店内にいたお客さんも、二人の後を追うように皆外へ出てきている。
「じゃあ、行ってきます。伯母さん。それから皆さん」
最後にもう一回だけ手を振ると、明燕は近くて遠かった場所、王宮に向かって一歩足を踏み出した。




