十五
「ふふ、ごめんなさいね。官吏として一生懸命な貴女が羨ましくて、ちょっと意地悪を言っちゃったわ」
女官は細めていた目元を和らげた。ピンと張っていた空気が元通りに流れ始める。
「私、医者になりたかったの。でも、父と母に許してもらえなくて、こうして女官をやっているわ。帝の目に留まるように、って」
「そう、なんですか…」
これが、現実だ。明燕はその言葉にチクリと胸が痛んだ。本人が望もうが望まなかろうが関係ない。帝の周りには、多くの美しい華が咲き誇る。
「でも父も母も馬鹿みたいね。その帝様は後宮を閉鎖してしまうし。ざまあみろって思うわ」
美しい唇には似つかわしくない汚い言葉を使って、悪戯っぽく肩を竦めた。止水が後宮を閉鎖したのは、明燕のためであり、何も言うべき言葉は探せない。黙る明燕を気にした様子はなく、女官は続ける。
「今度はあの貴族に嫁げだの、この貴族に嫁げだの五月蝿いけど、もう絶対に言いなりになるつもりはないの。女官の仕事は思ったより楽しいし、ここなら医術の勉強もできるわ。自立してやるわよ」
最後は自らに言い聞かせるようだった。そしてふと我に返ったように話題を変える。
「それにしても、蔵書室には初めて来たけど、本当に広いのね」
「そうですねえ、宮中でも一、二を争う広さだと聞いたことがあります。そろそろ医術書の棚に着きますよ。」
「あら、ありがとう。貴女は迷子になったりしないの?」
「最初の一週間はさすがになりました……。でも、今はもう全部の配置を覚えています!」
「さすがねぇ。貴女は官吏になるべくしてなったのね」
私には絶対無理だわ、と呟く。
女官が呟いたのと丁度同じぐらいの時に、明燕も足を止めた。
「あ、ここです。」
明燕の促す方向に視線を向けると、大きな目が輝いた。
六つ連なる全ての棚一面が、自分の求める書物であることに相当興奮しているようだ。
「……まあ、西洋の医術書だけでもこんなにたくさん!」
「ちなみに向かい側は全て東洋医術ですよ。借りる本が決まったら、また出口まで案内しますので声をかけてください。私はここの机にいますので。」
「わかったわ!ちょっと時間がかかってもいいかしら?」
「ええ、ごゆっくりどうぞ!」
そわそわと落ち着かない様子で棚に目を移した女官を微笑ましく眺めたあと、明燕は途中だった資料を取り出して、書棚の間にある机の上に置いた。できる仕事は早めに終わらせておきたい。止水に呼ばれた時に、仕事が終わらなくて行けない、なんてことにならないように。
しばらく筆を走らせていると、重そうな本を二冊と、巻物を1巻抱えた女官に声をかけられた。
「今日はこの三つを借りるわ!」
「分かりました。入口まで一冊持ちましょうか?」
腕の中を書物で一杯にする姿を見てそう提案するが、女官は首を横に振る。
「これくらい大丈夫よ!……あっ」
言ったそばから、腕をすりぬけるように本が一冊落ちた。
「……やっぱり、お願いできるかしら?」
「ええ、もちろん」
明燕は落ちた本を拾うと、机の上の資料をまとめて歩き出した。
入り口の近くになると、蔵書室の官吏の姿がちらほら見え始める。そのほとんどが美しい女官にくぎ付けだ。
「美紅様、この饅頭いかがですか?」
「美紅様、室長の月餅もありますよ」
「さっき庭で摘んできたんです、美紅様に似合うと思って」
次々とかけられる声に、美紅とよばれた女官は困ったように眉を下げた。
「ごめんなさい。お気持ちは嬉しいのですが、とても持てませんわ」
「それじゃあ俺が本を持ちましょう!」
真っ先に近くまでやってきた張が、美紅の腕から本を取った。明燕は、初めて見る張の紳士的な態度に呆然している。普段の張とは仕草も表情も異なりすぎて、まるで別人みたいだ。
(少し気持ち悪いけど……)
失礼なことを思いながらも、なんだかその様子が面白くて笑ってしまった。
「ありがとうございます、お優しいのですね」
「いえ、当然のことです」
美紅は艶やかに微笑む。張はお前はもうお役御免だといわんばかりに、勝ち誇った笑みを明燕に向けた。
(後で、他の先輩方からのやっかみが怖いですよ。ご愁傷さまです)
帰ってきたあとの張を想像して、心の中で手を合わせる。
「丁明燕」
美紅が声を落として、明燕の耳元に顔を寄せる。
「貴女、気をつけて」
いきなりの言葉に、目をぱちくりと瞬かせた。冗談では言っていないとすぐに分かる、真剣な声。
「どういう……」
「今日はありがとう、また来るわ」
明燕が言葉の意図を聞く前に、美紅は何事もなかったかのように美しく笑って蔵書室を後にした。




