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山茶花の春  作者: 木村
12/18

十二


「蒼…止水…」


告げられた名前を繰り返す。口の中が急激に乾いていく感じがした。

止水は何も言わない。ただその深い藍色の目で、じっと明燕を見ていた。


「…数々のご無礼、どうかお許しください」


蒼止水という名前は、この蒼国の国王陛下のものではなかっただろうか。明燕はぼんやりとした頭で考えた。

そして今度こそは頭も心も冷え切っていく。自分は何という人を相手にしていたのだろう、と。

男は役人でも王族でもなく、その上に君臨する唯一の人物だった。

震える声で、臣下の礼をとる。跪き、頭は一番深く、最上級の畏怖と敬愛を表して。


そんなことをしてほしいわけじゃない。止水は一瞬悲しげな色をその目に映したが、すぐに明燕の肩を支え、力強い手で抱き寄せた。

月下の庭園に、ふたりの影が重なる。


「陛下……」


息が詰まる。

明燕は自分の身に何が起こっているのか分からなかった。

ただ、喉の奥がきゅっとつまって、鼻の奥がつんとする。なぜだか分からない、涙があふれた。

自分が想い慕っていた人物が、あまりに遠い存在だったからだろうか。

皇帝陛下と、庶民出身の官吏。その差は天と地より遠い。

でも、それだけではなかった。

驚きと切なさと悲しみ。それに喜び。全てが混じり合って、涙は止まってはくれない。





止水は、自分の胸を濡らす明燕に気づきながらも、彼女を離すことができなかった。

このまま庭園にいたら風邪をひいてしまうだろう。止水はそのまま明燕を抱き上げて、部屋の中へ入る。

自分の腕の中に身を任せる少女がひどく愛おしい。

明燕は抵抗することなく、止水の長衣のすそをぎゅっとにぎった。


止水は明燕を抱いたまま、部屋の長椅子に腰を下ろす。

顔をあげようとはしない明燕の黒髪を優しくぜた。


たとえ明燕が泣いて嫌がったのだとしても、もうこの少女を手放すことはできないだろう。心の奥底に沈んでいたはずの独占欲が、自分でも驚くぐらいの大きさで現れたのだ。

止水は自分さえも気づかなかった歪んだ愛情に、小さく自嘲した。


「明燕、私は君に臣下として接してほしいわけじゃない」


「……」


「私はずっと、たった一度君に会った時から、忘れられなかった」


明燕の肩がぴくりと揺れた。


「私を、一人の男として見てくれないか」


止水の真摯な、それでいて痛切な言葉だった。


おそるおそる顔をあげる。

まだ涙がたまっている目は赤く、まつ毛は艶めかしく濡れている。


「……私も」


唇が小さく動く。


「私も、お慕いしていました……」


聞き漏らせば、すぐさま空気に溶けて消えていってしまうような、本当に小さな声だった。



「十年前から……ずっと……」


明燕、と呟くと、止水はもう一度強く腕の中の少女を抱きしめた。





おおきな涙が一滴、止水の肩口に吸いこまれていった。










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