十二
「蒼…止水…」
告げられた名前を繰り返す。口の中が急激に乾いていく感じがした。
止水は何も言わない。ただその深い藍色の目で、じっと明燕を見ていた。
「…数々のご無礼、どうかお許しください」
蒼止水という名前は、この蒼国の国王陛下のものではなかっただろうか。明燕はぼんやりとした頭で考えた。
そして今度こそは頭も心も冷え切っていく。自分は何という人を相手にしていたのだろう、と。
男は役人でも王族でもなく、その上に君臨する唯一の人物だった。
震える声で、臣下の礼をとる。跪き、頭は一番深く、最上級の畏怖と敬愛を表して。
そんなことをしてほしいわけじゃない。止水は一瞬悲しげな色をその目に映したが、すぐに明燕の肩を支え、力強い手で抱き寄せた。
月下の庭園に、ふたりの影が重なる。
「陛下……」
息が詰まる。
明燕は自分の身に何が起こっているのか分からなかった。
ただ、喉の奥がきゅっとつまって、鼻の奥がつんとする。なぜだか分からない、涙があふれた。
自分が想い慕っていた人物が、あまりに遠い存在だったからだろうか。
皇帝陛下と、庶民出身の官吏。その差は天と地より遠い。
でも、それだけではなかった。
驚きと切なさと悲しみ。それに喜び。全てが混じり合って、涙は止まってはくれない。
止水は、自分の胸を濡らす明燕に気づきながらも、彼女を離すことができなかった。
このまま庭園にいたら風邪をひいてしまうだろう。止水はそのまま明燕を抱き上げて、部屋の中へ入る。
自分の腕の中に身を任せる少女がひどく愛おしい。
明燕は抵抗することなく、止水の長衣のすそをぎゅっとにぎった。
止水は明燕を抱いたまま、部屋の長椅子に腰を下ろす。
顔をあげようとはしない明燕の黒髪を優しく撫ぜた。
たとえ明燕が泣いて嫌がったのだとしても、もうこの少女を手放すことはできないだろう。心の奥底に沈んでいたはずの独占欲が、自分でも驚くぐらいの大きさで現れたのだ。
止水は自分さえも気づかなかった歪んだ愛情に、小さく自嘲した。
「明燕、私は君に臣下として接してほしいわけじゃない」
「……」
「私はずっと、たった一度君に会った時から、忘れられなかった」
明燕の肩がぴくりと揺れた。
「私を、一人の男として見てくれないか」
止水の真摯な、それでいて痛切な言葉だった。
おそるおそる顔をあげる。
まだ涙がたまっている目は赤く、まつ毛は艶めかしく濡れている。
「……私も」
唇が小さく動く。
「私も、お慕いしていました……」
聞き漏らせば、すぐさま空気に溶けて消えていってしまうような、本当に小さな声だった。
「十年前から……ずっと……」
明燕、と呟くと、止水はもう一度強く腕の中の少女を抱きしめた。
おおきな涙が一滴、止水の肩口に吸いこまれていった。




