十
終業の鐘が鳴ってしばらく、すでに日は傾き始めていた。
寮への帰り道を、明燕は速足で歩く。何度か帰り道に絡まれ大変面倒な思いをしたことから、宮中ではゆっくり歩いてはいけないと学習したのだ。
と、建物の陰からいきなり腕をつかまれた。
気を付けていたのにまたか……と内心嘆息する。今日は寮で麗千とお茶をしようと思っていたのに。室長からもらった月餅もそのためにとってある。
早々に終わらせようと、抵抗な引っ張ったく相手と向き直った。
先程張に、どうして相手の顔を見ないんだ馬鹿野郎、と散々罵られたので自分の腕を掴んでいる男の顔をじっとみることを忘れない。
明燕の視線に、奇妙に身なりのいい男は若干たじろいだ。官服でないことから、男が貴族なのだろうと推測する。絹の服に、簡素だが洗練された僅かな装飾品。宮中には多くの貴族や裕福な商人が出入りするため、豪華な装束には見慣れていたが、男には惹きこまれるような洗練さがあった。そこでふと、明燕はかすかな違和感に気づく。
(……どこかで、会ったことがある?)
違和感は既視感だった。どこかで、明燕はこの男にあったような気がするのだ。だが、それが思い出せない。流れるような濃紺の髪に同じ色の深い目。一度見たら決して忘れないような美しい男は、罵倒するでも嫌味を言うでもなく、ただ明燕の腕を掴み続けていた。
「何か、私に御用でしょうか?」
二人の間に流れる沈黙がいたたまれなくなって、明燕がおずおずと声をかけた。
「丁明燕、、だな」
(聞いたことのある、声……)
必死で記憶をめぐらす。
そして、ある人物に思い至ると、明燕は驚きでいっぱいに目を見開いた。
「お役人さま……?」
明燕が十年間、会いたいと思っていた人物がそこにいた。
男は頷くと、明燕のつけていた簪にそっと触れた。
「十年前、私が君からもらったのも山茶花だったな」
そのまま懐かしそうに目を細める。明燕は身動きができなかった。
簪にかけられていた手が、すっと頬に落ちる。
「私は、ずっと君に会いたかった」
「……っ」
低く囁かれて、顔がどんどんと火照ってくるのが自分でもわかった。
男は十年前よりもはるかにたくましくなっていた。優しげだと感じた濃紺の目に、今やそれだけではない強さが湛えられている。
「立ち話も何だ、私の部屋に来ないか?」
腰を曲げて目と目が合わさる。
まるで、射抜かれるみたいだ、と明燕は思った。
こくりと頷くと、男が明燕の手をとる。
知らぬ間に、日は完全に落ちていた。曇りなのだろう、今日は月は出ていない。
暗闇に紛れていく二人の姿に気づく者はいなかった。




