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転生者たちがチートに酔いしれる世界で、俺だけは生身の知恵と和洋折衷呪術でラグナロクを阻止する  作者: あやと


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第32話 隠された密約の夜

地下アトリエの重い鉄扉が冷たいコンクリートの壁に擦れ、鈍い金属音を立てて閉ざされた。

風祭鈴音とネイティブの生徒たちが保守回線の足場へ消えた後も、賀茂の或は一人、素焼きの灯火皿が放つわずかな油煙の前に留まっていた。血と朱墨の入り混じった生臭い匂いが鼻腔を突き、右手首のサラシの奥で、異界の神話体系を直接焼き付けた青黒い呪印が鈍く脈打っている。息を吸い込むたびに肋骨の古傷が乾いた摩擦音を立てるが、或は表情一つ変えず、作業台の端に散らばる古びた測量地図の切れ端を整理していた。


――不意に、暗がりから微かな足音が響いた。


配管の隙間を伝う水滴の音に紛れるような、上質な革靴のソールがコンクリートを叩く乾いた響きである。或は煤色の瞳をわずかに細め、懐の麻の布袋に滑り込ませていた指の動きをピタリと止めた。

アトリエの錆びついた物陰から姿を現したのは、純白のゴシック風コートの裾を泥と冷たい霜にまみれさせた少女だった。ヘレナ・フォン・エッダのプラチナブロンドの長髪は乱れ、血のように赤い双眸には、選ばれし転生者としての傲慢さの代わりに、極限の恐怖とそれを押し隠そうとする必死の焦燥が張り付いていた。


ヘレナは左耳のプラチナのピアスを指先で強く引きずるように弄びながら、或からわずか数歩離れた場所で足を止めた。

「……こんなじめじめした薄汚い穴ぐらで、何をしているのよ、下級民」


その声は高圧的なトーンを装ってはいたものの、語尾のわずかな震えが彼女の内面の動揺を完全に裏切っていた。ヘレナの足元からは未だに微細な死の女神ヘラの黒い霜が這い出し、古びた床板の木目を白く凍りつかせている。


賀茂の或は作業台の端に両手を突き、冷徹な煤色の瞳でその少女を値踏みするように見据えた。

「……隠れ家を間違えたらしいな、特権階級の『神民』様。お前の仲間たちが待ち構えている中央広場の鉄格子なら、引き返して数ブロック北の通りを抜けたところだ」


或の皮肉めいた低いトーンに、ヘレナは青ざめた唇を僅かに歪めた。彼女は両腕を胸の前で固く組み、意地悪く笑おうとして逆に表情を引きつらせた。

「ふん……あんな冷え切った檻の中で、いつ首を絞められるとも知れない恐怖に怯えながら震えているだけの役立たずの群れと一緒にしないで。私があそこにいたら、あの狂犬の野蛮な暴力でとっくにすり潰されていたわよ」


ヘレナの言葉の端々から、己の中に巣食う死の女神ヘラの神話的圧迫感から逃れたいと願う、切実な逃避衝動が滲み出ていた。神話の寵愛を受ける特権階級として振る舞ってきた彼女の精神は、自らの制御を離れて暴走する絶対零度の魔力と、周囲の転生者たちが自分をただの「危険な兵器」としてしか見ていないという現実の前に、すでに音を立てて崩れかけていた。


或は静かに息を吐き出し、右手首のサラシの下で疼く呪印の熱を左手の指先で軽く押さえた。

「で、その怯えた足取りで何の用だ。俺たちを処刑するための特務班の動向でも知らせにきたわけじゃないだろう」


或の冷徹な問いかけに、ヘレナはわずかに視線を宙に逸らし、身震いを抑えるように肩をすくめた。彼女は純白のコートのポケットから、一冊の薄い魔導データ端末を取り出し、それを乱暴に或の作業台の上へと投げ出した。

カチリと乾いた音が、静まり返ったアトリエの空間に響いた。


「……これを見て。神格化同盟の中枢が隠している、学園深部の機密データのバックアップよ」


ヘレナの言葉を聞き流すことなく、或は煤色の瞳でその端末の表面を凝視した。端末のディスプレイには、神代回廊の実験炉のメインバルブの構造図と、ヴォルフガング・リッターが保持する魔導ガントレット『フェンリルの牙』の魔力回路の同期周波数が、生々しい数値の羅列として描き出されていた。


「……これを俺に渡して、お前に何の得がある。神民の特権を自ら投げ打いくつもりか」

或は端末に手を触れぬまま、ヘレナの双眸を射抜くように見据えて低い声で問うた。


ヘレナは悔しさに唇を噛み締め、その赤い瞳に涙のような光をわずかに浮かべながらも、誇り高き拒絶の色を崩さなかった。

「得なんかないわよ! ……ただ、あいつらが私を道具としてしか見ていないのと同じように、私もあいつらの思い通りに頭を下げて壊れていくなんて御免なのよ! 私の中に巣食うこの気色の悪い霜が、毎日少しずつ私の頭蓋を凍りつかせていくの……。誰も助けてくれない、誰も私を見ていない。だったら……」


言葉を詰まらせたヘレナは、微かに震える指先で或をまっすぐに指し示した。

「……あんたが、あのヴォルフガングを叩き潰して、この腐ったシステムの理を根こそぎ粉砕してくれるなら……私は私自身の意思で、あんたにその情報を差し出すわ。私を利用しなさいよ、下級民。代わりに、その泥臭いやり方で、あいつらの鼻を明かしてやりなさい」


アトリエの素焼きの灯火皿の炎がわずかに揺らめき、二人の影をコンクリートの壁に長く引き延ばした。

或はヘレナの言葉の裏にある焦燥と、システムへの絶望的なまでの不信感を冷徹に測りにかける。彼女の提供するデータは確かに最終決戦に向けた致命的な情報の優位性をもたらすが、それは神格化同盟からの完全な離反を意味すると同時に、ヘレナ自身が或を利用して自らの首輪を外そうとする一種の共犯関係の構築でもあった。手放しでの信用など置けるはずもない。しかし、この極限の戦場において、敵の心臓部の構造図を手に入れることの価値は計り知れなかった。


或は奥歯で舌の側面を軽く噛みしめ、鉄錆の味で現実感を確認すると、ゆっくりとその右手を伸ばして作業台の上のデータ端末を引き寄せた。

指先が冷たいガラスの面に触れた瞬間、端末の画面が青白い光を放ち、内蔵されていた古びたルーンの同期回路がかすかに明滅した。


「……泥水をすする覚悟があるなら、その冷えた足元をもう少ししっかりと踏みしめるんだな。お前の差し出したこのデータが本物である限り、俺は俺のやり方で奴らのシステムを内側から食い破る。――ただし、途中で足がすくんで邪魔をするような真似をしてみろ。その時は、お前のその気高い首ごと、この逆相の網目で真っ二つに引き裂いてやる」


或の低く冷徹な告げ口に、ヘレナは息を呑み、わずかに肩を震わせた。だが、彼女はその恐怖を押し下げるように歯をくいしばり、震える小さな声で力強く言い返した。

「……脅さないでよ。私だって、もう引き返したりしないんだから」


密約は、音もなく、しかし確実に対話の網目を結んで成立した。

ヘレナはそれ以上何も言わず、自らの足元から這い出す黒い霜をコートの裾で強引に払い落とすと、影に溶けるようにしてアトリエの出口の暗がりへと身を翻した。重い鉄扉が再び微かな風圧で揺れ動き、少女の姿が完全に闇の向こうへと消え去る。


静けさを取り戻したアトリエの中で、賀茂の或は作業台の上の端末の画面を静かに見つめ続けていた。

画面に表示された『神代回廊の実験炉の真の弱点コード』の文字列は、一見すれば単なる機械の欠陥やエラーログのように構成されている。しかし、或がその回路の配列を自らの右手首の青黒い呪印の波長と照らし合わせながら細部を解析していくと、そこに隠された異質な仕掛けが徐々にその輪郭を現してきた。


(――これは……単なるシステムの欠陥コードじゃない。……俺自身の血脈に流れる陰陽道の霊的波長と、古い北欧の呪詛の周波数が一致した瞬間にだけ、自動的に作動するように仕組まれた……或る種の「呪詛仕掛けの罠」か)


或の煤色の瞳に、冷ややかな警戒の色が深く宿った。

ヘレナがもたらしたデータは確かに本物であり、神格化同盟の中枢を内側からハッキングするための決定的な足がかりを提供していた。しかし同時に、そのコードの最深部には、まるで或の存在そのものをあらかじめ見越していたかのような、不気味で不可解な「別の意志の痕跡」が刻み込まれていたのだ。


頭上でうねる黄泉比良坂の裂け目から、冷たい大気の底を揺らすような低い地響きが伝わってきた。


素焼きの灯火皿の炎が小さく揺れ、地下アトリエの壁面に張り付いた冷たい水滴を照らし出した。

賀茂の或はデータ端末の青白い発光を見つめたまま、微動だにせず思考を巡らせていた。画面の奥底で明滅するコードの配列は、単なるプログラムの不具合や偶然の産物ではない。それは明確な意図を持って仕組まれた、或自身の血脈の周波数を逆算するための罠であった。神格化同盟の中枢がこのデータを意図的に流したのか、あるいはシステム自体が或のような反逆者の出現をあらかじめ計算に入れていたのか。どちらであれ、この致命的な情報の優位性は、諸刃の剣として或の右手首の青黒い呪印に直接結びついている。


「……或、どうしたのかい」


暗がりの中から、風祭鈴音の冷ややかな声が静かに響いた。

鈴音は保守回線の足場からいつの間にかアトリエへと戻っており、一対の銀色の神楽鈴を指先で優雅に転がしながら、或の表情の変化を鋭く観察していた。彼女の黒曜石の双眸には、ヘレナが立ち去った方向の暗闇と、作業台の上の端末画面が交互に映し出されている。


「……なんでもない」


或は低いトーンで応じると、左手の指先でデータ端末の電源を荒々しく押し切った。青白い光が消え失せ、アトリエは再び素焼きの灯火皿の心もとない微光と湿った暗がりへと沈み込む。


「ただの餌さ。だが、その餌が俺たちの喉を通るかどうかは、実際に噛み砕いてみなければ分からない」


或は立ち上がり、痛みを発する肋骨を宥めるように深呼吸をした。右手首のサラシの下で、逆相ルーンの刻印が冷たい熱を帯びながらピタリと静まり返る。ヘレナとの密約によって手に入れた情報は、最終決戦の成否を握る鍵であると同時に、或自身の肉体と魂を削り取る新たな引き金ともなり得た。


アトリエの隅に控えていたネイティブの生徒たちは、二人のやり取りを息を呑んで見守っていた。誰もがこの地下の隠れ家がいつまでも安全な避難所ではないことを本能的に理解している。頭上の表通りでは、神格化同盟が最高等級の警戒令を敷き、学園の周囲を鉄の檻で固め続けている。もはや、この薄汚いアトリエに身を潜めているだけの時間は残されていなかった。


風祭鈴音は神楽鈴の柄を優雅に握り締め、小さくチリリと乾いた音色を鳴らした。

「ヘレナがもたらしたコードが罠であれ何であれ、私たちが旧校舎の地下最深部へ向かい、実験炉のメインバルブを叩かなければならないという目的が変わるわけじゃないね。……或、夜明けの気配がもうすぐ上の通路にも届く頃合いだよ」


鈴音の言葉に、或は煤色の瞳をじっと据えた。

「あぁ。……行くぞ」


或は麻の布袋の口をしっかりと締め、外套の懐へと押し込んだ。古びた測量地図の切れ端を胸元にしまい、血と朱墨が染み込んだ右手首のサラシをもう一度きつく巻き直す。システムを持たない生身の肉体がどれほど痛みに苛まれようとも、泥にまみれた手製の呪符と、自らの血で結び直した相剋の網目だけが、この理不尽な世界で明日を選択するための唯一の武器であった。


或はアトリエの隅に置かれた古い木製のマスターキーを手に取り、旧校舎の地下暗渠へと続く重い鉄の扉の前に立った。暗がりの中で、鈴音とネイティブの生徒たちがそれぞれの武器や端末を手にし、静かに或の背後へと従う。


不条理な神話の理をハッキングするための準備は整った。

或は鉄の扉を押し開き、冷え切った保守回線の足場へと言葉なく踏み出した。頭上の黄泉比良坂の裂け目から零れ落ちる冷気が、反逆者たちの足音を飲み込むように静かにアトリエの空間を包み込んでいく。


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