知る花、知らない華が咲く処は
放課後の西日が、通学路の結露したアスファルトをオレンジ色に染めていた。
僕、(那須裕樹)は重い自転車のペダルを漕ぐ足を止め、いつもの場所に視線を落とした。
学校から駅へ向かう途中、古い街並みの角を曲がった先にある小さな花屋『フルール・ド・ルポ』。
店名の通り、そこは街の喧騒から切り取られた休息の場所のようにひっそりと佇んでいる。
軒先には、季節を先取りしたシクラメンや、まだ蕾の固い水仙の鉢植えが溢れ、硝子越しの店内はいつも温かな光に満ちていた。
僕の目的は、観賞用の花を買うことじゃない。
その店の奥で、生成りのエプロンをきゅっと締めて静かに立ち働く彼女を見ることだった。
名前も知らない。
学年も、どこの学校に通っているのかも、どこに住んでいるのかも──。
エプロンを彼女は、僕より少し年上のようにも見えたし、時折見せる横顔はどこか幼い少女のようにも見えた。
ただ、彼女が傷んだ花びらを指先で優しく摘み取るときや、銀色の霧吹きで繊細な雫を散らすとき、その口元に浮かぶ柔らかな微笑みだけを、僕は知っていた。
(今日も、そこにいる……)
僕は自転車を降り、少し離れた街灯の陰に身を潜めるようにして、彼女の姿を盗み見た。
ストレートの黒髪が、作業に合わせて肩からさらりと零れ落ちる。
彼女は時折、手元のバラの香りを確かめるように目を細め、慈しむような表情を見せた。
その指先が茎を切り揃えるたび、目には見えないはずの澄んだ空気が、硝子を越えて僕の心まで届くような気がした。
彼女の周囲だけ、時間の砂時計がゆっくりと回っているように見えた。
僕にとって彼女は、『憧れ』という言葉すらおこがましい、手の届かない聖域に咲く一輪の花だった。
自分のような平凡な高校一年生が、その静謐な空気を乱していいはずがない。
ただ遠くから、彼女が花を愛でるその幸福な時間を眺めているだけで、僕の胸は不思議な充足感で満たされていたのだ。
しかし、その幸福な微睡みのような光景は、ある日、唐突に途絶えた。
翌日も、その次の日も──。
店には白髪混じりの店主らしき男性が所在なさげに立っているだけで、彼女の姿はどこにもなかった。
「たまたま休みなんだろう」
そう自分に言い聞かせて自分を納得させようとしたけれど、一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、やがて一ヶ月が経った。
彼女がいつも立っていた、あの陽だまりのような作業スペースには、主を失った剪定鋏と、冬を待つ名もなき鉢植えが寂しげに並んでいるだけだった。
僕の心には、ぽっかりと穴が空いたような、あるいは大切な辞書の、最も重要なページだけを破り取られたような、所在ない喪失感が居座り続けた。
彼女の笑顔を思い出そうとするたびに、夕暮れの街角は、以前よりもずっと寒々しく感じられた。
◇ ◆ ◇
季節は足早に過ぎ去り、街の空気は肌を刺すような冬の冷たさを帯び始めた。
十一月の半ば。
彼女の姿を消したあの日から、僕の世界は彩度を失ったまま、ただ単調な繰り返しを刻んでいた。
試験勉強という名目のもと、開いたままの参考書に目を落とすものの、一文字も頭には入ってこない。
部屋を支配するのは、古いファンヒーターの唸るような音だけだ。
僕は溜息をつき、逃げるようにスマホを持ち上げた。
特にお目当ての動画があるわけじゃない。
ただ、誰かが作った短い映像を流し読みして、何も考えない時間をやり過ごしたかった。
親指が画面を無意識にスクロールしていく。
賑やかなバラエティの切り抜きや、流行りのダンス動画が流れては消えていく。
そのときだった。
僕の指が、まるで磁石に吸い寄せられたようにピタリと止まった。
ある動画のサムネイルが、視界に飛び込んできたのだ。
そこには、僕がこの数ヶ月、夢にまで見たあの横顔があった。
(……え?)
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
【第◯◯回 世界バイオリンコンテスト・ファイナル】
そんな重々しい見出しとともに映し出されていたのは、花屋のカウンターで静かに微笑んでいたはずの、あの彼女だった。
信じられない思いで、震える指を再生ボタンに添える。
『大河内優奈。十六歳、日本』
ナレーションが落ち着いた声で、彼女の名前を告げた。
大河内優奈。
それが彼女の名前。
僕と同じ、十六歳。
画面の中の彼女は、僕の知っている『花屋の店員さん』とは、似ても似つかない姿をしていた。
深いオレンジ色の、炎のように鮮やかなドレスを纏い、彼女はステージの中央に立っていた。
顎にバイオリンを挟み、背筋を真っ直ぐに伸ばしたその姿は、凛としていて、どこか近寄りがたいほどの威厳を放っている。
表情は硬く、氷のように冷徹な、一点を見つめる無表情。
花びらを見つめていたあの慈しみはどこにもなく、そこにはたった一人で世界という戦場に立つ、孤高の芸術家の顔があった。
演奏が始まった瞬間、僕は息をすることすら忘れた。
バイオリンの音色は、素人の僕の耳にも、今まで聴いたどんな音楽より烈しく響いた。
それは、ときに優しくささやくかと思えば、次の瞬間には激しい雨のように胸をかきむしる。
繊細なのに、圧倒的な強さ。
彼女の細い指先が弦の上を踊るたび、画面越しでも、空気が震えているのがわかった。
彼女は、こんなにも鋭い感情を、あの穏やかな身体の中に隠し持っていたのか──。
一曲が終わり、静寂が巨大なホールを支配する。
一呼吸置いて、割れんばかりの拍手が沸き起こった。
彼女は静かに弓を下げ、観客席に向けて深く一礼した──その時だった。
ふっと顔を上げた彼女の口元に、一瞬だけ、本当に一瞬だけ──あの、花を手入れしている時と同じ柔らかな笑顔が浮かんだのを、僕は見逃さなかった。
「……っ」
喉の奥が熱くなった。
自分だけが知っている秘密だと思っていたあの微笑みが、世界の檜舞台で、一瞬だけ花開いたのだ。
結果は、最優秀賞。
世界一の称号だ。
どうやら彼女はこのコンテストに出場するために、一ヶ月も前から日本を離れていたらしい。
動画の最後、優勝インタビューの映像に切り替わった。
現地のメディアがマイクを向け、彼女に問いかける。
彼女は、僕の聞いたこともない流暢な言葉で答え、画面の下には白いテロップが流れた。
『──今は、何をしたいですか?』
『お花の手入れがしたい。……ずっと、そう思っていました』
たった一言。
その言葉に嘘偽りがないことが、僕には痛いほどわかった。
あの花屋で過ごした時間は、彼女にとっても、ただのアルバイト以上の休息だったのかもしれない。
動画のアップロード日は、三日前。
僕はスマホを握りしめたまま、眠れない夜を過ごした。
画面の中の【大河内優奈】は、あまりに遠い世界の住人だった。
けれど、彼女が日本に帰ってきている。
その事実だけで、僕の心は、冬の寒さを忘れるほどに熱く疼き始めていた。
◇ ◆ ◇
翌日、僕は放課後のチャイムが鳴り終わるのも待たずに教室を飛び出した。
ママチャリのペダルを全力で漕ぎ、冷たい冬の風を切り裂く。
心臓が口から飛び出しそうなほど高鳴り、肺が痛いくらいに冷気を吸い込むけれど、止まっていられなかった。
いつもの角を曲がり、僕は『フルール・ド・ルポ』の前に滑り込んだ。
荒い息を整えながら、恐る恐る硝子戸の向こうを覗き込む。
そこに、彼女はいた。
液晶越しではない、現実の【大河内優奈】が、いつものエプロン姿で立っていた。
一ヶ月ぶりのその姿を目にした瞬間、視界の霧が晴れたような感覚に陥った。
「……あ、あの!」
勢いよく扉を開けた僕の声は、自分でも驚くほど上擦って裏返っていた。
店内に響いたカランカランという乾いたベルの音。
彼女は驚いたように顔を上げ、大きな瞳を数回瞬かせた。
見覚えのない僕という客を前に一瞬だけ戸惑ったようだったけれど、すぐに営業用の、けれど温かい笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ」
その一言が胸に突き刺さり、奥の方がちくりと疼いた。
僕は彼女の名前も、年齢も、バイオリンの凄絶な音色も知っている。
けれど、彼女にとって僕は、数多いる名もなき客の一人でしかない。
一ヶ月の間、狂おしいほどに彼女を想っていた僕と、僕を認識すらしていない彼女。
その残酷なまでの距離感に、改めて気づかされた。
「……あ、プレゼント用にお花を……欲しくて」
「プレゼントですか。お母様に?」
「えっと……まあ、そんな感じです」
とっさに嘘をついた。
本当は、彼女に話しかける口実が欲しかっただけなのだ。
彼女は「そうですか」と頷き、カウンターの向こうで首を傾げた。
「好きな色とか、わかりますか?」
「……オレンジ、です」
迷わずに答えた。
動画の中で彼女が纏っていた、あの情熱的なドレスの色。
彼女は少しだけ目を見開くと、ふわりと、陽だまりのような笑みをこぼした。
「そうですか。私も、オレンジ色が大好きなんです」
その時に彼女が浮かべた笑顔は、それまで見てきた接客用の微笑みとは明らかに違っていた。
バイオリンを弾く十六歳の少女、大河内優奈としての、年相応の明るい笑顔だった。
「オレンジって、なんだか力をもらえますよね」
そう言いながら、彼女はバケツの中から鮮やかなマリーゴールドを三本、丁寧に抜き取った。
「あなたは何色の花が好きですか?」
不意に投げかけられた質問に、僕は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「……えっと、青……かな」
「青。良いですね、清涼感があって。私も好きです」
彼女が僕の答えに笑顔で返してくれる。
自分自身を肯定されたわけじゃないのに、僕は顔が林檎のように真っ赤になるのが自分でもわかった。
笑顔で花を差し出してくる彼女に、僕は言おうとしていた言葉を必死に喉まで手繰り寄せた。
(「コンテスト、優勝おめでとう」って。「外国でも頑張って」って……)
インタビューで彼女が留学することを言っていたのは知っている。
今言わなければ、もう二度と彼女に会えないかもしれない。
「あの、大河内さん……っ」
勇気を振り絞って彼女の名前を呼ぼうとした、その時だった。
「すみませーん! 予約してた者ですが」
背後でドアベルが鳴り、別のお客さんが入ってきた。
彼女は「あ、はい! 少々お待ちください」とそちらへ視線を送り、手際よくマリーゴールドをラッピングして僕に手渡した。
「ありがとうございました。またお待ちしておりますね」
流れるような動作。
彼女の意識はもう、次のお客さんの対応に向かっている。
僕は「あ、ありがとうございました」と蚊の鳴くような声で絞り出すのが精一杯だった。
受け取ったオレンジ色の花束は、抱えるにはあまりに小さく、けれど今の僕には、その美しさが切ないほどに重すぎた。
結局、僕は何も言えないまま店を出た。
翌日から、彼女が店に立つことは二度となかった。
何も言えなかった後悔だけが、オレンジ色の花びらのように、僕の心の中でゆっくりと枯れていった。
◇ ◆ ◇
それからの数ヶ月、僕の世界はひどく無機質なものに変わった。
彼女がいない『フルール・ド・ルポ』の前を通るたび、あの日手渡されたオレンジ色のマリーゴールドの感触が蘇り、胸の奥が締め付けられる。
僕は取り憑かれたように、スマホの画面を指でなぞり続けた。
【大河内優奈】
その名前を検索バーに打ち込んでは、新しいニュースが出ていないか、誰かが新しい演奏動画をアップしていないか、深夜まで調べまくった。
けれど、コンテスト優勝以降、彼女の消息はぷっつりと途絶えていた。
(どこにいるんだろう。やっぱり、もう遠い国へ行ってしまったのかな)
結局、新しい姿を見つけることはできず、僕はコンクールの動画を毎晩のように繰り返し見ていた。
オレンジ色のドレスを揺らし、無表情でバイオリンを奏でる彼女。
あの時交わした「オレンジが好き」という言葉だけが、僕と彼女を繋ぐ唯一の細い糸だった。
季節は巡り、半年が過ぎた。
ある夜、試験勉強の合間に、僕は気まぐれにテレビをつけた。
深夜の国営放送。
音楽番組ともつかない、海外の文化を紹介する静かなドキュメンタリー番組だった。
画面の端に『海外の若き才能たち』というテロップが出た瞬間、僕は息を吸い込んだまま硬直した。
ヨーロッパの、歴史を感じさせる荘厳なコンサートホール。
その舞台の中央に、彼女が立っていた。
真っ白なドレスを身に纏い、一心不乱に弓を動かすその姿は、かつて花屋の隅で微笑んでいた少女とは別人だった。
スポットライトを浴びて発光するようなその姿は、僕から見れば、手が届くはずもない高嶺に咲くステージの華」そのものだった。
「……すごい」
独り言が、震えて漏れた。
彼女のバイオリンは、以前よりもずっと深く、鋭くなっていた。
一音一音がホール全体を、そしてテレビのスピーカーを通して僕の狭い部屋を支配していく。
彼女の演奏を見つめているうちに、僕は言いようのない寂しさに襲われた。
僕が彼女について知っていることなんて、ほんの指先で掬えるほどの砂粒に過ぎない。
僕たちが交わした、あの数分間の会話──。
「オレンジが好き」とか、「青も良い」とか、そんな些細なやり取りは、彼女にとっては日々の接客の欠片に過ぎなかっただろう。
何も知らない。
ただ少しだけ会話を交わしただけの、名もなき客である僕。
彼女のような美しい華が咲くべき処は、きっと僕のそばじゃない。
彼女は、世界という果てしない庭で、僕には決して届かない風に吹かれながら咲き誇る存在なのだと、僕は残酷なほど鮮明に悟ってしまった。
視界が歪んだ。
悟りの重さに耐えかねたように、頬を一筋の涙が伝い、畳に落ちた。
だが、次の瞬間。
画面が彼女のアップを映し出したとき、僕は息を呑んで身を乗り出した。
「……え?」
真っ白なドレス。
その胸元に、一点。
場違いなほど鮮やかな青いコサージュが添えられていたのだ。
それは衣装の装飾にしては、どこか特別に見えた。
『あなたは何色の花が好きですか?』
『……えっと、青……かな』
あの日、店先で交わした言葉が、脳内で雷鳴のように鳴り響いた。
まさか、そんなはずはない──偶然だ。
青い花なんて、この世にいくらでもある。
そう自分に言い聞かせても、僕の心臓は激しく鐘を打ち鳴らした。
その後、僕は彼女の活動を追う中で、何度か新しい動画や写真を見つけることができた。
国を跨ぎ、ホールを変え、ドレスの色が変わっても、彼女はバイオリンを弾く時、必ず胸元に青いコサージュをつけていた。
まるで、誰にも明かさない大切な約束を、その場所で守り続けているかのように──。
一年が経った。
僕の中にあった後悔は、いつしか、ある決意へと変わっていた。
彼女の所属する楽団の日本公演が行われるというニュースを見た時、僕はもう迷わなかった。
僕は駅前のデパートでも、スーパーの花コーナーでもなく、あの懐かしい角を曲がった。
『フルール・ド・ルポ』のドアベルを鳴らし、驚く店主の前で、僕は真っ直ぐに告げた。
「青い花を……青い花束を、ください」
僕はコンサート会場へと向かった。
手には、溢れんばかりの青い花束を持って。
知っている花も、知らない華も、すべてが咲き誇るあの場所へ──。
◇ ◆ ◇
一年という月日は、長いようでいて、振り返れば瞬きほどの速さで過ぎ去っていった。
僕の身長は少しだけ伸び、制服の袖口が少し短くなった。
けれど、あの日から止まったままの僕の時間は、ようやく今日という日を迎えて動き出そうとしていた。
駅前の大通りは、街路樹が青々と茂り、初夏の爽やかな風が吹き抜けている。
僕は人混みの中、大切に抱えた花束が潰れないように、庇うようにして歩いた。
それは、あの日彼女が「清涼感があって私も好きです」と言ってくれた、あの色──。
デルフィニウムやブルースター。
幾重にも重なる青い花びらが、初夏の光を反射して、まるで小さな宝石の集まりのように僕の腕の中で揺れている。
コンサート会場の正面玄関には、巨大な公演ポスターが掲げられていた。
【大河内優奈 凱旋公演 ! 若き天才が紡ぐ、魂の旋律!】
ポスターの中の彼女は、僕が知っているあの優しい店員さんではなく、凛とした、けれどどこか孤独を纏った一人の芸術家の顔をしていた。
会場に入ると、着飾った大人たちの話し声や、開演を待つ独特の緊張感が肌に触れた。
僕は自分の座席を確認し、深く腰を下ろした。
膝の上に置いた花束の、微かな花の香りが鼻をくすぐる。
(……覚えているはずがない)
何度も自分に言い聞かせた。
一年前の、ほんの数分間の接客。
名乗ることもなかった名もなき客の一人。
彼女が胸につけていた青いコサージュだって、本当はただの偶然か、僕の都合の良い思い込みに過ぎないのかもしれない。
──それでも。
たとえ彼女が僕を忘れていても、あの日、彼女が僕に『あなたの好きな色』を尋ねてくれた、あの瞬間だけは真実だった。
ブザーが鳴り、会場の照明がゆっくりと落とされた。
完全な静寂がホールを支配する中、拍手に迎えられて彼女がステージに姿を現した。
スポットライトを浴びて浮かび上がった彼女は、夜空の月のように美しかった。
深い漆黒のドレス。
そして、その左胸──。
そこには、やはりあの時と同じ青が咲いていた。
どんな装飾よりも鮮烈に、彼女の心臓の鼓動を伝える場所に、その色は確かにあった。
演奏が始まった。
バイオリンの第一音が響いた瞬間、僕の全身に電流が走った。
それは、動画で聴くのとは全く違う、魂を直接揺さぶるような音。
激しく、情熱的で、それでいてどこか切なく震えるその旋律は、まるで『ここにいるよ』と叫んでいるかのように僕の胸に届いた。
彼女は一心不乱に弓を動かしていた。
その目は、かつての無表情とは違い、今は何かに、あるいは誰かに応えるような力強い光を宿している。
演奏の終盤、彼女は一瞬だけ、客席の隅々にまで視線を走らせた。
その視線が、僕の座っている場所を通り過ぎた気がした。
ほんの刹那、彼女の口元が、花屋のあの日のように柔らかく綻んだのは、僕の幻覚だったのだろうか。
万雷の拍手の中、公演は幕を閉じた。
終演後のロビー。
花束の受付コーナーには、山のような花が届けられていた。
僕は震える手で、自分の青い花束を係の人に託した。
添えたカードには、名前も書かず、ただ一行だけ──。
『オレンジの花が、青い花に会いに来ました』
会場を出ると、外はすっかり日が落ちていた。
けれど、僕の心の中には、あの日以来ずっと消えなかった寒々しさはもうなかった。
知っている花も、知らない華も──。
僕たちはきっと、それぞれの場所で自分の色を精一杯咲かせていく。
たとえ住む世界が違っても、一度交わした言葉が、色が、こうして誰かの支えになることがある。
夜空を見上げると、街の明かりに負けないくらい強い星が一つ、青白く光っていた。
僕はもう、自転車のペダルを重く感じることはないだろう。
青い花束の重みを手の平に感じながら、僕は明日へと続く道を、力強く踏み出した。
おしまい
とある企画でタイトルをいただいて書いた作品です。
(バナナさんありがとうございます)
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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