次に首を折られるのはきっとわたくしなので、全力で婚約破棄させます
夜会の会場に足を踏み入れた瞬間、リーゼ・フォン・エルレンマイアーは場の空気が変わるのを感じた。
幾十もの視線が一斉にこちらを向く。
ざわめきが波のように広がり、やがてそれは、ため息交じりの囁きに変わった。
「まあ、お可哀想に……」
「あんなに目を赤くして……昨夜はきっと泣き明かしたのだわ」
「それにお顔の色も真っ青。お気の毒としか言いようがない」
——泣いたのは事実である。
最近リーゼは泣いた。人生でこれほど泣いたことがないというくらい泣いた。
ただし、その涙の性質について、この場にいる誰一人として正しく理解していなかった。
リーゼの目が充血しているのは、長年の悲願がついに叶ったあの日から、連日お祝いのワインを空けては、開放感のあまり歓喜の涙を流しているからである。
そして顔が青白いのは、昨夜はとりわけご機嫌で、つい三本目に手を伸ばしてしまったからである。
(ああ……頭が割れそうに痛いわ。それに、香水の匂いが……おえっ!)
リーゼは令嬢らしくそっと口元に手を当てた。二日酔いで視界がぐらぐらするし、香水の匂いで今にも吐きそうだ。
しかしそんな彼女の仕草を見た周囲の令嬢たちは、今にも倒れそうなほど心を痛めている健気な姿だと解釈し、ハンカチで目元を押さえた。
それも無理はない。
リーゼ・フォン・エルレンマイアーという令嬢は、誰がどう見ても小鳥のように愛らしく、儚く、か弱い少女だった。
身体は華奢で頼りなく、大きな瞳はいつも少し潤んでいて、肌は陶磁器のごとく白く繊細だった。風が吹けば飛んでいきそうで、大きな声を出せば怯えて泣いてしまいそうな——そんな、守ってあげたくなる令嬢の代名詞。
そして、本人もそう思っている。
(こんなにも体調がすぐれないのに、社交の場に立つなんて。わたくしのような可憐でか弱い小鳥には、あまりにも酷な試練だわ。ああ……でも心はとっても晴れやかだわ。だってようやく、あの恐ろしい怪物から解放されたのだもの!)
——ことの始まりは、八年前に遡る。
◇◇◇
大公家の嫡男、ユリウス・フォン・レーヴェンタールは完璧な少年だった。
十歳にして既に大人びた優雅さを身にまとい、学業も剣術も社交も申し分ない。
そして極め付きは、その容貌だ。整った顔立ちを一層際立たせるハニーブロンドの髪にライトブルーの瞳は、いつだって眩いばかりに輝いている。
宮廷中の令嬢が「あの方が婚約者だったら」とため息をつく、まさに物語に出てくる王子様のような存在だった。
ちなみに、実際に王族の血を引いている。王太子の従弟にあたり、大公位を継げば王国でも五指に入る権力者になるため、令嬢はおろか、年頃の娘を持つ親たちにとっても垂涎の的だった。
そのユリウスが、とある伯爵令嬢の誕生祝いの席で八歳のリーゼを見た瞬間、目を輝かせて言った。
「父上、僕はあの子と婚約したい」
大公は驚いた。何しろ息子がこれほどキッパリと何かを望んだのは初めてのことだったからだ。
エルレンマイアー伯爵家は名門ではあるが、大公家と釣り合うかと言えば微妙な家格である。しかし息子の熱意に負けた大公が正式に申し入れ、婚約は成立した。
社交界は祝福した。
小鳥のように可憐な少女と、光り輝く完璧な少年。なんてお似合いなのだろう、と。
エルレンマイアー伯爵家も大喜びだった。
なにしろ溺愛する一人娘が、大公家の嫡男に見染められたのである。
父は「そりゃそうだろう、うちのリーゼは世界一可愛いのだから」と胸を張り、母は「当然ですわ」と涙ぐみ、兄二人に至っては「大公家嫡男ならリーゼの相手として不足ないな」と満足げに頷いていた。
エルレンマイアー家の人間にとって、リーゼの可愛さは太陽が東から昇ることと同じくらい、自明の事実だった。
当のリーゼも、最初は素直に喜んだ。
こんなに素敵な方がわたくしを選んでくださるなんて、と頬を染めた。
——ただ、一つだけ気になることがあった。
ユリウスは微笑むとき、口元は完璧な弧を描くのに、瞳の奥に光が灯らないのだ。
それが、まるで笑顔という仮面をぴたりと顔に貼り付けているような印象をリーゼに与えた。
(とても素敵な方なのに……何か、背筋がゾワゾワする)
幼いリーゼはそう感じた。
けれど周囲の大人は誰もそんなことを言わないので、自分がおかしいのかとも思った。
だが、リーゼはその違和感を「気のせい」で済ませられるほど鈍い少女ではなかった。
鈍いどころか、恐ろしく勘が鋭いのだ。
もっとも本人にその自覚はまったくなく、周囲もあの可憐な見た目にすっかり騙されていたので、彼女の野生動物の如き勘の鋭さに気づいている人間は、一人もいなかった。
十二歳のある日、リーゼはついに決意した。
(ユリウス様のことをもっとよく知りたいわ。だって将来の夫になる方だもの。婚約者として当然のことよね?)
リーゼはそう自分に言い聞かせて、ユリウスのことをよく目で追うようになった。
……言い訳こそ可憐だったが、やっていることは完全にストーキングだ。
茂みに身を潜め、木の陰から覗き、侍女を買収して予定を聞き出し、ときには屋敷の庭木に登ってまでユリウスの「素の姿」を観察した。
そんなストーキングは、わずか三日で成果を出した。
レーヴェンタール邸の裏庭。
その日、人目につかない東屋の陰で、ユリウスは一羽の小鳥を握っていた。
小鳥は怯えて暴れている。
ユリウスはそれを優しく——本当に優しい手つきで撫でた。
「かわいいね。こんなに小さくて、こんなに脆い」
ライトブルーの瞳が細められる。口元には穏やかな微笑み。
そしてその白い指が、小鳥の首にそっと添えられ——
ぱきり。
リーゼの耳に、乾いた音が聞こえた気がした。
小鳥はぴくりとも動かなくなった。
ユリウスは動かなくなった小鳥を、満足そうに眺めている。
あの笑わない目が、今だけは、確かに笑っていた。
茂みの中で、リーゼは悲鳴を上げないよう、自分の口を両手で塞いでいた。
全身が凍りついていた。が、頭だけは恐ろしいほど冷静に回転していた。
——この人は、壊れている。
それが、リーゼが下した判断だった。
◇◇◇
その日から、リーゼの世界は一変した。
ユリウスの微笑みが怖い。
柔らかな声が怖い。
何より——彼がリーゼに向ける“愛情”が、怖い。
「リーゼ、君は今日も可愛いね」
ユリウスは陶然とした表情でそう囁くと、リーゼの首元にそっと指を滑らせる。
まるで壊れ物に触れるように。
——まるで、その細さを確かめるように。
「こんなに細くて華奢な首をしているんだね、僕の小鳥は」
(……ああっ! 今この人はわたくしの首の太さを測っている。どのくらいの力を加えれば折れるのか、計算しているのだわ!)
リーゼは引きつった笑みを浮かべながら、心の中で絶叫した。
彼の指が首に触れるたびに、あの小鳥の首が折れた時に聞こえた気がした乾いた音が、リーゼの脳裏に蘇る。
(この婚約を解消しなければ……一刻も早く!)
しかし、それは容易ではなかった。
何しろ、ユリウスの外面は完璧だった。
社交の場では理想的な婚約者を演じ、リーゼの両親の前では礼儀正しく、使用人にも分け隔てなく優しかった。
そして何より、リーゼの家族はユリウスとの婚約を心から喜んでいた。
「うちの宝物を大公家が認めてくださった」「ユリウス様はリーゼにふさわしい素晴らしい方」と折に触れて嬉しそうに語る父と母の顔を見ると、「実はユリウス様が怖いのです」という言葉は、どうしてもリーゼの喉の奥に引っ込んでしまう。
(お父様もお母様も、わたくしのために喜んでくださっているのに。あの笑顔を壊すことなんてできないわ)
何より、リーゼには証拠がなかった。
「婚約者の目が笑っていないから怖い」では理由にならない。
(あの男の本性を暴く、決定的な証拠が必要だわ)
リーゼは再びストーキングを開始した。もはや手慣れたものである。
しかし、あの日以来、ユリウスは小動物を手にかける場面を見せなくなった。
リーゼの存在に気づいたのか、あるいは飽きたのか。
尾行しても尾行しても、出てくるのは優雅に読書をするユリウス、流麗に剣を振るうユリウス、にこやかに来客をもてなすユリウスといった、完璧な次期大公の姿ばかりだった。
(もしかして、あれは本当に一度きりの過ちだったのかしら?)
リーゼの中に、ほんの僅かな油断が生まれた。
そんな折である。
いつものようにレーヴェンタール邸でユリウスとお茶を飲んでいた際、彼がさりげなくこう言った。
「最近、狩りを始めたんだ」
その言葉に、リーゼの笑顔が凍った。
「狩り、ですか」
「ああ。大公家の男子は狩りの腕も磨かなければならないからね。最近は一人で森に入ることも多いよ。獲物を追いかけている時間が、僕はとても好きなんだ」
ユリウスは穏やかに微笑んでいた。穏やかに。あの、目の笑っていない微笑みで。
「す、素敵なご趣味ですわね」
リーゼは完璧な令嬢スマイルを貼り付けたまま、心の中で盛大に悲鳴を上げた。
(狩り! 狩りですって!? 小鳥に飽き足らず、もっと大きな獲物に手を出したということ!?)
翌日、リーゼは愛犬のブリッツを連れて家を出た。
家族には「ユリウス様が森で狩りをなさっているそうだから、差し入れをしたくて」と伝えた。
ブリッツは堂々たる体躯の猟犬で、リーゼの腰ほどの高さがある。
そして差し入れを届けるにしては、リーゼの格好はどう見ても狩りをする側だった。
動きやすさを重視したパンツスタイルに革のブーツ、髪はきっちりと編み上げ、腰には護身用のナイフまで装備している。誰から身を護るためのものかは、言うまでもない。
しかし娘を溺愛するエルレンマイアー家の面々は「リーゼは何を着ても可愛いわね」「ブリッツを連れているなら安心だ」と笑顔で送り出した。
この家に、リーゼにツッコミを入れる者は一人もいない。
リーゼは「ブリッツがいてくれるから安心ね。わたくしは臆病な小鳥ですから」と言いながら、ブリッツの案内に従い獣道に踏み入り、沢を渡り、急斜面を登り、一時間以上にわたって深い森を突き進んだ。差し入れの菓子が入ったバスケットを片手に。
やがて、近くで一発の銃声が響いた。
リーゼは慌ててバスケットを木の根元に置くと、静かに音のした方へと近づいていき、木の幹に身を隠すとそっと覗き込んでみた。
そこには、頭から血を流して地面に横たわる、一頭の鹿がいた。
傍らには猟銃が無造作に置かれている。
銃で仕留めたのだろう。鹿は既に絶命しているようだった。
その傍らに、膝をついているユリウスの姿を見つけた途端、リーゼの心臓が大きく跳ねた。
ユリウスの手には、刃が赤く濡れたナイフが握られている。
そしてよく見ると鹿の腹部には、何度も、何度も、繰り返しナイフを突き立てたような傷が見えた。
じっと鹿を見下ろすユリウスの顔には、恍惚とした笑みが浮かんでいる。
あの、目が笑っていない微笑みではない。
心の底から愉悦に浸りきった、本物の笑顔だった。
鹿の亡骸と自分の姿が重なって見えたリーゼは恐怖し、心の底から願った。
——神様助けて! どうか今すぐあの男の首の骨を折ってください! と。
しかし、当然そんな願いが届くはずもなく。
リーゼはブリッツを促すと、音を立てぬようにしながらも、全力で来た道を駆け戻っていった。
それは、か弱い小鳥とは思えぬほどの俊足だった。
◇◇◇
一刻も早い婚約解消をと焦りばかりが募るが、相変わらず決定的な証拠はなく。外面が完璧な婚約者に非を認めさせる術もまた、持ち合わせてはいなかった。
リーゼが頭を抱えていたちょうどその日の夕刻、親友のエミリアが泣きながらやってきた。
「リーゼ、聞いて……わたくし、婚約を破棄されたの……!」
エミリアの婚約者は侯爵家の嫡男で、容姿も人柄もそこそこ良い男だった。
それが突然、別の女に心変わりしたのだという。
「相手は誰なの?」
「……カミラ・ブラントよ」
リーゼは眉を顰めた。
カミラ・ブラントといえば、令嬢たちの間ではちょっとした有名人だ。
彼女は大変美しいが、いささか上昇志向が強すぎて、他人の婚約者だろうがお構いなしに狙うため、大変に評判が悪かった。
「あの女、彼が私の婚約者だって知っていたのに、簡単に盗られる方が悪いって……ひどいわ……」
エミリアの涙を拭いてやりながら、リーゼは泣き崩れる親友の背中を撫でた。
(許せない……エミリアは何も悪くないのに! 簡単に騙されたあの男と、カミラのせいで——)
そこまで考えた時、リーゼの頭にふと、天啓とも呼べる閃きが舞い降りてきた。
エミリアの略奪された婚約者は侯爵家嫡男で、ユリウスは大公家嫡男。
つまり、ユリウスの方が家格が上だ。
——もし、カミラがユリウスを奪おうとして、ユリウスがそれに乗ったら?
リーゼの大きな瞳が、きらりと光った。
(ユリウス様がカミラに乗り換えてくだされば、婚約破棄はあちらから言い出してくれる。わたくしは被害者としてユリウス様と離れられるし、カミラは「次期大公夫人」という最高の権力を手に入れられる)
涙が止まらない親友を前に、リーゼは上がりそうになる口角を必死に抑えた。
(ユリウス様だって、か弱いわたくしなんかよりよほど仕留めがいのある獲物を手に入れられるのだから、きっとお喜びになるわ。そしてエミリアは、自分を苦しめた女が地獄を見ることになるのだから——みんなハッピーじゃない!)
ユリウスの獲物にされるカミラが本当にハッピーなのかどうかについては、リーゼの思考回路からきれいに抜け落ちていた。些細なことである。親友を泣かせた罪は重いのだ。
リーゼは翌日から行動を開始した。
まずは、すっかり日常と化したユリウスとのお茶の席で、さりげなくカミラの話題を出してみた。
「ユリウス様、カミラ・ブラント嬢をご存知ですか? 先日お見かけしたのですけれど、とてもお美しい方ですわよね」
ユリウスは紅茶のカップを口に運びながら、微塵も興味のない顔で応じた。
「ああ、そうかな?」
無関心。完全なる無関心だった。
八年間リーゼ一筋だった男の心は、美しい程度の誉め言葉では微動だにしないらしい。
リーゼは内心で焦りながら、次の言葉を探した。
何かもっと、ユリウスの琴線に触れる言い回しをしなければ。
そして、苦し紛れに口をついて出たのは、自分でも予想していなかった一言だった。
「あの方、なんだか若い鹿のようでしたわ。しなやかで、溌溂としていて……思わず追いかけたくなるような」
言った瞬間、リーゼは心の中で自分の頭を殴った。
(鹿って言った!? わたくし今、この男の前で、鹿って言った!? まずい! 何を言っているのわたくし!)
しかし。
「……鹿?」
ユリウスの手が、一瞬だけ止まった。
紅茶のカップを持つ指先に、微かに力が入ったのをリーゼは見逃さなかった。
「追いかけたくなる、か」
ユリウスは呟くように繰り返した。
そのライトブルーの瞳に、妖しい光が灯った。
——あの森の中で、鹿の亡骸を前にしていたときと同じ、暗い輝きだ。
(食いついた!)
リーゼの背筋に冷たいものが走ったが、同時に、確信した。
この男は、カミラに興味を持った。
美しさにではない。「追いかけて“アレ”をしたくなる獲物」としてだ。
その後は、エミリアを通じて「婚約者とうまくいっていない令嬢がいる」という噂をカミラの耳に入れさせ、自分はわざとユリウスに少しだけ素っ気なく振る舞ってみせた。
リーゼの策略は、あの一言を起点に、恐ろしいほど上手くいった。
「僕の小鳥」に素っ気なくされたユリウスの前に、自信に満ちた美女が現れる。
リーゼとは正反対の、堂々として挑発的で、簡単には壊れそうにない女。
ユリウスのライトブルーの瞳に宿った暗い光がじわりと大きくなっていくのを、リーゼは柱の影から確認した。
(そうよ! ユリウス様。あの方はわたくしのようなか弱い小鳥とは違う。簡単には折れなくて仕留めがいのある、立派な鹿ですわ!)
リーゼは内心で勝利を確信していたが、表面上は不安そうな顔で「最近ユリウス様がよそよそしい気がするの」と周囲に漏らし、被害者ぶるのも忘れなかった。
——そして三ヶ月後。
「リーゼ。大切な話がある」
お茶の席で、ユリウスが改まった様子でリーゼに言った。
そのライトブルーの瞳は、相変わらず笑っていない。
「僕たちの婚約を解消したい」
リーゼは大きな瞳を見開いた。
唇を震わせ、信じられないとでも言うように首を横に振った。
我ながら完璧な演技だと思いながら。
「申し訳ない。僕は、カミラを愛してしまった。彼女は——僕のバンビなんだ」
——バンビ。
リーゼは、あの森で見た鹿の亡骸を思い出した。
猟銃で頭を撃ち抜かれ、腹部をナイフで滅多刺しにされた鹿。
(ユリウス様、あなたの“バンビ”が今後どうなるか、わたくし存じておりましてよ)
だがそれを口に出すことは一生ない。
リーゼは代わりに「どうして……」と消え入りそうな声で呟き、両手で顔を覆った。
「……わかり、ました。ユリウス、様のお気持ちが、そうであるなら……わたくしには、引き止める資格など……」
震える声。途切れ途切れの言葉。
完璧だった。涙が出ないことを除けば。
リーゼは心の中で大きくガッツポーズを決めた。
長年の夢が、ついに叶った瞬間だった。
◇◇◇
その日、リーゼは帰宅して馬車から降りた途端、体中の力が抜けたように地面に崩れ落ちた。
そして、ユリウスの前では一滴たりとも流れなかった涙が、とめどなく溢れてきた。
嬉しくて。嬉しくて、嬉しくて、涙が止まらなくなったのだ。
「ブリッツ……わたくし、ついにやったわ……!」
駆けつけてきたブリッツが心配そうに鼻を押しつけてくるのを抱きしめ、リーゼはとうとう声を上げて泣いた。
八年間。八年間、いつ首を折られるかと怯え続けた日々が、ようやく終わったのだ。
歓喜に震えるリーゼとは対照的に、庭で泣き崩れたリーゼの姿を見て、エルレンマイアー伯爵家は激怒した。
リーゼの父は温厚な人物で知られていたが、溺愛する娘の婚約を一方的に破棄されたとあっては話が別だった。
母は母で「完璧なあの子が何をしたと言うの!」と烈火のごとく怒り、兄二人は「大公家の嫡男であろうと許さない」と剣を手に取りかけた。
伯爵家は大公家に対し、正式な抗議と相応の慰謝料を要求した。
大公家としても、嫡男の身勝手で伯爵家の令嬢を傷つけた負い目がある。
交渉の結果、エルレンマイアー家には相当な額の慰謝料が支払われた。
リーゼは申し訳なさそうに「わたくしのことでご迷惑をおかけして……」と俯いていたが、内心は違った。
(慰謝料! ふふ。前から気になっていたあのジュエリーを買おうかしら。それから……)
リーゼはふと、あの森で見たユリウスの猟銃を思い出した。
(か弱いわたくしの護身用に、一丁くらいあってもいいわよね)
結論として、リーゼが失ったものは何一つなかった。
恐怖の元凶は去り、家族の愛は深まり、社交界の同情は集まり、親友の敵を討った上に、懐は潤った。完璧すぎる幕引きだ。
リーゼは慰謝料の額を聞いた日、自室でワインを開け、ひっそりと祝杯を上げた。
そして一本では足りず、流れるように二本目に手を伸ばす。
か弱い小鳥は、かなり酒が強かった。
◇◇◇
充血した目と青白い顔で夜会に立つリーゼには、同情と憐憫の視線が注がれていた。
「あのユリウス様がまさかこんな酷いことを……」
「しかも今夜、もうあの女を連れていらしているなんて」
ざわめきの先に目を向ければ、確かにユリウスがカミラを伴って会場に姿を現していた。
堂々と腕を組み、時折カミラの耳元で何かを囁いている。
カミラは妖艶に微笑んでいた。
ユリウスの白い指がカミラの首筋にそっと触れ、顎の下から鎖骨のあたりまで、なぞるように滑っていくのが遠目にも見える。
傍目にはこの上なく甘い仕草だったが、リーゼには、それが何を意味するか、痛いほどわかっていた。
(ああ……あの人、もうカミラの首の太さを測っている……!)
リーゼは心の中で静かに祈った。
——頑張ってちょうだい、カミラ。できるだけ長く生き延びて、他の犠牲者が出ないようにあの男の関心を引きつけておいてね、と。
と、そのとき。
「リーゼ嬢」
低く、落ち着いた声がリーゼの背後から聞こえた。
振り返ると、そこに一人の青年が立っていた。
それは、普段この程度の夜会に足を運ぶことはまずない人物だった。
プラチナブロンドにブルーグレーの瞳。ユリウスとはまるで違う、氷を思わせる美貌。
王太子アレクセイだった。
ユリウスの従兄であり、この国の次期国王。
そして——適齢期になっても一向に婚約者を作らず、その理由を誰にも明かさないことで有名な男。
「殿下……」
「今日の夜会に来ると聞いて、驚いた。——僕の従弟がとんだ無礼を働いたようだ」
アレクセイは静かにリーゼの前に手を差し出した。
「今夜、僕にエスコートをさせてもらえないだろうか」
会場がざわめいた。
王太子が、自ら女性を誘うなど前代未聞だった。
社交界の美しきご令嬢たちにいくらアプローチをされても見向きもしなかった王太子が、この可憐で哀れな令嬢に自ら手を差し伸べている。
それは、まるで物語のワンシーンのようだった。
令嬢たちの何人かは感極まって泣きそうな顔をしていた。
リーゼもまた、泣きそうな顔をしていた。
ただし、理由が違った。
アレクセイのブルーグレーの瞳を見た瞬間、リーゼの背中に冷たいものが走ったのだ。
美しい顔。完璧な所作。非の打ちどころのない振る舞い。
——けれど。
目が、笑っていない。
口元は柔らかに微笑んでいるのに、瞳の奥には何の光もない。
まるで、笑顔という仮面を、ぴたりと顔に貼り付けているような。
リーゼは知っている。
この目を。この温度のない笑みを。八年間、嫌というほど見つめてきた。
(……あ、そうだった)
そして、絶望的な事実に気づいた。
(この人、あの男と血が繋がってるんだった)
会場中が感動に包まれる中、リーゼだけが顔面蒼白になっていた。
今度の蒼白は、二日酔いのせいではなかった。
「こ、光栄、ですわ……」
リーゼは震える手でアレクセイの手を取った。他に選択肢がなかったので。
取りながら、心の中で盛大に泣いた。
それは昨夜流した涙とは、全く別の意味を持った涙だった。




