第七話 アルクの過去
リリアーナとの『終身伴侶業務担当』への移行申請を提出し、アルクは心の中で深く安堵していた。
彼はリリアーナが自分に抱く感情が、恋愛的な熱狂ではなく、純粋な業務的信頼と安定への渇望であることを理解していた。
それこそが、アルクにとって最も安全な場所だった。
彼の地味で目立たない存在は偶然の結果ではない。
それは彼が人生をかけて築き上げてきた、『生きていくための戦略』だった。
アルク・グラディスは、元々、地方貴族の四男坊として生まれた。家督を継ぐ見込みはゼロ。かといって騎士としての武術の才も、社交界で輝く美貌もなかった。彼の存在は一族の履歴書に記された、ただの『平均的な項目』でしかなかった。
そんな彼の人生を決定づけたのは、幼い頃に父から言われた一言。
「アルク、お前は何も持たない。ならば誰も注目しない『地味な存在』として生きよ。目立たなければ敵も作らず、大きな失敗もしない。それはお前の最大の武器となる」
その言葉を胸に、アルクは徹底的に目立たないよう努力した。
• 服装は灰色。装飾はゼロ。
• 発言は求められた時のみ。内容は『事実の報告と確認』に限定。
• 能力は平均より上だが、『天才』と認識されるほど突出させない。
しかし唯一、彼が突出して磨き上げた能力があった。それが『法律と規定の記憶、および文書処理能力』。
感情や人間関係は予測不可能でリスクが大きい。
しかし法律と規定は揺るがない。そこに書かれた文言こそが世界で最も確実で、地味で、そして強力な武器だと知っていた。
彼は図書館に籠もり、膨大な文書を頭に叩き込んだ。公爵家で文官見習いとして働き始めたのも、地味だが堅実な仕事を求めたからだ。
そして、そこで出会ったのが感情の塊のような公爵令嬢、リリアーナ。当初、アルクはリリアーナを『極めて処理の難しい、高リスクな案件』として認識していた。彼女の癇癪、激しい感情の起伏はアルクが目指す『安定』とは真逆の存在だった。
だが、ある日。リリアーナがヒロインへの嫉妬から書類を破り捨てた際、アルクが淡々と『様式Bによる再申請と書類紛失に関する始末書』を求めたとき、リリアーナの目がまるで救いを見つけたかのように輝いたのを、アルクは見た。
(彼女が求めているのは感情的な共感ではなく、感情を無視した事務的な秩序……)
その瞬間、アルクは確信した。
リリアーナ様は自分を『悪役令嬢』という役柄から解放してくれる『最高に効率的な業務パートナー』になり得ると。
そして王太子との婚約破棄イベント。
リリアーナが『婚約者業務担当』に自分を選んだとき、アルクの心に喜びはなかったが、『安定業務の確保』という最高の安堵が訪れた。
(リリアーナ様はわたくしを愛していない。わたくしの事務処理能力を愛している。そして、わたくしはリリアーナ様の安定への渇望を愛している。これは極めて合理的で最高の相性だ)
相性測定盤が示した0%。
それは恋愛感情の欠如を意味するが、業務と安定においては紛れもない100%だったのだ。




