第四話 文官アルクの秘めたる能力
公爵家の別邸での新婚(業務)生活は、リリアーナの期待通り、驚くほど地味で静かだった。
ディオン殿下との生活を想像したのなら、豪華なディナー、甘い囁き、夜会。そして何よりも絶えず向けられる熱い愛情と期待に、リリアーナの心はすぐに疲弊し、ゲーム通りの破滅ルートを辿っていただろう。
しかしアルクとの生活は、まるで図書館の閲覧室にいるかのようだった。
朝。リリアーナが目覚めると、アルクはすでに専用の書斎にこもっていた。朝食も会話らしい会話もない。
「アルク、本日の予定は?」
「ひゃい。午前は文書整理、午後は来週の社交界欠席理由書の作成が入っています。書類はテーブルに置いておきました」
「ありがとうございます。欠席理由書の様式はB-3で間違いありませんわね?」
「ひゃい。昨夜、過去五年の社交界欠席理由書の傾向を分析し、最も波風の立たない文言を選定いたしました」
「相変わらず完璧ですわ」
この事務的なやり取りが、リリアーナにとっては何よりも甘い言葉だった。
アルクは、リリアーナが『婚約者業務担当』に任命した直後、まず『リリアーナ様のご機嫌指数と安定維持に関する考察』という名の報告書を提出してきた。 そこには、リリアーナがどのような状況で感情的になりやすいか、どのように接すれば感情の起伏を最小限に抑えられるか、詳細に分析されていた。
• ケース1: 社交界の華やかなドレスに対するリリアーナ様の反応(過去一年):『嫌悪』、理由は『煩雑』。
対処法:着用の機会を最小限に抑えるための公的な書類作成を優先。
• ケース2: リリアーナ様が癇癪を起こし、物を投げる状況:感情の発散が目的であり、物を投げられた側の反応を求めていない可能性が高い。
対処法:淡々と物損報告の手続きを促すことで、事務処理へ意識を移行させて沈静化を誘う。
(なんて細やかで素晴らしい分析力なのですか! これぞ、0%の相性が生み出す客観性ですわ!)
アルクはリリアーナを愛さなかったからこそ、彼女を客観的に観察し、分析することができた。彼の冷静さは、リリアーナが求める最高のシェルター。
ある日、リリアーナは不慣れな庶民街の視察から戻り、疲労困憊で書斎に入った。
「ああ、アルク。今日は本当に疲れてしまいましたわ。あの人混みと過剰な熱気……」
リリアーナがぐったりとソファに沈むと、アルクは慌てることなく静かに立ち上がった。
「ひゃい。それでは、『緊急時におけるリリアーナ様の精神安定プロトコルB』を実行いたします」
アルクはそう宣言すると、リリアーナの前に温かいハーブティーのカップと、真新しい『未処理書類の山』を静かに置いた。
「こちらの書類は期限に余裕のあるもので、簡単な仕分け作業だけで完了するものが主であります。無心で作業することで、雑念を排除できるかと存じます」
リリアーナの顔は、みるみるうちに笑みが浮かぶ。
「アルク! あなた本当にわたくしのツボを心得ていますわね! 熱い愛情の囁きより、冷たい未処理書類の山! 最高の癒しですわ!」
リリアーナは即座に書類の山に取り掛かった。
アルクは何も言わず、ただ静かに作業を見守りながら、彼女の紅茶の減り具合をチェックしていた。
彼らの間に流れる空気は愛情ではなく、信頼と、そして完璧な業務連携だった。




