第十五話 ルーク•アルヴェリア
僕の名は、ルーク・アルヴェリア。
丸メガネと、地味なグレーの公爵家制定服。これが、僕が公爵家の新当主として選定した、最も効率的で目立たない制服だ。派手な装飾は、無用な注目と感情的な動揺を誘発する。
父上と母上の教え通り、公爵家にとって最も重要なのは、『静かに、長く、平和に生きること』。
そして、『リスク管理の徹底』である。
◇
「ルーク様、本日の業務開始まで残り五分三十秒であります」
執事の定型的な報告に、僕は無言で頷いた。
僕の隣には肌身離さず携帯する、『公爵家業務遂行マニュアル(最新版)』が置かれている。
このマニュアルは、僕の両親――リリアーナとアルクの二人が、『愛の業務提携』のノウハウをすべて注ぎ込んで作成したものだ。
業務遂行計画書はすでに両親に提出し、満場一致で『最高評価』を得ている。
計画書より抜粋:
• 項目7: 公爵家の財政は『感情的支出をゼロ』に維持する。
• 項目15: 感情的な動揺が発生した場合は『即座に書類整理を行い、感情を実務に変換する』というマニュアルを適用する。
• 項目99: 『結婚』は『最適な業務パートナーとの資産共有、およびリスクヘッジのための契約』として行う。
完璧だ。この計画に従えば、公爵家は永遠にノイズのない安定を享受できる。
その時、執務室の分厚い扉がノックされ、扉が開いた。入ってきたのは秘書教育担当の老婦人。そして、その後ろに隠れるように立つ一人の女性。
「ルーク様、こちらが本日より採用いたしました、孤児院出身の見習い秘書、アメリアでございます」
僕は視線を下げて机上の『新規採用人員の評価項目』の書類にペンを走らせる。
老婦人の報告は耳で聞くだけで十分だからだ。
「アメリア、でありますか。採用理由は『公爵家孤児院出身』という、感情的リスクが低いという点で高評価にありますね」
しかし僕の完璧な業務開始は、そのアメリアという女性の登場で、最初のノイズに襲われることになった。
老婦人が一歩横に移動すると、アメリアは深々と頭を下げた。それは丁寧な挨拶だったが、彼女が背負っていた布製のバッグが机の角に引っかかり、「ガシャンッ!」と壮絶な音を立て、机の上に完璧に積み上げていた、『領地予算案の監査報告書(緊急)』の束が崩れ落ちた。
さらに報告書に、アメリアのバッグから転がり出た焼き菓子が直撃。その側面に添えられていた生クリームもべったりと付着していた。
静寂が執務室を支配する。
僕はマニュアルを手に取る。
このような緊急事態は想定外だが、まず対処すべきは『感情的な動揺』だ。
――落ち着け。今、僕の胸に発生している感情は、強い『不快感』と『苛立ち』に相当する。
これは業務遂行上のノイズである。
アメリアを凝視した。彼女は顔を真っ赤にして、クリームまみれの焼き菓子と、崩れた書類の間でひどく混乱していた。
「あ、あわわ……ごめんなさい! ごめんなさい! 私、すぐに拭きます! 弁償します! 本当に申し訳ありません!」
アメリア言葉は完璧に予測不能な『ノイズ』そのものだった。
僕は冷徹な声で告げる。
「アメリア、貴女は公爵家にとって『感情的リスク』の具現化であり、『事務処理能力の欠如』という、最も致命的な欠陥を抱えています。しかし、焼き菓子の材料調達ルートは未だ特定されていません。業務を妨害したこと、および書類を汚損したことに対する責任追及は業務時間外に行います。今は崩れた書類の山を『感情を入れずに』回収してください」
アメリアは混乱したまま、泣きそうな顔で焼き菓子を拾い上げていく。
彼女は、僕の『完璧な地味な日常』に、初めて予測不能なノイズを持ち込んだ人物だった。




