第73話 煌蔣様とお呼びしますね
寺院の中に入っていくと、ほんのり線香の香りがする。連珠は外で、斉を待つというので、煌蔣と二人でお参りすることになった。
「殿下は何かお祈りされるのですか?」
私は隣を歩く煌蔣に尋ねると、少し考えるようなそぶりをする。ふだん、あまり、神頼みなどしないのだろうと思った。
「そうだなぁ……せっかくだから、桜妃の科挙合格と幸せな結婚でも願おうか?」
いたずらでも思いついたかのような表情に、ドキッとした。いつもは、そんな表情をするような印象はなかったので、子どものようにふるまうことが新鮮であった。
……殿下でも、そんな表情をするのね。ビックリしちゃったわ。
ドキドキとする胸を押さえる。どうしたの? と言わんばかりに、のぞき込んでくるので、思わず視線をそらした。それが面白かったのか、私の視線を追ってくる煌蔣は完全にいたずらっ子のそれである。
「殿下!」
「桜妃、寺院の中は静かに」
「……すみません」
なぜか、私が叱られることになり、肩を落としていると、クスっと隣で笑うのが聞こえてくる。ムッと頬を膨らませていると、「桜妃」と名を呼ばれた。
「どうかしましたか? 殿下」
「……その『殿下』っていうのをやめないか? 兄上のことも『殿下』と呼んでいただろう?」
「そういえば、そうですね。なんとお呼びしたらいいですか?」
「煌蔣か、蔣と……」
「では、煌蔣様とお呼びしますね」
満足そうにうなずく煌蔣に私も微笑んでいた。寺院の奥へ向かうと、立派な仏像が目の前にあった。先に仏像に家族や領地の人の幸せを願った。そのあと、目的の月下老人と文昌帝君へ祈った。
「こんな祈りをする日が来るとは思わなかった」
「殿……煌蔣様は、ご自分で道を切り開いて行かれる人だと思っていましたから……」
「神に祈ったのはたったの1回きりだな」
「元服の日に、桜妃が行列を見に来ていて、この簪をしていなかったのを見たとき」
「お母様が亡くなったときは?」
「……親不孝だという人もいるけど、祈ってはいない。母上は、自分の死期をなんとなくだけど、予想していたから。いつも、母のために祈ってはいけないと言われてきた」
「そんな……。それじゃあ」
「本人がいいと言ったんだから、いいんだよ。別れの辛さはあったけど、母上の遺言通り、今は皇宮と距離を取って、少しずつだが、父上の信頼を手に入れているから」
満足そうな表情をする煌蔣を見て思うことは、皇帝の寵姫が亡くなった以降、ずっと寂しかったのではないかと思った。誰にも言えず、胸の奥深くにしまってしまった悲しい感情はなくならない。
「煌蔣様、私にできることがあったら、何でも言ってくださいね?」
「もちろんだよ」
私は隣に並ぶ煌蔣の手をそっと握りしめると、優しく返してくれた。その大きくごつごつとした手に私の心はギュッと掴まれるようであった。




