第35話 ありがとう
「桜妃、どきなさい。私が結ぼう」
「いえ、これくらいできますから……」
「芳家の令嬢、私がしますから。兄上のお手を煩わせるわけにもいかないですし」
何度も失敗してしまったため、煌蔣に下がるように言われ、悔しくなり肩を落とす。煌蔣の傍で、ただ、蝶々結びがされるのを見ているしかなかった。あっという間に結び終わったのを見ていると、皇太子が急に私を引き寄せる。突然のことで私は後ろにたたらを踏み、皇太子の腕の中に納まった。私がバランスを崩し転ぶと思い、煌蔣も手を伸ばしてくれたが、その手は皇太子の腕の中では届かない。
「……殿下?」
「煌蔣も陛下への報告があるのだから、桜妃もこれ以上邪魔をしてはいけない」
「……そうですよね。殿下の言う通りです」
皇太子の腕の中から抜け出そうともがいてみたが、どうやらその腕は緩むことはなさそうだ。単純に剣でなら皇太子にでも勝てるが、純粋な力を比べると、私では皇太子には勝てない。どうしたら皇太子は私を放してくれるのか分からないが、煌蔣に対して、時間を取らせてしまったことを反省した。
「あの……すみませんでした。ろくに紐も結べなかったのに、煌蔣殿下を呼び止めてしまって……」
「それはいい。陛下に会う前に身だしなみを整えられたことに感謝する。ありがとう」
少し口角を上げるようにして、私たちに再度、頭を下げて煌蔣は廊下を歩いて行ってしまう。その後ろ姿を見送っていると、不意に懐かしい香りがした。私の使っている香のようであって、少し違うような……と考えていると、皇太子は腕を緩めてくれる。逃げるように、離れると眉根を寄せる皇太子。それは、私がしたい反応であった。どうして、こんなことをしたのかと皇太子に聞こうとしたら、私に背中を向けて歩き出してしまう。
「桜妃、行くぞ」
少し機嫌の悪い声の皇太子をチラリと見る。私は、その場で見えなくなるまで煌蔣を見送る。先に歩いて行ってしまった皇太子に呼ばれ、私は慌てて追いついた。機嫌の悪い皇太子は、それ以降、私の方は見ずに、こちらを顧みることなくスタスタと歩いて行ってしまった。
私たちは父のもとへと向かう間、一言も話さず、距離も空いてしまう。ここひと月で、友人として、それなりに心を通わせることができたのではないかと私は勝手に思っていたが、今の状況を見れば、そう思っていたのは私一人で皇太子は違うようだった。
……今日は、なんだか、殿下の感情の起伏が激しいわね。ご機嫌で話していたかと思えば、私を振り回すような態度をとるし。
でも、いいわ。私は、今日のお役目が終われば、殿下と会うことは、もうないのだから。友人だと、心の中だけで留めておきましょう。幼馴染の冬嵐しか、友人らしい友人はいなかったから、少し名残惜しいのかもしれないわ。
皇太子の背中を見ながら、父の待つ執務室へと向かって歩く。




