第32話 上から下まで黒づくめの青年
後宮を出て皇宮で働く父の元へ行くため、皇太子と並んで廊下を歩く。廊下にはちらほらと遠巻きに文官武官の姿があったが、私はもう皇太子妃でないにも拘わらず、いつものように皇太子の隣を歩いてしまっていた。
すれ違いざまに皆が振り返ることを不思議に思っていたが、それが何故なのか気がつかなかった。後宮へ来てからの日常が抜けておらず、視線に気がつき、私は今の自分の過ちに気づき、皇太子から一歩後ろへ下がる。
それでも、皇太子と一緒に歩いていることに対して、不躾な視線は私を離さなかった。
ガチャガチャという音が聞こえ、私は立ち止まり少し脇へと移動する。皇太子は皇帝以外に道を譲る必要もないので、そんな私を見てため息をついている。
「桜妃、こちらに」
「……いいえ、私はただの芳桜妃です。殿下のお邪魔にならないようにさせてください」
「いや、桜妃は私の友人だ。堂々と廊下を歩いても構わぬ」
一歩も引こうとしない皇太子に従って、少し後ろを歩く。私はもう皇太子妃ではないのだから、皇太子は不服そうだが、これが私たちのあるべき姿だろう。
そのとき、皇太子の前で甲冑の音が鳴りやんだ。黒髪と黒曜石のような瞳、黒の甲冑、上から下まで黒づくめの青年が立っていた。
「あぁ、煌蔣か。甲冑の音がしたからもしやと思っていた」
「兄上」と皇太子を見て一瞬曇った表情をしたがそれもつかの間。第三皇子龍煌蔣は、にこやかに表情を作り変えてしまう。
私でも、目の前にいる人物が誰なのか、一目でわかる。数年前、父の言いつけを守らず、屋敷を抜け出してまで、元服の行列を見に行った人物が目の前にいる。
……こんなところで会えるなんて。今は、皇宮にはいないと聞いていたから、驚いたわ。政治的にも後ろ盾がなく、苦労も多いとかで……父からも大変な立場だと聞いているのよね。
あの日、行列の先頭で見た黒髪に黒曜石のような瞳は変わらず、濁ることもなく真っすぐだ。意志の強そうな眼差しは私を惹きつけていく。
立ち止まったままの煌蔣は、皇太子をじっと見つめ、次の言葉を選んでいるのだろう。
煌蔣は視線の先で皇太子の後ろにいる私を見て、戸惑ったように感じたが、私にはその意味は分からず、ただ、急に厳しくなった私への視線に苦笑いを浮かべて見つめ返した。
……私、煌蔣殿下に何かしたかしら? 父も煌蔣殿下とは、不仲ではなかったはずだし、政治的なところからは、距離を取っているはずよ。
煌蔣からの厳しい視線の意味を考えてみたけど、私には思い当たることが何もない。煌蔣と会うのも、これが初めてのことだ。私は、ますます彼が私に向ける視線の意味がわからず、困惑するしかなかった。




