第31話 そろそろ時間だ。行こうか
宰相との約束のひと月が過ぎた。私は部屋を見まわしたあと、そっと手を体に添わせた。慣れ親しんだ襦裙に着替えれば、思いの外少し寂しい気持ちになる。豪奢な襦裙や髪飾りに大きな部屋。ひと月とはいえ、濃密な時間を過ごしたこの部屋が愛おしくなった。そのどれもが、仮初の私の物ではなく、本来の皇太子妃のものだ。
襦裙や装飾品に関しては、次に使えるものではないので、換金して私の給金の上乗せとしてくれるらしい。私の持ち物として、全てを持って帰っていいと言われたが、領地のためにと換金をお願いしたのだ。
その中で、私は一つだけ持ち帰ることにした。桜の飾りがついた簪だ。王太子が、昨夜、明明を通して私に贈ってくれたものだ。
「最後の最後に素敵なものをくれるのね」
「あの部屋の鍵のほうがよかったか?」
私は声の方へ振り返ると、微笑んで出入口にもたれかかった皇太子がそこにいた。先日の別れた後から、姿を見せていなかったが、私を見送るために、わざわざ来てくれたらしい。私は微笑み返し、「来てくれたのですか?」と問うと、「当たり前だろう?」とぶっきらぼうに返してくれる。
「私と離れるのが寂しいなら、そのまま皇太子妃になればよかろう?」
「……誰がなりますか! 私のことをなんだと思っているのです?」
「……芳桜妃だろう?」
「そうですけど……、最初から私は殿下に必要なかったじゃないですか!」
初めて会った次の日から私という監視人をつけ、皇太子は二人で勉学に励んだ。昼間の論議だけでも私の知識よりはるかに高く、講師の問いになんなく答えてしまうことに気が付いたとき、私も父も宰相に欺かれたと知った。
噂とは違い遊んでばかりではなくどこで学んできたのか、最高学府主席でも答えられない模範解答に舌を巻くことになった。
武術は私にやや劣るも筋は悪くはない。ひと月の間に私がしたことは自分のための勉強だけ。師がいない私は冬嵐に習うか自身で答えを見つけなくてはならない。そんな私が皇太子の講師に教えを請えたことは何物にも代えがたかった。皇太子からもたくさんのことを学んだおかげで、揶揄ってくる知識の塊である冬嵐と会うのが楽しみになった。
「必要だったよ。桜妃がいたから、私自身と向き合えた。次会うときは、必ず……」
「必ず?」
「いや、何でもない」と皇太子は私の問いには答えず、言葉を濁す。皇太子の言動を不思議に思い、小首を傾げていた。ただ、何か言葉を私に言おうとして、口をつぐんだ皇太子にも考えがあるのだろう。
「そろそろ時間だ。行こうか」
「はい、殿下」
私は皇太子に促されて、鳳凰宮を出た。ここへ来るときは輿に乗せられて、どこに来たのかすらわからない状態ではあったが、皇太子に連れ回されていたので、今では、皇太子の後宮なら、迷うことはない。
宮を出て振り返り、私はひと月お世話になった鳳凰宮に深々と感謝の意味を込めて頭を下げる。
今回のような依頼でなければ、こんな贅沢な生活を送ることはなかっただろう。この場所に残ることは魅力的であると同時に、私は夢を諦める選択をしないといけなくなる。私は、自分の夢を諦めることができず、私の道を進む覚悟が固まった。
「ありがとうございました」
「何に対してのお礼?」
「ここでの生活全部に対してですよ。とても幸せな時間を過ごせた。私は、私の夢をやっぱり諦めきれないこと、私の道を進む覚悟が固まりました」
待っていてくれた皇太子を真っ直ぐ見つめる。初めて会ったときとは違い、皇太子自身の目にも光が満ちている。
……殿下は、もう、大丈夫!
このひと月で一番いい笑顔で皇太子に笑いかけると、皇太子は頷いていた。何かを決めたようであった。




