崖上のファーストペンギン
崖下の波が白い牙を立て「早く来い」と咆哮している。
私は今まさに、勇気を振り絞ろうと崖の上で足掻いていた。
滑稽な物だ。
今まで努力せず欲望に流されるままに生き、全てを失った私が、今さら勇気という前向きな感情を持とうと努力している。
だが、その勇気も死という後ろ向きな未来に対してだ。
沙莉は最期の最期までひねくれた自分を自嘲しつつ、吼える波を見つめていた。
遺書代わりのメールを打った携帯電話を折り畳むと、冷たい潮風が鳥肌をなすり付けて行く。
台風が去った後の崖は、昨夜の高波が残した潮溜まりが揺らめいており、夏とは思えない程冷え切っていた。
沙莉は崖上に取り残された小さな海に同情を覚え、薄く笑った。
「…こんなときでも頑張れないんだ」
そう呟いた瞬間
「飛ぶなら飛べ、飛ばないならどけ」
突然、鼓膜に飛びついた人の声に、側にあった潮溜まりに落ちそうになりながら後ろを振り向くと、よれたワイシャツ姿の男が沙莉を呆れたように睨みつけていた。
三十過ぎだろうか、手には男の表情に不釣り合いな草臥れたペンギンのマスコットと、錠剤の瓶らしき物が握られている。
「聞こえなかったか?飛ぶなら飛べ、飛ばないならどけ」
男はぶっきらぼうにそう言うと、湿った地面にどかっとあぐらをかいた。
男の態度とペンギンとのギャップに思わず可笑しくなったが、男の視線に沙莉はすぐ顔を伏せた。
「…すみません」
沙莉がいつもの様に謝ると、男の眉間にしわが寄った。
「何が」
「いや…ごめんなさい…」
冷たい潮風が、音を立てて沙莉を笑っている。
「何があったか興味は無いが、やるんなら早くやってくれ」
「な…んで…飛ぼうとしてるって分かったんですか…?」
波の咆哮に負けそうな声で聞くと、男は沙莉の制服を見上げ、鼻で笑った。
「女子高生がこんなど田舎の崖に、辛気臭い顔で突っ立ってたらそれしかない。当たり前だろ。それに…」
「…それに?」
「…とにかく飛ぶなら飛べ、飛ばないならどけ」
普通なら『飛ぶな』と止めるのが当たり前だろう。当たり前を説く人物が、こうも早く当たり前を自ら蹴っ飛ばす様子とイライラしている様子に沙莉は歪んだ笑いを堪えた。
「…なに笑ってやがる」
男は気味の悪い物を見るように沙莉を睨みつけていた。
沙莉は、はっとしたが同時に心は凪いでいた。
いつもそうだ。もう慣れた。もう疲れた。
私は〝思いつき〟が顔に出てしまい、誤解される。 どうしても、何があっても逆らえないのだ。
母親の葬式でさえ、ここで笑ったらどうなるのだろうという強迫観念に襲われ、抗えなかった。
本当は悲しいのに。誰より泣きたいのに。
そういった〝思いつき〟に逆らえない。
感情は湧き上がってくるのに、本心では母親の死を悲しんでいないのではないかという自己嫌悪に陥る。
これについて沙莉は、ブルーライトの海に網を放った事がある。
侵入思考と呼ばれているそうだ。
心理学者が書いた小さなブログに名前があった。
そして沙莉は、侵入思考で浮かんだ妄想を我慢できず表情に出してしまう。
主に不適切な場での笑顔だ。
だが、病気とされてはいない。
しかし、沙莉は確信していた。これは病気だ。何故、人間が不謹慎な想像をしてしまうのか。
そして、逆らえずに表情に出してしまう人間がいるのか。
心理学者や精神科医たちは解き明かせていないのだ。
沙莉は、まだ病名が付いていない病気をぶら下げて、健常者としての評価を受けている。そんな状況に絶望していた。
男は沙莉を訝しげに見つめていたが、こう言い放った。
「興味が無いと言ったが、飛べない理由があるなら聞いてやる。手伝ってやるよ」
沙莉は男の良識の無さを歪んだ顔で耐えつつも、自分の枷について話し始めた。
「…最悪だなぁ…お前」
…よくもまぁ良い大人から、そんな捻りのない感想が出てくる物だ。
沙莉は顔を隠しつつ「そんな事は…分かってます」と返した。
どうやら、沙莉の〝思いつき〟にとって、この男のイライラ顔はツボらしい。
しかし、最悪という太鼓判を押されたものの、不思議とこの男に対しては不快感が湧いてこなかった。感情の理由を彷徨い求めていると、男の手に握られているペンギンと錠剤に視線がとまった。
多分、この男もここに死にに来たのだ。
「なんで…に…?」
「は?」
「…いやその…なんで…ここに来たのかななんて…」
沙莉が地面に向かって問いかけていると、ペンギン片手に男は錠剤をポケットに突っ込み、長い沈黙の後、沙莉が見つめている地面に向かって渋々話し始めた。
「昨日、生きる意味が無くなった」
男の目は冷たく凪いでいる。
「婚約者がいたんだ。つってもガキの頃に約束しただけなんだけどな。その子が昨日死んだ」
沙莉は〝思いつき〟が出ないか心配しながらも、男の話を静かに聞いていた。
「小四の夏休み、台風が去った後の海に互いの家族と遊びに行ったんだ。そして暗くなり始めたぐらいに、さっきまでいたあいつが居なくなった事に大人達が騒いでいた。大人達には残るよう言い付けられたが、こっそり抜け出して俺も探したよ」
「俺はあいつの居場所に薄々勘づいていた。こっそり二人で抜け出して、その潮溜まりを見つけて遊んでたんだ」
男は顎で沙莉の隣にある潮溜まりを指すと静かに続けた。
「その時、このペンギンをあいつは潮溜まりの隅にずっと置いていた。こいつを忘れていて取りに戻ったんだろう」
男はペンギンの縫い目を指でなぞっている。
「そして、あいつを探していた俺は…何かに躓いて転んだ。後ろを見ると、あいつが潮溜まりの中で体を大の字にして、頭の後ろから血を流して、声も出せずに泣いていた。全身に力が入れられないみたいだった」
「俺は助けも呼ばずに、恐くて泣いていた。初めて見る血の赤黒さに泣いていたのか、いつも強かったはずのあいつが、情けなく地面に落ちている姿に泣いていたのか今では分からない。ただ、あいつが俺を、涙を流しながらずっと無言で見つめていた事だけは覚えている」
沙莉は先ほどまでの態度が嘘の様な、男の俯いて丸まった姿に得も言われぬ感情を感じていた。
「大人達が駆けつけて、あいつと一緒に俺も病院に行った後、チューブに繋がれ眠っているあいつを見て泣いた俺を、母さんが抱きしめて何か言っていたがよく覚えていない。だけど、あいつの母親と医者が話していた『もう少し速かったら』という言葉は覚えていた」
「あいつは脊椎を損傷していた。潮溜まりで滑って強く打ったんだ。だが、多くの場合、脊椎を損傷しても意識は残る。だが、あいつの意識は戻らなかった。俺が助けを呼ばずに長い間、頭から血を流し続けさせたからだ」
男はペンギンを握りしめていた。
きっとこれまでもそうして来たのだろう。それもあって草臥れているのだ。
「…そのペンギンは?」
沙莉が遠慮がちに聞くと、男は我に返ったように湿った双眸を見開き、薄く笑いながらペンギンに視線を落とした。
「初めてのおつかいみたいなもんだったよ」
「初めての…おつかい?」
沙莉は、男の最初の態度とその子の事を語る時の姿や、過去の話と『初めてのおつかい』というワードに、落差の激しい人だと微笑した。
「小二の梅雨の時期だったな、親同士が仲良くてな。どうも、初めてのおつかい代わりに、水族館に子供二人だけで行かせようとなったらしい。俺とあいつはクソガキだったから、お土産を買って来いだので渡された、小遣いの何倍もの金額に目を輝かせてお土産も買わず豪遊した後、追加料金がかかるペンギンショーを観に行ったんだよ」
男は沙莉を見上げて無邪気な表情で聞いてきた。
「お前、ファーストペンギンって知ってるか?」
沙莉が首を振ると男は気にせず話し続けた。
「まぁ大人になって俺も、それがファーストペンギンって呼ばれていると知ったんだけどな。ペンギンの群れには特定のボスは居ないんだ。だが、群れってのは誰かのきっかけが無けりゃ動かない。それじゃ飯も食えねぇから、誰かが天敵のいる海に飛び込む必要がある。そんな勇気あるペンギンがファーストペンギンなんだ」
男は少年が飛行機のおもちゃで遊ぶ様に、ペンギンを動かしていた。
「そして、俺とあいつはそんな話をペンギンショーで聞いてはしゃぎ、売り場でこのマスコットを買った。あいつはお揃いにしたいって言ってたけど、豪遊しすぎて一つしか買えなかったな」
男は古いラジオのような温かい声で続けた。
「その時あいつは、『ペンギンくん?私に一番に言いたい事はある?』とイタズラっぽく指差してきて『大人になったら…お嫁さんになって!』と答えたら『どうしよっかな〜』なんて言ってたけど『待ってるね』と言ったんだ」
沙莉は甘すぎる思い出に辟易しながらも、何故か憎めないでいた。
「だが俺は、ファーストペンギンになりきれなかった。あいつは泣きながら待っていたのに。あの日俺が勇気を出して大人を呼んでいたら、意識だけは戻っていたかもしれない」
沙莉は崖を背にして、男の目の前に座り耳を傾けた。
台風の影響で濡れた地面がスカートを湿らせたが、今はこうして男の話を聞いてやりたいと感じていた。
「医者を目指したよ。どうにかあいつの時間を取り戻してやりたかった。勉強して医者になった後、金も貯めて、治療費を負担できないかあいつの母親に頼み込んだ。断られたが、あいつが目を覚ました時に金はあった方が良いと思って残してた。ここだけの話、指輪を買ってこっそりプロポーズした事もある。だから婚約者なんだ。ちょっとキモいだろ?」
男が片方だけ口角を上げて自嘲すると、沙莉も眉を下げて小さく笑った。
「だがそれも必要無くなった。仕事も辞めたよ。この二十年、常にあいつの事だけ考えてた。あいつ以外の事は全て空っぽだった。だが、そんな二十年の積み重ねも、心電図の音で簡単にかき消された。俺は止まったままの二十年前の時間を、同じ時間を過ごしたいが為にこれまで生きてきて医者になったんだ。あいつがいない時間にもう意味は無い」
沙莉は〝思いつき〟が襲って来ていたのを感じていた。
ここで笑うとこの人はどんな顔をするんだろう。
ここで笑うともしかしたら何かが起きるかもしれない。
ここで笑うと何かが起きて世界が滅茶苦茶になるかもしれない。
そんな不謹慎で場違いな妄想に、頭を塗り潰される。
そして、悪魔は優しく沙莉の表情を歪めた。
「…本当なんだな。お前の言っていた事」
沙莉は今すぐ崖から飛び降りたい気持ちで一杯だった。
だがこれは本心なんだろうか?笑いたいと思っているこの気持ちが本心なんじゃ無いんだろうか?しかし、沙莉にはいくら考えても無駄だという事が解っていた。
だから今日、ここへ終わらせに来たのだ。
「今お前は、俺の話を笑いたいと思って笑っているんじゃないんだろ?自分の本心がどれか分からないんだろ?」
沙莉は歪んだ顔で俯いたまま頷いた。
「こうして濡れた地面にケツ着けて、あいつの話を聞いてくれてる。その行動が本心なんじゃないのか?」
沙莉は俯いたまま自分の膝に問いかける。
「でも…こんな時に笑おうとするのは、私の本心かもしれない。止めようとするって事は…溢れ出ようとするって事は…それが自然な姿だからじゃないの?それを本心って言うんじゃないの…?」
「違う。お前は本能と本心をごちゃまぜにしてる」
男は目を合わせない沙莉の目を真っ直ぐ見ていた。
「お前から溢れ出ようとしてる気持ちは本能だ。お前は、本心という心の声の命令で動く、理性というブレーキを使って、本能を抑え込もうとしてるんだ」
「…なんで抑え込もうとするの?」
「多くの幸せを得られるからだ。人間は本能を抑えようとするから、動物より多くの幸せを得られる」
「幸せなんて沢山集めてどうするの」
「無いと死ぬ時怖いぞ?」
「え?」
男はペンギンをポケットに入れて沙莉を見据える。
「幸せを沢山持ったまま死を迎えないと、死ぬ時に後悔の波に飲まれて死にたくなくなる。後悔してても体はそんなの関係無しに死んでいって、この宇宙でお前の番はもう終わりだ。お前の意識は金輪際、この宇宙が何万年続こうと二度と現れない」
男は続ける。
「幸せは死ぬ時の精神安定剤なんだよ」
沙莉は考えた。
何故私は死にたがっていたくせに、崖の上で勇気を必要としていたんだろう。
もちろん、本能が死にたがって無かったというのもある。
だが、それ以上に本心が後悔していたのではないか?もっと勇気を出せば、周りに理解してもらえたかもしれない。
もしかしたら、自分と同じ悩みを持った人間が居たかもしれない。
そんな可能性を本心が言葉にならない言葉で囁いていたのかもしれない。
幸せが足りないから後悔していたのだ。
なら、死のうとした気持ちの正体はなんだ?死ぬ為の勇気が必要だと叫んでいた気持ちの正体はなんだ?…多分これも本心だ。
だが死のうとした気持ちそのものが本心では無い。私は、私を気味悪がる人間を許せなかったのだ。
だから私は、自殺というパフォーマンスで注目を集めて、私を気味悪がった人間に復讐して後悔させようとした。
少しでも自分のせいかもと思わせて、困らせたかったのだ。
そして、後悔というプロセスを踏んでから、私を理解して欲しかったのだ。
あぁ。なんて醜い。なんて幼い。
気付きたくなかった。
しかし、結局この本心も可能性を信じていた。
私を死なせないようにしていたのも本心だったし、死なせようとしていたのも本心だった。
多くの幸せを得る為に理解されたかった。
そんな本心は〝思いつき〟を、まだ可能性があるから抑え込もうとしていたのだ。
可能性があるなら死なない方が良いんだろう。
だが私は、私を気味悪がった人間達を許せるだろうか?
…違う。
私は許す許さないを決められないのだ。
私はそもそも彼らに、何故〝思いつき〟が起こるか弁明もしなかった。
諦めていた。
私にこんな視線を向ける選択をする彼らに理解する能は無いと。
勇気を持たずなにも選ばずに、一人で勝手に諦めて、一人で勝手にちっぽけな決起を起こそうとしていた。
今までの私は何にも勇気を持たずに全て失った。
なにも選ばなかったから、なにも残らなかった。
私は誤解と偏見の海に飛び込むファーストペンギンになるか、自らの死をもって復讐し、あいつらを判らせるファーストペンギンになるかを、今ここで選ぶ必要がある。これ以上逃げない為に。
男は沙莉の様子を伺いつつ話し始めた。
「俺はガキの頃の自分みたいに、勇気を持たずなにも選ばない奴が許せないんだ。だから俺は今日、何があってもここで死ぬと選択した。この後実行するつもりだ。お前はどうだ?何を選ぶ?」
「私は……」
男は片手で沙莉を遮った。
「何でもいい、行動で示せ。それがお前の本心だ」
「…お前に話しかけたのも、あの時の俺と同じ顔をしてたからだ」
「…顔なんて見えなかったでしょ」
沙莉が生意気に小さく笑うと、男が豪語する。
「背中で分かる」
「背中占いでもできるんですか?」
「クソガキが」
男が呆れた様に笑いながら立ち上がっている。
私達は多分、歪んでいるのだろう。
だが、それでも選択する必要がある。
自分が幸せだと思う物を掴む為に。
それが生であろうと死であろうと。
男が手を差し伸べる。
「飛ぶなら飛べ、飛ばないならどけ」
沙莉は勇気を出して立ち上がる。
20代です!
最近退職した後、初めて書いてみた小説です!
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