天使を見たよ!
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふーむ、見返り美人図ねえ。
美人といっても、俺からすると美しい人には、ちょっと見えないなあ。筆のタッチは見事とは思うけどね。
テスト勉強のためとはいえ、資料の対策をしないといけないとは……どうせなら見目麗しい美女の資料ばかり相手にしたいもんだねえ。
人間、ややもすれば自分の考える美意識へ忠実になるだろう?
内容がいい漫画だって、絵のタッチが気に入らないがために読み進めるのが苦痛、というのはときたまある。小説にしたって容姿を細かく描写されない限りは、自分の頭の中で思う美男美女の絡みとなろう。
自分にとって美しいものの方が、目にも心にもいいからな。リアルなのがいいからといって、本当にブサイクな輩を出したらページを手繰るのもおっかなびっくりになる。
だからよ、もしやたらと美化される存在がいたのなら、そいつとはあくまで戯れのレベルでいた方がいいかもしれないぞ。
距離をとって、遠目に眺めてそのまま、くらいにな。
俺の昔の話なんだが、聞いてみないか?
「天使を見たよ!」
そんな話をクラスの女子が持ってきたのは、小学生のころだったか。
なんだそのキャッチコピーめいたフレーズは、と思いつつも、周りのみんなは興味津々。話したがりの彼女の近くに人だかりができあがる。
その頃は、たんぽぽの綿毛が数多く舞う季節だった。子供としては綿毛をふーっとするのも、景気よくキックして散らすのも、しばしばやったものだ。
タンポポ側にしてみれば、どんな過程であれ綿毛と一緒に種を飛ばしさえしてもらえれば、大成功といったところだろう。人の馬力だと、おせっかいの領域かもしれないが。
話によると、その子は散った綿毛のひとつをどこまでも追いかけていったらしいんだ。
主要な道から外れ、あぜ道が入り乱れる田園風景。
ときおり入ってくる車や自転車も、その絶対数は多くなく、足元や前方の地形に気をつければ、地上からの追跡はしぶとく取り組めなくもなかった。
綿毛だって運否天賦によっては、途中で失速や引っかかりもあるだろうが、その毛はやたらついていた。
頭上2メートル近くをキープして、ふわふわと流される姿を追っていくうち、彼女はすでに田畑の用水路にかかる橋を2つ渡っている。
綿毛はいまだ失速の気配なく、彼女も目を極力そらさず急いでいたが、がさりと音を立ててぶつかるものがあった。
かんきつ類の茂みだ。まだ実をつけてはいないものの、小学生を頭から?み込めるだけの高さと、かすかな香り。
実際にそれほどの深さはなかったとしても、不意打ちを食らえばそこは暗い森と変わらない。あわくって、腕でがさがさ茂みをかき分けたのは、ほんの数秒程度。
緑のすだれを分けきって、踏み出したその先で。
減速したがために、やや水を開けられてしまった綿毛との距離。
真上から上前方にとらえるようになったその綿毛の周囲に取り巻くものがあったんだ。
綿毛をいくつもくっつけた大きなそれは、羽根のようだったという。それを背中に生やすのは、30センチの定規内にもおさまりそうな小さな体躯。
生まれたばかりの、その子の弟よりもひと回り小柄だったが、胴体から人のそれと分かる手足を生やし、くしゃくしゃとしわ寄せた笑みを浮かべるそれは、赤ん坊にしか思えなかったという。
それが二人。
背中の白い綿毛の羽根をはためかせながら、なお飛ぶ綿毛のまわりをゆったりと、くるくる回りながら去っていったというんだ。
予想していない光景に、彼女は呆然と足を止めて、どんどん高くへ登っていくのを黙って見送ってしまったらしい。
いまみたいに、肌身離さず持っているケータイですぐにパシャ、とはいかない時世だったからな。証拠映像もなく、俺たちは話に聞いて想像するしかなかった。眉につばつけながらな。
目撃したのは昨日のこと。周囲のたんぽぽ綿毛も、まだまだ健在。
果たして天使とはいかなるものかと、次々にその綿毛を散らされていくたんぽぽたち。
ちょっとでも高度を稼ごうと、摘み取ったたんぽぽの毛を、建物の上から散らそうとする面々も多かった。
しかし、そのようなときに限って、彼らのたくらみをあざ笑うように、綿毛たちはどんどん急降下。彼らが追うまでもなく、自分たちの足つける場所を見つけていってしまう。
結局は彼女がしたように、自然に散っていく綿毛を追っていくより道はなくなったのだが、どれもこれも長持ちをしない。
最初の数日ほど、綿毛の見つけや追いかけの流れなど、丁寧に説明していた彼女だが、やがて珍しく欠席をしてしまう。
連日、ひっきりなしにインタビューされる形だったから、気づかれもあるのかもしれない。
まるきり、人気スターの扱いだなと遠目に見やりつつも、俺とて天使を探すのはやぶさかじゃなかった。ちょうどお目当てだったゲームもクリアしたばかりで、いささか退屈しているところだったからな。
俺の使う通学路は、地形の関係で上から見ると、ほぼ「コ」の字型になる。
コの縦棒部分が交通量の多い県道の一部にあたり、二つの横棒部分はそれぞれ家と学校前の細めのわき道。ゆえに車通りの多い県道をゆくときには、注意しなさいとなんべんもいわれた記憶がある。
きちっとした段差のついた歩道のアスファルトにも、たくましくタンポポが咲くこともしばしば。そのときはちょうど、止まれの道路標識の根元辺りに、ちょこんと綿毛をたっぷりため込みながら鎮座していた。
晴天続きで、軽くなっている体。
そこへ標識お構いなしの、スポーツカーがびゅんと飛ばせば、綿毛たちの巣立ちのときとなる。
わっと、目の前に立ちふさがる綿毛の壁。
大半が即刻脱落し、降りていくこの環境において、わずかな優等生たちがより高く、より遠く。ガードレールをはるかに越えて、畑の上空を横切らんとしていく。
これはイケるかもしれない。
俺は小学生当時の身軽さで、自らもガードレールを越えて畑の一角に着地する。
彼女の話だと、綿毛から目を離したのは必要最低限の時間のみだという。俺もそれにならい、特に勢いの強いひとつにしぼって、ひたすら後を追っていく。
頭上2メートル近く。手を伸ばしても、ジャンプしても届かないだろう高さに浮かび続けるのを、綿毛はやめない。こうしている間も同期は次々、落伍者となっていった。
――ビンゴかもしれねえな、これは。
聞いていたのと、そっくりな状況になってきた。
彼女が出会った場所とはてんで離れていて、地理も異なる。だが俺はすでに田んぼたちの間の用水路にかかる橋を、ひとつまたいでいた。
このあたりの地形はおおよそ頭に入っているが、よそ見をする以上は何がどう転ぶか分からない。
それでも視線を下げたい衝動を抑えつつ、俺はひたすら綿毛を追う。
肌で感じる限り、風はほとんど吹いていない。いくら身が軽いからといって、こうも高度を落とす気配がないとは、やはり妙な奴だ。
目を離さないまま、ぼんやり考えていたところで。
どっと、体当たりをかました衝撃から、一気に俺のまわりが緑の葉たちに覆われる。
ほんのわずかにするのは、みかんに近いかんきつ類の香り。
いよいよ聞いていた通りになったと、胸が高鳴るのもつかの間のこと。ろくに視界がきかないここでは、綿毛のゆくえを満足に眺められない。
しかも、この葉の密集ぶりたるや並じゃなく、じっとしているだけで俺の顔といわず腕といわず、かさこそとくすぐり、ひっかくような刺激を与えてきた。
本能的に、身体が脱出を選んでしまう。
かき分け、かき分け……とはいえ、十秒そこらの時間。
ぱっと開けたとき、綿毛は俺が先ほど追っていたより、ちょいと前を飛んでいた。
そして見たんだ。天使を。
いささか美化しすぎていた感は否めない。綿毛がいくつも連なってできた羽、という点に偽りはない。
が、幼い兄弟を持たないゆえか。
ちっこい胴体に、しゃもじにも劣るようなちっこい手足。その胴に不釣り合いな頭でっかちに、目鼻も分からないくしゃくしゃの顔……。
俺の考える、愛らしさに満ちたエンジェルの姿はなかった。
類人猿か、それに類する何かの生まれたて。それがいま、ひとつの綿毛のまわりを二人でくるりくるりと回りながら、どんどんと高みへ導いていくんだ。
祝福というより、呪いを注いでいるんじゃないのか。
俺の胸に湧いてくるのは、彼女が語らんとしていた感動より、水を注がれたかのような冷え具合だったんだ。
翌日。
起きてすぐ、俺は両腕のかゆみを覚えた。昨日、かんきつ類の茂みへ突っ込んだおり、やたらとこすられたところだ。
虫にさされたようなむずがゆさは、たとえ爪で引っかかないようにしても、風によるわずかなこすれで、つい肩をいからせたくなる敏感さだった。
午前中は何とか耐えられたんだが、午後の帰り際になって。
ぼとり、ぼとりと腕から白いしずくが、通学路へと垂れていくんだ。
俺の腕の、特にかゆみを感じる数カ所あたりから。明らかに血ではない塊が、かすかなかんきつ類の香りと一緒にさ。
日焼けし、はがれる皮よりももう少し深い。浅く肉の穴をうがちながら、奴らは地面を目指して這い落ちる。ろくな痛みもないままに。
見た目の気味悪さ以上に、痛みがないことが俺を震え上がらせたよ。すぐさま家へ帰って、腕を入念に洗うころには、あいつらはもう出てこなくなっていた。
それでも、腕には小指の先が入るかと思う穴が、いくつも開いていてさ。
もうそのままじゃいられねえよ。ばんそうこうで片っ端から埋めて、次の日からは長袖さ。
天使の情報を持ってきた彼女も、まだあったかい時期で花粉もさほどひどくもないのに、数か月マスクをつけっぱなしで、みんなの前で外そうとしなかった。まあ、そういうことだろう。
あの綿毛と天使が、どう見えるか分からない。
いずれの方だとしても、本命はあの茂みの方であって、やつらにとって大事な「種」を、俺たちは身体に植え付けられたんじゃないかな。