18
「ふああぁぁぁ」
疲れた身体を湯船に沈め、大きく息を吐く。誰もいない浴室で自分の声と水音だけが反響する。微かに香る薔薇が心を芯から溶かしていく。清香からの戴き物を早速試してみたというわけだ。
夜会を終えてすぐに寮へと帰ってきた。ラウンジでは恩たちが元気に話をしていたが、疲労を理由に遠慮した。思えば彩葉を理由に使って、あまり参加した記憶もない。人付き合いも仕事の内になるので、距離を置こうとしすぎることも良いことではない。佐倉翼という存在を学園内に残すことは個人的には反対だか、仕事となれば致し方ない。
コミュニティを広げる決心をしたところで30分程浸かっていた湯船から出る。濡れた体を乾かしてから女性用の部屋着に着替える。自室で鍵も閉めているため、それぐらいの息抜きは問題にならない。
「ふわぁ。今日はもう寝ようかなぁ。まだそこまで遅い時間でもないけど流石に疲れたし…。とそうだ、彩葉様に帰ってきているかだけ連絡を入れておかないと。所在を把握しておくことも従者の務めだし」
チャットを打つところで連絡が来ていることに気付く。差出人は朔耶から。
『今日までありがとう。あなたのおかげで無事何とかなったわ。来週、改めて直接お礼を言わせて』
確かに朔耶との再会は何とかなったと言えるような出来だった。最初こそお互いに緊張してしまったものの、その後は上手く話が出来た。
「結構、私については不審な点も多いらしいけどね」
現状、朔耶が自分の正体に気付いていないと分かったことは収穫だった。しかし、それ以上の収穫もあった。佐倉翼が御供の人間であると疑っている。
確かに、まだ佐倉翼と御供翼の間にある関係性は気付かれてはいない。しかし、彼女の疑いは既に核心近くに来ている。このまま近しい関係を維持すれば、間違いなく今の関係性を破壊する火種となる。
佐倉翼をどういう生い立ちの、どういう人間とするかは未だ未確定な部分が多い。会話の中で、どうしても御供に連なる人間としての発言や振る舞いが垣間見えているのだろう。
「お礼って、多分聞かれることになるよね…。あー、なんて答えるのが一番なんだろ」
お礼というのは恐らく建前だろう。もちろん、お礼をしたいというのが全くの嘘ということもないだろうが。何かしらの探りを入れてくることは間違いない。すぐに答えても怪しさは増すだろう。ある程度驚いた上で答えを用意している必要がある。
「利用できるとしたら、若い従者が少ないことぐらいかな。そういえば、楪って朔耶ちゃん以外に若い女性従者はいないよね。18歳以上になると一気に増えるけど。それ未満だと、今登録されているのは、4人だけ。うち2人は私と朔耶ちゃんだし。他2人は陸に仕えているから…」
対朔耶の作戦を考えるためにコンピューターを起動する。ミトモのサーバーへとアクセスする。名簿や配属先を調べるには必要だった。御供の人間であるからアクセスできるのであって、私的利用は禁止されているが、職務の一環ということで問題はないはずだ。
「あとは…。そうだ、次代の御供を教育するための教育を受けた、とか。母さんは人に教えるのあんまり得意じゃないし、叔父さんは立場上、教育には向かないから。一応問題ないのかな。いっそ御供の遠縁ということにしてもいいけど、お祖母ちゃんは一人っ子だし、それより上の世代ってあんまり知らないんだよね。逆に朔耶ちゃんは自分の先祖にどんな偉人がいたかとか、わざわざ戸籍まで調べてたぐらいだし。流石にこれは悪手かなあ」
思い付いた作戦を口に出しながら挙げていく。最初は、朔耶には容易に感付かれると思っていたこともあり、協力してもらうつもりでいた。出会ってからすぐに気付かれるのと、関わりを持ってしまった今気付かれるのとでは、朔耶の感じ方も異なるだろう。彼女からしてみれば、裏切りに近い感情を抱かせてしまいかねない。
「いっそのこと、自分から話すっていうのは…。流石に無理だよね。引くに引けないところまで来ちゃってたのか」
いくら悩んでも良い考えは思い浮かばない。そもそも自分は知略を巡らせるような人間ではない。自分の担当はあくまで交渉事。知略は朔耶の方が得意だと聞いていた。
「ダメだ、何も思いつかない…。うーん…」
結局その日は何もいい案は浮かばず仕舞いだった。
「うわ、ほんとだ。確かに顔色ちょっと悪いかも」
翌朝、彩葉の下へ向かう前に鏡の前でいつもよりしっかりと化粧をする。普段から化粧は薄くしているが、朝は髭の剃り跡が見えないようにという程度しかしていない。その状態で梨胡に会ったため、睡眠不足を指摘された。
明るい色のファンデーションの上に橙色のコンシーラーを塗っていく。目のくまを隠すように持ってきていてよかった。
ついでに、普段は気にしていなかった部分にも化粧を施していく。
「こうして鏡を見てると、やっぱり骨格とかは女の子たちとは違うなあ。普段からもう少しちゃんと化粧をした方がいいかも」
そんなことを口にしながら、目や口にも化粧をしていく。校則では過剰に濃い化粧は禁止されているものの、化粧自体は禁止されていない。あまり肌にダメージを与えるような化粧を禁止しているだけらしい。
「よし。これで隠せたかな。ふわぁ…。とと、そろそろ彩葉様のところに行かないと」
欠伸を一つ噛み殺してから部屋を出る。普段よりも時間は差し迫っていた。普段よりも考えて化粧をしていたため、思いの外時間を要してしまったらしい。
「あら、翼さん。おはようございます。お急ぎですか?」
「わっ。清香さん。おはようございます。うん、いつもよりちょっと遅くなっちゃったから。ごめんなさい、彩葉様をお迎えに行かないとなので。また学園で。朔耶ちゃんも、またね」
廊下で偶然顔を合わせた清香と朔耶に軽く挨拶をして彩葉の部屋へと向かう。他人の、というよりも自分にだけ時間に厳しい彩葉のことだ。遅刻しようものなら途轍もなく面倒なことになる可能性もある。入学前、一度渋滞に巻き込まれて迎えに遅れた時は酷かった。
「私の機嫌が直るまでお出掛けに付き合いなさいって、一日中連れ回されたんだっけ。結局、元々あった当主様とのお出掛けがなくなって次の日が大変だったんだよね…」
一人、記憶を掘り返しながら階段を登っていく。出来る限り急いではいるが、階段を走ると従者らしくない。従者の振る舞いは主人の下で培われるものではないが、主人の評価にも直結する。前回はその相手が朔耶だっただけ幾分マシではあったが。そういった小さなミスも大きな家にとっては弱みになりかねない。家に帰った時に家族三人にこっぴどく叱られたばかりだ。自分も常に渚の名前を背負っている自覚と、淑女としての振る舞いも覚えなさい、と祖父母からきつく言われている。
「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに女装していることを認知されているのもちょっと、いやだいぶ嫌なんだけど…」
そんなことを口にした瞬間、はっとして辺りを見回す。階段を登る足音も、友達同士の会話も幸いにも聞こえてこなかった。
一つ溜息を吐いて頬を叩く。一度男性に戻ったことで、自分の置かれている立場を忘れていたらしい。今自分が置かれている状況を再認識する。
自分の不用意な行動が、どれだけ多くの人を巻き込み得るのか。
御供はもちろん、企業としてのミトモに関わる人もいる。それは企業の運営を行う人間だけでなく、派遣人材として就労している人やその派遣先もだ。
「もしかして、国全体に迷惑かけることになったり…」
そんな事実は認めたくなかった。