15
「さて、それじゃあ行きましょう」
ウキウキとした表情でバイク用のジャケットを着た彩葉がヘルメットを被る。既に準備は万端といった様子で駐輪スペースにやってきた。
「ま、まだ約束した時間の5分も前ですよ?いつもは10分は遅れてくるのに…」
年頃の女の子からすれば、可愛い格好でもなく、ボディラインもすごく見える格好なので、忌避されそうなものだ。しかし、彼女の評価は以前から恰好良いの一点張り。彼女の感性は独自に育まれたものであり、それを悪とは思わない。共感できないだけでなく、ステレオタイプに囚われている自分に問題があるのだ。
「それだけ、バイクに乗るのが楽しみなの。ほら、早く」
彩葉に急かされるようにして準備を済ましてインカムを手渡す。実際に話す方が、意思の疎通が楽だということで、いつの間にか彩葉が準備していたものだ。
『ちゃんと聞こえますか?』
『ええ、大丈夫』
『それじゃあ、乗って良いですよ。ゆっくり乗ってくださいね』
『分かってるわ。いつまでの昔の話をしないで頂戴』
『あはは、すみません。今日は少しだけ風があるので』
『ええ、分かったわ。こうやって、ちゃんとくっつけばいいのよね』
『わあっ!ちょっ、彩葉様、近すぎです』
『あら、二人乗りの時は運転者にしっかりと密着しましょうって、ネットに書いてあったのだけど』
『うぅ…。分かりましたよぅ…。それじゃあ』
『レッツゴー!』
少し風があるとはいえ、気候としてはタンデムツーリング日和と言って差し支えないだろう。少し遠回りをして渚の家へと向かう。特記すべきことがまるでない都会の街でしかなく、風景を見るには物足りないが、会話を楽しみつつ風を切るには丁度よかった。
『ねえ、翼ー』
『どうしました、急に』
『いえ…。今日、家に帰って、明日は夜会なわけじゃない』
『はい、そうですね』
『私って社交界は初めてなわけじゃない』
『そうらしいですね』
『参加者のうち、何人か知らない人がいるの』
『はい、奥様から頂戴した書類見た限りではそうでしたね』
『その中に、渚の従者がいるの』
『ええ、御供の方がいらっしゃいましたね』
『私、その人とは初対面になるの』
『は、はい。それは存じています』
『多分、その人が今後の社交界で付き人になると思うのだけど…』
『ええ。そうだと思いますけど…。それがどうかしましたか?』
『いえ、別に嫌だとかそういうことを言うつもりはないのだけど…。同世代の男性と会話するのってあんまりなかったから…』
『…不安、ですか?』
『…ええ、そうね。写真は見せてもらったし、お母様からお話も聞いているから。彼自身には特に不安はないの。ただ、私って社交界の経験はないけれど、彼は何度も参加しているでしょう』
『大丈夫ですよ。そのために色々勉強してきたんでしょう。それに、今回は縁の深い家ばかりということですから。丁度良い練習ぐらいに思えば大丈夫ですよ』
『もう、私はそこまで粗野に考えられないのよ?』
『家の名前を背負うと、途端に萎縮しますからね、彩葉様は』
『仕方ないでしょう。財閥令嬢らしい教育なんて全然受けていないのだし、緊張ぐらいするわ』
『渚の仕事に関する教育を受けていないだけですよ。マナー関係の教育はしっかりと彩葉様の所作に反映されています』
『全く、翼のくせに知ったようなことを言うんだから』
『彩葉様のことは奥様から伺っていましたし、実際こうして何度も喋っていますからね。翼でも分りますよ』
『もう…』
『あ』
『え…。な、なに、どうかした?』
『いえ…。私は女性と会話をする彩葉様しか知らないので。緊張のあまり、男性に対して横柄な態度をとらないでくださいよ?』
『私は翼なんかとは違って、器用なので。そんなつまらないミスはしないわ。あなたとは違うから』
『ああ、もう。そんなに怒らないでくださいよ。不安なんじゃなかったんですか?』
『私が社交程度で不安がる必要があるとでも?』
『社交の場をその程度扱いしないでくださいよ。何かと便利に使われている行事なんですから』
『くすっ。分かっているわ。そろそろ家に向かいましょう』
『それ、もう一つ前の信号で言って欲しかったんですけど…』
◆◆◆
渚家に到着し、彩葉の後ろに着いて屋内まで同行する。通常、バイクは渚家に置かないが、彩葉の送迎の際にだけ一時的な駐輪ということで許可されている。
玄関付近に人影を見つけると、彩葉が少しだけ足を速めていく。それは葵だった。
「あら、お早いおかえりですね。おっと失礼。お帰りなさいませ、彩葉お嬢様」
「ただいま戻りました。早く帰らないとお父様とお母様に怒られてしまうから。この翼が」
「うふふ。それに、私たちにも、ですね」
彩葉と葵がこちらに視線を向けながらニヤニヤと笑って見せる。そんな二人にわざとらしく溜息を吐いて見せると、それで満足したらしかった。
「そういうことで、翼に急かされたのよ」
「でしたら、少し早いですが、用事を済ませてしまいましょうか。彩葉様は私に着いて来ていただけますか。ゆう…奥様がお呼びですので。翼、あなたはバイクを置いて戻って来なさい。当主様がお呼びです。間違っても、そんな恰好で歩いて来てはだめですからね」
「そこまで念押しされなくても分かっています。それでは彩葉様、私はこれで。また学園でお会いしましょう」
「ええ、またね」
彩葉を葵に任せて一度祖父母の家へと向かう。戻ってくるまでに一時間近く時間を取ってしまったが、それについては想定していたらしい。戻ってくるなり、寛和の部屋へと通された。
「帰ってくるなり呼び出してすまない。この話が済み次第休んでくれて構わないんだけど。その前に少しだけ君と話がしたくてね」
寛和に誘導されて席に着く。話の内容は恐らく彩葉か学園のことで間違いないだろうが、やはり自分の雇用主と会話するのは緊張する。
「いえ、今日戻って明日は夜会ですから。時間も限られていることは承知しております」
「そう言ってくれると助かるよ。さて、早速だけど本題に入りたい。君からもらった2週間分の週次報告を見て、色々と考えたことがあってね。改めて、君の役割について話したいんだ」
そう言って寛和が少し間を置く。内容についてそこまで想像は出来ていないが、恐らく寛和にとっても大きな決断なのだろう。自分の子に対する教育なのだから当然と言えば当然だが。
「彩葉が君、佐倉翼に対して友人に近い関係を作ろうとしていることは理解した。私としてはそのことをとやかく言いたくない。優梨も葵くんとは長い友人だしね。渚としては、彩葉の友人として振舞いながら、あくまで従者として彩葉に着き従ってほしい。その上で君に求めることは、彩葉の生活力を向上させること、かな。勉学についても必要に応じて見てあげてほしい。後は、そうだね。あまり、大勢の人にはバレないように、とは言っておこうかな」
「は、はい。かしこまりました」
「うん。さて、それじゃあ話は以上だ。君も学園生活を楽しんでくれ。これは、渚とは関係なく、僕と優梨からのお願いだ」
寛和の部屋を出ると、扉のすぐ近くで葵が待っていた。
「翼、少し」
「はい」
葵に連れられて向かった先は彩葉の部屋の前。明日には夜会で顔を合わせることになっているが、同じ場所にいるのだから、挨拶は済ましておいた方が良いとのこと。御供という大きな家の出自であっても立場は渚に仕える従者。であれば、不敬ととられかねない振舞いはないほうが良い。
「それじゃあ、私は仕事に戻るから。彩葉様に挨拶をしたら帰っていいわ。家に帰ってお母様のお手伝いをしてあげて」
「はい。分かりました。それでは」
葵が小さく笑顔を返して立ち去る。何かと仕事が多いらしく、優雅な歩調ではあるが、少し早足気味だった。
「あら、だれかしら。入って良いわよ」
扉を叩くと彩葉から入室の許可が下りる。自分の立場を再認識させつつ、ゆっくりと扉を開いた。
「初めまして、彩葉お嬢様。私、御供翼と申します。お嬢様への挨拶が遅れましたこと、謝罪いたします」
「え、ええ。…初めまして。渚彩葉です。貴方のことは母から聞いております。明日以降、社交の場ではお世話になります」
少しだけ、冷たいような彩葉の返事を聞く。彼女自身、冷たくあしらおうというつもりはないのだろう。仕方ないこととはいえ、優梨ほど砕けた対応をしてくれそうにはなかった。
「こちらこそ、至らぬ点もあるかと思いますがよろしくお願いいたします。本日は挨拶だけさせていただくつもりでしたので、私はこれで」
扉の前で彩葉と距離を保ったまま、会話を終了させる。どちらかが大人であれば、対応の仕方がマニュアル化されているが、まだ若い男女の主従関係は例が少ない。お互いにぎこちなくなってしまうのは仕方がないことだろう。
「あ、あのっ」
礼をしてから彩葉に背を向け退出しようとすると、大きな足音と共に背後から緊張した声音で彩葉が呼びかけてくる。何事かと振り向くと、彩葉がこちらへ歩みよっていた。
「は、はい。どうかされましたか」
「私、あまり男性慣れしていないので…。気分を害されてしまうかもしれませんが…」
「大丈夫ですよ。私のことは気にしないで下さい。彩葉様は彩葉様らしくしていることが重要です。社交界での私は彩葉様のおまけと考えていただければ」
特に意識せずに喋ってしまったために、声色が学園でのものになってしまう。案の定、彩葉の顔は疑問に染まっているように見えた。
「くすっ。ふふっ。うふふふふ。すいません。お母様や葵さんに聞いていた通りで。時々女の子みたいな声を出すと聞いていたものですから。はい、あまり気負い過ぎないようにしますね。明日も、それ以降も。よろしくお願いします」
急に笑いだしたかと思えば、彩葉の表情が良く知る彩葉のものに変わっていた。まだ完全に信頼されてはいないが、ひとまずが合格ということらしい。もう一度頭を下げてから部屋を出た。
「うふふ。本当、翼そっくりだわ」