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「あ、翼。今週末の話なのだけど」
「はい。奥様から聞いております。楪家主催の夜会に出席されると」
昨日、優梨から正式に夜会の開催が決定したという連絡がきた。参加者は彩葉、清香、朔耶の他にも同世代の女性が数名。全員が楪、渚と交流のある家の令嬢らしく、今回の夜会の意味が窺える。男性の参加者は陸から一人と楪、幸との交流がある人間が来るらしい。こちらも同世代の人間らしく、今後も良好な関係をという意図がより分かりやすくさせていた。
「夜会は日曜日の夜ですから、日曜日の午前中にご帰宅されますか?」
目の前で寝転ぶ主人に尋ねる。課題で疲れ切ってしまったのか、ベッドに突っ伏していた。教える側の方が大変だったと小言を言ってやりたい気も僅かに芽生えたが、今日の課題が彩葉の苦手分野だということは分かっているのでやめておく。
「うーん、そうねえ」
「今週は土曜日も学園がありますから…。学園が終わってすぐに帰るというのでも構いませんが」
「うーん」
「彩葉様。言っておきますけど、夜のツーリングはなしですからね」
突っ伏していた顔をこちらに向けて非難の籠った視線を投げつけてくる。
「そんな顔をしてもだめです。当主様と奥様、それにメイド長やランドスチュワードにまで囲まれて正座させられたんですよ。勘弁してください」
片方は女装とはいえ、自分の子供や孫が夜の街を少女二人だけで徘徊していたのだ。心配もするだろう。個人的に、彩葉にはお咎めが無かったことに納得できていないが。
「いいじゃない、また怒られれば。それとも、主人の命令が聞けないっていうのかしら」
課題の教え方が厳しかったことを根に持っているのか、彩葉の態度がいつもとは違って傍に人無きが若しものになってしまった。多少厳しくしないと真面目に取り組もうともしない彩葉が悪いのであって、自分は職務に忠実なだけ、の筈だ。
「主人が間違ったことをしようとしたら止めることも、使用人の職務です」
「はいはい。はあ、分かったわ。土曜日、学園が終わったら家まで送って頂戴。それが終われば少しの休暇よ。また月曜日に会いましょう」
ようやく諦めてくれたのか、彩葉が予定を伝えてくれる。
「かしこまりました。課題もしっかりこなして、聞き分けも良いお嬢様にはご褒美を差し上げます」
そう言って彩葉の部屋の冷蔵庫にいれてあるケーキをテーブルに置く。
「あら、良いの?いつもならこんな時間にお菓子を食べようとすると怒るのに」
「今日の夕食はカロリー控えめでしたから。これぐらいなら大丈夫です。それに、このケーキ、超低カロリーですよ。自信作です」
「あら、それは楽しみ。いただきます」
フォークを手渡して感想を待つ。令嬢には少し大きすぎる量をとって口に運ぶ。満足はしてもらえたらしい。感想が伝えられることはなかったが、嬉しそうな顔で瞬く間に完食してしまったのだ。
「ふう。ごちそうさま。すごく美味しかったわ。全く、あなたは本当、ずるい人だわ」
紅茶を彩葉の前に置くと、少し不機嫌だったはずの少女が落ち着きのある微笑みを浮かべている。
「え、どうしたんですか。急に」
「別に、なんでもないわ。…これからもよろしくね、翼」
「え、ええ、もちろんです…?」
彩葉はそれだけ言って満足したらしく、それ以外には何も言わずに今日が終わった。
◆◆◆
「分かったわ。でも、本当に良かったの?」
「あはは、流石にちょっと荷が重いよ。朔耶ちゃんや彩葉様と清香さんだけなら大丈夫かもしれないけれど、初対面の人もいるんでしょ。私なんて場違いもいいところだし、今回は遠慮させて」
「そういうことなら仕方ないわ。私たちにとっては知り合いばかりでも、あなたにとってはそうでもないものね。また次の機会にするわ」
学園に着いてすぐ朔耶に呼ばれて人気のない場所まで連れられ、出された話は2日後の夜会に参加してみないか、というもの。発案は主催者側の清香らしく、参加者が主催者との交流が長いため、新たな知己を歓迎してくれると考えたらしい。しかし、参加者の一覧を見た限りではどの家も名のある家で、佐倉の姓では到底参加できるものではなかった。
「はあ…。女の子として生活するだけなら…いや良くはないけど。それにしても二人分の生活をするとなると気にしないといけないことが格段に増えるなあ」
朔耶の背中が完全に見えなくなったのを確認して、更に辺りに誰もいないことを確認してからようやく溜息を吐く。分かっていたが、先の一週間はあくまでチュートリアル。この学園にいる限り、佐倉翼としての生活が主体になる。だからといって、御供翼としての仕事がなくなるわけではない。必要に応じて優梨や彩葉の付き人として社交界に参加する必要がある。彩葉については、今度の夜会のような身内ばかりの小さいものではなく、大きなお披露目の場が用意されるはずだ。渚としても、今回の夜会は渡りに船といったところだろう。言い方は悪いが、本番前に顔合わせと練習ができるのだ。都合が良すぎる。
「さて、そろそろ戻らないと」
少しだけ蒸れたウィッグに指を通す。本物の髪を使った高級品で通気性も良いらしいが、やはり自分の髪ではない違和感があった。
「色も長さも全然違うし、ね」
誰のものかも分からない髪を手で整える。
「うふふ。見ーちゃった。朝から朔耶ちゃんと逢瀬だなんて翼ちゃんも大胆なのね」
前を向き直すと、眼前には奏の顔があった。
「ひゃぁっ!か、奏様!?」
「あら、可愛い反応。いつの間に朔耶ちゃんと仲良くなったの?」
「お、同じ従者ですし…。彩葉様と清香さんはご学友同士でもありますから、自然と…」
「へえ、自然と…。それであの朔耶ちゃんを落とすなんて、流石は翼ちゃん。女たらしの素質があるわね」
意味の分からないことを呟きながら、少しづつ近づいてくる。反射的に同じ分だけ後退る。
したり顔でなおも距離を詰められ、いつの間にか、背中は壁に接していた。
「あ、あの…。奏様?」
「うん?どうしたんだい。そんなに顔を真っ赤にさせて。緊張しているのかな」
そう言って顔に触れようと手を差し出してくる。顔に触れる直前、慌てて奏の両肩を押し返した。
「あら…」
押された肩に一瞬視線を動かしてから、奏が小さく笑顔を見せる。なんとも不敵な笑みに少しだけたじろぐ。
「やっぱり、翼ちゃん武道か何かしていた?」
「へ?多少の護身術ぐらいですけど…」
「へえ…。確かに、手も大きいし、腕も硬い…」
気付かないうちに手を取られ、指の腹で押すように触っていく。マッサージのような心地よさがあった。心が穏やかになっていくのを感じながらも、なんとか気を確かに持つ。最後、奏の指の暖かさをもう一度感じてから奏の手を引き離した。
「くすっ。ほんと、可愛いわね、翼ちゃん」
退けられた手を握って、奏は去っていった。
「結局、何だったんだろう…」
「翼さん。あれ、どうしたの?」
「あ、恩さん。何もないよ。どうかした?」
「あ、今日の一限目は茶道の授業だから移動教室なの。彩葉ちゃ…さんは清香さんと先に行ったみたいだから、声を掛けに来たの」
奏と入れ替わるようにして恩が声を掛けてくる。慌てて来たかのような素振りだったが、その割には肩も息にも疲労の色は見えない。しかし、快活な恩のことだからと、対して気にしないことにした。
「あ、そっか、今週は土曜日までだもんね」
「そういうこと。行こ」
恩に手を取られて茶道室へと向かった。
「あ、そういえば…」
「ん?どうかした、翼さん」
「あ、いや何もないよ。早く行かないと、もうすぐ授業はじまっちゃう」
恩を急かして何とか誤魔化す。今聞いても構わないが、変に考え込んで夜会の時にボロを出すわけにはいかない。また今度、聞いてみるべきだ。
そういえば、初めて出会った時も同じようなことを言っていたが…。