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「っと。まだ一週間しか経っていないはずなのに、随分久しぶりに感じるなあ…」
姿見に映るのは既に懐かしさすら覚えるような男性の姿。タキシードを纏った自分の姿が目の前にはあった。今日は散々可愛らしい服装に着替えさせられ続けたので、久しぶりの男装で落ち着くかとも思ったが。
「髪が肩に掛からないのも、スカートじゃなくてスラックスなのも…。うぅ…」
本来あってはならないはずの違和感に気が滅入る。来週のためにも、持ってきていたタキシードを一度合わせていた。
もちろん、急に着れなくなったなどということはなく。身長も体型も既に一年以上変化がない。声についても、学園に来てからは女性らしさを意識しているが、その程度のことで誤魔化しが利くようなものだ。便利なものではあるが、同時に多少なりともコンプレックスではある。
「翼、今大丈夫かしら」
自分の身に起きている現実に打ちひしがれていると、扉を軽く叩く音と共に彩葉の声が聞こえてくる。
「はい、直ぐに開けま…って、うわっ!」
「翼?どうかした?開けても大丈夫?」
「ちょっ、ちょっとだけ待ってください!今、丁度、着替えているところでっ」
扉を開けようとしたところで自分の姿を思い出す。流石にこの姿を今見せるわけにはいかない。
「そう。夕食のことで相談しようかと思っていたのだけれど」
「あ、夕食でしたら私の方で用意するつもりです。19時頃でよろしいでしょうか」
扉を隔てて会話をする。あまり行儀の良いことではなく、注意すべきことではあるが、今は例外ということで小言は言わない。大きな声で話しているという点では自分の行動も十分はしたない。
「分かったわ。今日の感想、後で聞かせてね」
扉越しに彩葉が去っていく音が聞こえる。気配が完全になくなるのを感じてから大きく息を吐く。仮にもお嬢様である彩葉が勝手に部屋に入ってくるようなことはないだろうが、それでもあまり心臓に良いものではない。
「心なしかいつもより声も低くなっていた気もするし…」
従者という職業は環境適応能力が必要、らしい。更に言うと即興力が求められる。自分にもそれが備わっているのかは分からないが、この一週間で服装や振る舞いには慣れてきた。もちろん、優梨や葵から受けた訓練のお陰であるが、その下積みがあっても戸惑うことは多かった。
「これからは女装と男装の切り替えも意識していかないと。来週もだけど、今月末は奥様のお供もしないとだから」
今月の予定を思い出して今一度気を引き締める。本来の装いでの仕事とはいえ、社交界への参加は気をつかう。
「っと、早く着替えて夕食の準備しないと。お昼は洋食だったし、多分和食の気分だよね」
タキシードから着替えて部屋着姿になる。忘れずにウィッグを被り、エプロンの紐を締める。彩葉に自分の料理を振舞う機会は少ない。今朝の朝食とは違い、夕食には掛ける手間も、期待も違うだろう。紐を締める手に自然と力が入る。
「うっ、ちょっと締めすぎた…」
とにかく、キッチンに向かって調理を始める。
「よし、後は仕上げるだけだね。うーん、思っていたよりすぐにできちゃったな」
少し悩んでから彩葉を呼びに行くことにする。時間が経ってしまえば味も落ちる。主人に振舞う食事なのだから、味が落ちるようなことは避けたい。
少しだけ急ぎ足で彩葉の部屋へと向かう。
「あら、翼。今少し大丈夫?」
階段を走らない程度に急いで登る。その途中ですれ違った朔耶に呼び止められた。
彩葉の下へと焦る気持ちを少し抑えて立ち止まる。従者にとって優先すべきは主人であるが、それは他人に無礼を働いてもいいことにはならない。従者に対する評価は主人への評価に繋がる。常に冷静に、他人に礼節を尽くす必要がある。
「ごめん!今ちょっと急いでいて。また後でも大丈夫?」
朔耶も同じ従者であるため、多少は礼節が足りずとも寛容に受け止めてくれるだろう。そんな考えはなかったが、結果的にはその程度で済んだ。
「え、ええ、確かにそうみたいね。ごめんなさい。彩葉のところに行くんでしょう。また後で連絡するから、今は大丈夫よ」
「ごめんね、ありがとう!」
朔耶との会話に使った時間を取り戻すように、階段を登る足を速める。
「はあ、あの子、本当にミトモでメイドとしての教育受けたのかしら」
◆◆◆
「くすっ。それであんなに急いでいたのね。何事かと思ってびっくりしたわ」
「うぅ、すみません」
彩葉の部屋に着くなり正座をさせられる。財閥令嬢としては行儀作法やマナーに寛容な彼女であるが、従者が外で醜態を晒してきたとなれば話は違うらしい。本人の口調から怒りや呆れといった感情は見て取れないが、反省すべきことをした自覚はあった。
「でも、意外なのよね」
「えと、何がでしょう…?」
正座の時間はすぐに終わり、今は食事の時間になっている。彩葉が茶碗を置くと、思い出したかのように口を開いた。
「この一週間で、なんとなくあなたがどういう人間かは見えてきたと思っているの。その中でどうしても拭えない違和感みたいなのがあってね」
「そ、それは、一体…」
彩葉の真剣な表情に思わず息をのむ。まさか正体がばれてしまったのかと、背中を寒気が襲ってくる。
「うーん。何って言われると難しいのだけど。なんとなく、ミトモのメイドっぽくないというか」
「ええっ!私、何か粗相を…って確かにさっきはしましたけど。そ、そんなにメイドっぽくないでしょうか」
幼い頃から、母のメイドとしての姿を見、付け焼刃ながらも作法を叩きこまれたのだ。下積みは少なくとも、メイドとしては最低限こなせていると思っていた。
「いえね。メイドっぽくないというのは違うのよ。あなたが私のために尽くそうとしてくれていることは分かるもの。ただ、ミトモのメイドっぽくはないのよね」
分かるような、分からないような。そんな表情を互いに浮かべる。背中の寒気はすでに無くなっていた。
「まあ、いいわ。私はミトモの従者しか知らないし。それに、私は今の翼を十分気に入っているから。無理にどうにかしろだなんて言わないわ」
「私としては、もう少しお嬢様らしくしていただけた方が、お仕えしやすいのですけれど…」
「はいはい。この学園にいる間くらい、私とは友達でいて頂戴。お母様とメイド長だって学園生時代は無二の友人だったらしいわよ。それと一緒。ね」
それは当時の優梨が財閥の人間ではなかっただけであるが。一度、相談してみるのも悪くはないのかもしれない。それは朔耶ではなく、葵や寛和、優梨に。
「ごちそうさまでした。すごく美味しかったわ。明日も期待していいのよね?」
「はい。期待しておいてください」
彩葉の問いに笑顔で返す。何が気に入ったのかは分からなかったが、彩葉も笑顔を返してくれた。
「ね、翼。今日はどうだった?」
「はい。凄く楽しかったです」
夕食後、彩葉が持ってきたコーヒー豆を挽いて頂戴する。主人の所有物に手を出すというのは普通ではないが、彩葉の希望ならば致し方ない。
「そう、良かったわ」
答えは分かっていたといった表情でカップに口をつける。その短い沈黙に耐えられず、同じくカップに口をつける。深い苦味と爽やかな酸味が心を落ち着かせてくれる。
「あの、彩葉様」
「どうしたの?」
「良かったんでしょうか。今日、特に何も気にせず楽しんでしまった気もするんですが」
「良いのよ。あなたは人の視線を気にしすぎるだけなんだから。周囲の視線に慣れさえすれば少しは改善されるはずよ」
落ち着いた様子でコーヒーを嗜む彩葉を見つめる。思い返してみれば、女装姿でいることに緊張した記憶があまりない。彩葉に手を繋がれていたからなのか。それとも彩葉とのデートを純粋に楽しめたからなのか。
「くすっ」
「ど、どうかしましたか。彩葉様」
「いえ。気にしないで。本当に楽しかったようだったから。あなたの立場だと、中々本音も言えないでしょうから。少し聞き流していたのよ。でもね、あなたの顔を見ていたら本当に楽しかったんだなって。ちょっと安心した」
カップを置いて手に手を重ねてくる。ホットコーヒーに温められた手は僅かに震えているような気がした。
「彩葉、様…」
彩葉に想われているという喜びを、彩葉を騙し裏切っている悔悟の情が覆い尽くす。今、自分が何を言おうとしているのか。この気持ちはどうすることが正解か。今はただ彩葉を受け入れることしか出来なかった。
「わっ!」
「ひゃっ!」
突然、けたたましい機械音が響く。彩葉の手は既に重ねられていなかった。
「あ、朔耶ちゃんからか」
「そ、それじゃあ、私はそろそろ戻るわね。また明日。おやすみなさい。翼」
先の空気のせいか、居た堪れなくなったらしく、彩葉が逃げるように部屋を出て行く。挨拶を返す間すらなかった。
その間も鳴り続けていた機械音を鎮め、成る丈平常心で声を出す。
「も、もしもし。朔耶ちゃん」
「なに電話程度で緊張しているのよ」
収まらなかった緊張を都合よく勘違いしてくれたらしい。否定も肯定もせずに乾いた笑いで分かりやすく誤魔化す。朔耶が相手になると、途端に小さな腹芸程度は罪悪感なく使えるので不思議だ。
朔耶は特に気にした様子もなく、ため息をひとつ吐いてから話を始める。
「まあいいわ。それで階段で話したことなんだけど」
「うん。覚えてるよ。でも初めてじゃない、朔耶ちゃんから話って」
「べ、別にそれはいいでしょう。今まで完全に対等に話せる相手がいなかったのよ」
朔耶からの評価が良いものであると分かって思わず顔が綻ぶ。
「それで、話なんだけど。今日、清香の母親から連絡があって。次の土曜日に楪主催の夜会に出席してほしいって言われて」
聖がすぐに行動に移していたらしく、既に朔耶に話が伝わっているらしい。朔耶が困った様な声音で話していた。
「へえ、夜会。流石は財閥って感じだね。朔耶ちゃんも御供の御令嬢だしぴったりだね」
「え、ええ。それは良いのだけど…」
今日の朔耶はどこかがおかしい。分かりやすく動揺している様子の朔耶が可愛らしく思えた。
「それが、どうかしたの?」
あくまで何も知らないという体で話を続ける。本来、新人のレディースメイドが持っている夜会の知識は夜に行われる舞踏会や晩餐会ということぐらい。といっても夜会への参加経験はないので、実際の知識もその程度のものだ。
「私が参加することは別に構わないの。今までも社交界には顔を出すことがあったし。ただ、今まで参加していたのは女性だけだったから」
どうやら朔耶は男性が得意ではないらしい。少しだけ意外だったが、幼い頃から自分以外の異性と仲良くしていた記憶もない。
「だから、翼。こんなことあなたぐらいにしか相談できないんだけれど」
一つ息を吐く。
「私の彼氏になってくれないかしら」