紫煙
いつもありがとうございまし
夢子が泣き終えてから、俺たちは帰路についた。せっかくの楽しい日になるはずだったのだが、とんだハプニングに見舞われてしまった。
家に帰るまで俺たちは一度も口を開かなかったし、家に着いてからも言葉はなかった。なんとなく居心地の悪さを感じた俺は、スポーツウェアに着替えてロードワークに出ることにした。
黒を基調としたウェア。短パンにレギンスと、ペラペラのナイロン製のブルジップパーカー。かなりのオーバーサイズだ。耳にはワイヤレスのイヤホン。安物だから、妙に音質が悪い。
一応「いってきます」と挨拶をして家をでる。すぐ近くの公園でストレッチを済ませると、俺はゆっくりと走り出した。
……いつの間にか通っていた高校の最寄り駅まで来てしまっていた。随分長いこと走っていたようだが、深く考え事をしていたせいか、あまりその実感は湧いていない。
ふと寂しさがよぎった。もう二度と踏み入れてはいけない領域だとわかっていたが、通りすがる部活終わりの後輩(もちろん知り合いではない)を見ると無性にあの校舎が見たくなってしまった。
パーカーのポケット手を突っこんで歩く。毎日登った坂道を往くと、夕焼けの手前に俺の母校があった。
校門付近へは近寄らず、校庭の周りを囲う大きなフェンスの周りを沿って歩いた。サッカー部が練習をしている。インターハイへ向けているのだろうか。確か、それなりに強かったはずだ。
ノスタルジーに浸っていると、見回りだろうか。生徒指導の竹藤先生がこちらへ向かって歩いてきた。
「新目か?卒業式ぶりじゃないか」
俺が先生を一目で解ったように、先生も一目で俺だとわかったようだ。
分厚い胸板と不釣り合いなスーツ姿だった。いつもジャージを着ていたから、俺はその姿を見慣れていなかった。
「お久しぶりです」
頭を下げる。
「どうした。顔が腫れてるじゃないか」
言われて頬をなぞる。ピリッとした感覚があった。
「あぁ、実は殴られまして」
「お前がか?はっはっは!」
先生はあり得ないというような顔で、そして少しわざとらしく声を上げて笑った。
「痛かったですよ。でも仕方ないじゃないですか」
すると今度は、途端にその武骨な顔を優し気な表情に変えて。
「偉い、偉いぞ。先生は嬉しい」
そういって、先生は俺の肩を叩いた。
「……どうしてここに来たんだ?」
「理由はないんです。ただ、考え事をしていたら足が勝手に」
「足が勝手に何駅も隣の学校へ向かうわけがあるか」
その通りだ。俺はきっと、今日の俺を褒めてもらいたかったのだ。他の誰でもないこの人に。
風が俺たちの間を吹き抜けていった。汗が引いたこの体に、この風は少し冷たい。
話したいことはたくさんあった。この数日でできた悩みや、これから先の不安。それに、少し昔の話も。
だが、言葉にはならなかった。もしここでこの人に甘えてしまえば、俺はまた立ち止ってしまうのではないだろうかと。それだけは絶対にあってはならない。だから。
「先生、ありがとう」
ただ、それだけを伝えた。
「俺、もう行きます」
間髪を入れず、別れを告げる。
「……あぁ。行ってこい」
正面に俺を見据えて、先生はそう応えた。きっと、これが俺たち二人の最後の会話になるのだろう。
踵を返し、俺は元来た道を引き返す。途中で一度だけ振り返ると、さっきの場所で先生がタバコに火を点けていた。
暗くなり始めた空に、紫の煙が舞う。その煙が目に染みたのだろう。先生は目頭をつまんで、空を仰いだ。
俺はパーカーのフードをかぶると、加速度を上げた。すぐに坂道を追い越して校舎は見えなくなった。
家に着くころ、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。時刻は二十時を過ぎようとしている。俺は傘立ての中に隠しておいた鍵を拾ってドアを開けた。
夢子はいなかった。書置きがあって、友達の家に泊まりに行くとのこと。
だから俺はシャワーを浴びて、すぐに寝ることにした。どういう理由か、夕飯を食べる気にはならなかったからだ。
それだからだろう。次の日目が覚めると、異常に腹が減っていた。
一昨日、冷蔵庫に突っ込んだチキンとポテトをレンジで温め、湯を沸かす。お湯が沸く前にチキンが温まったから、そのまま平らげてしまった。指がスパイスでべっとべとだったが、そんなことはお構いなしだ。目の前にあった食パン三枚を牛乳で流し込み、カップ麺二つに湯を注いだ。
待っている間、残りのポテトとトマトを二つにスナック菓子一袋、キュウリ一本とオレンジジュースを一本飲み干した。三分経つと、まずカップヌードルを食べ、その二分後に大盛りのカップうどん(あげが二枚のバージョン)を胃の中に入れる。最後に未開封だった牛乳を飲み干して、ようやく腹の虫がおさまった。
冷静になってこれは確実に夢子に怒られると思ったが、気づいたときにはもう遅い。せめてもの償いにと、バイトに行く前に洗濯と掃除機をかけておいた。
いつも通りバッソルにまたがってバイト先へ向かう。今日もいつもと変わりなく、かなり忙しかった。
アルバイトを終えたのはまたしても十九時頃。いい加減、残業の安請け合いもやめなければいけないな。
玄関に入ると、見慣れない靴が二足置かれていた。リビングからは賑やかな話し声。どうやら、夢子の友達が来ているようだ。
俺は家に入ると、なるべく音をたてないよう静かに階段を上がった。自室に戻ってようやく一息つくと、バイトで使った制服を部屋の隅に投げて、持って帰ってきたポテトとチキンを食べた。
油の乗った皮の部分を堪能していると、突然部屋の扉が開いた。夢子だ。
「やっぱいるんじゃん。どうして引きこもってるの?」
どうやら男心が分からないらしい。
「逆に聞きたいんだが、仮に俺の友人と三人で話しているところに夢子は割り込んでくるのか?」
「場合による」
そりゃ何事も場合によるだろう。
「とにかく、お兄ちゃんのご飯も作ったんだから早く降りてきてよね」
どうやらそういう事らしい。食べた量が少ないと思っていたからそれはうれしい。多少の気まずさは残るが、俺は妹の好意に甘えることにした。
いつもの短パンではなく、普段履きのジーンズを履いて階段を下りる。
リビングを開けると、二人の少女が食卓についていた。夢子は人数分の味噌汁を茶碗によそっているところだ。
俺は盆にそれをのせてそれぞれの場所へ置いた。一瞬、少女の一人と目が合う。俺は軽く会釈をして、席に着いた。
「はい。それでは食べましょう」
演技がかった言い方で夢子がそう言った。手を合わせて「いただきます」と発声する。今日のおかずはとんかつとキャベツだった。育ち盛りだからだろうか。夢子の年齢だと女でもカロリーを気にしたりはしないらしい。
俺が常識の範囲に盛ったご飯を見て、夢子は少し驚いたようだ。しかし、自分でも自分の食べる量は異常だと理解しているから、わざわざ他人の前でそれを披露することはない。
程なくして、二人が自己紹介をしてくれた。
「初めまして。望月理子です。宜しくお願いします」
「あたしは真琴。宜しく」
挨拶のできるいい子たちだった。やはり類は友を呼ぶが如く、夢子の周りには性格のいい似たような友達が集まるのだろう。兄として、それはとてもありがたいことであった。
「夢子の兄です。いつも妹と遊んでくれてありがとう」
きっと不自然な笑顔であっただろうが、それは仕方ない。モテない男は基本的に笑顔が苦手なのだ。俺も例に漏れずその通りだったというだけの話。
「いえいえ、こちらこそありがとうございます」
望月が答える。髪の毛は黒いショートカット、かなりの小顔だった。椅子に座るその姿勢の良さとウェストの細さから、何かの競技者なのではないかと考える。
一方、真琴と名乗った少女は二人と比べるとやや気の強そうな雰囲気を持っている。暗めの金髪に、ヤンキー的な匂いを感じた。しかし、それにしては可愛らしいヘアピンを付けている。
特筆すべきは、この場にいる三人が三人ともとびきりの美少女であることだろう。聞く人が聞けば血涙を流してうらやみそうなこの状況だが、俺には眩しすぎてなんだか居心地が悪かった。肩をすぼめてなるべく体を小さくすると、三人の会話をなんとなく聞きながらとんかつをかじった。
ありがとうございました