告白
いつもありがとうございます。
冷えた体を温めるため、俺はケトルで湯を沸かしインスタントのコーヒーを淹れた。ミルクは少しだけ。夢子のものには、それに砂糖もたっぷり。
それを飲んでから一息つくと、夢子はゆっくりと口を開いた。
「私、男の人が信じられないの」
突然の告白。俺は黙って次の言葉を待った。
「前のあの人が出て行ったとき、お母さんはすごく辛そうだった。毎日毎日泣いていて、私はそれを見るのが本当に悲しかった。だから、お母さんを捨てたあの人を、私は一生許せない」
前のあの人とは、時子さんの前夫のことだろう。
コーヒーを一口飲んだ。いつもの味だ。
「お父さんはいい人だと思う。けど、私にとって男の人って前のあの人がどうしてもちらついて、だから未だに信じられない。もちろんお父さんも」
「そうか」
俺はいたたまれず、コーヒーに目線を落とした。ミルクとコーヒーが混ざり合った、柔らかい茶色だ。
「でもね、お兄ちゃんは違うの」
……?
「お兄ちゃんだけはお母さんを……私を裏切ったりしないんじゃないかって」
時子さんが泣いた理由も、夢子が泣いた理由も、俺が他とは違う理由も、何一つ訊くことはしなかった。なぜなら、夢子がそう思ってくれているなら、俺はそれで充分だったからだ。
「でもね、このままじゃいけないことはわかってる。もっとたくさんの人と関わるようになって、これから先も男の人が信じられないから、だなんて理由で乗り切れるわけがないから」
毅然とした態度であった。夢子が夢子たらしめる、とても強い言葉。
「だから、私にどうやってお兄ちゃんが女の人を信じられるようになったのか、教えてほしい」
なるほど。
「俺が女の人を信じられるようになった理由か」
前提がずれている。俺は別に母を嫌ってなどいない。
そして結論から言ってしまえば、俺にそんな理由などない。単純にそうなってしまったのだからもう戻らないという、ぶちまけたミルクがコップに戻らないように、一度壊れてしまえば……零れてしまえば取り返しがつかないのだと、そうケジメを付けただけ。その事実を噛みしめて前を向いただけ。
しかし、この事実を伝えたところで、果たして夢子が前を向くことができるのだろうか。頭のいい妹のことだから、きっと嘘をついてしまえば見破られ俺に寄せるその信用も消えてしまうのかもしれない。だから。
「父さんが、前を向いたんだ。だから俺だけが止まっているわけにはいかないと思った」
そう答えた。
「そっか。……お兄ちゃんらしいね」
夢子は笑った。
「そうだよね。お母さんがお父さんと一緒にいようと前を向いたんだもんね。だったら私が足を引っ張ったらダメだよね」
納得してくれたようだ。夢子は安心したように、甘いコーヒーを飲んだ。
一方で俺は、少しの罪悪感に苛まれていた。なぜなら、この回答は夢子の根本にある「男を信用できない」という問題を解決することはできないからだ。あくまでも新目家にまつわるストレスを解消するためだけの答え。いわばその場しのぎに過ぎない。
しかし、俺が夢子にやってやれることと言えば、その場その場の夢子の小さな願いを聞いて叶えて、それを積み重ねて信頼を得る事だけだ。悩みを丸ごと解消してしまえるような知恵を、俺は持っていない。
だからこの先も、夢子がいつか俺以外の男を信じられるように積み上げていこうと、そう思った。
その後、俺は焼きそば(目玉焼きも乗っていた)にソースをドバドバかけて食べてから少しだけリビングで夢子と話をして、そして自室に戻った
俺は腕立て等の自重トレーニングとストレッチをしてからベッドの中へもぐりこむ。これをするだけで、寝付きが段違いだからだ。
ところで、コーヒーを飲むと夜眠れなくなるという話を聞いたことがあるだろうか。
あれはコーヒーに含まれるカフェインという成分に覚醒作用があるため、それによって脳や体が興奮状態となってしまうためだといわれている。
通常であれば、夜になり暗くなるとメラトニンというホルモンが分泌され体を休息の状態に切り替える。しかし、覚醒調節機構に何らかの異変が起こると、これの分泌量が減ってしまい人は眠たくならないのだとか。
……暗い部屋の中、かすかにドアが開く音が聞こえた気がして、目が覚めた。果たして今は何時だろうか。そう思ってベッドの端に置いてあるはずのスマートフォンに手を伸ばし、ホーム画面を開いた。
午前二時。すっかり深夜である。こんな時間に起きてしまって後悔をしかけたが、考えてみれば今は春休みだ。別に困るようなことはない。すぐに悩みは解消された。
「お兄ちゃん……」
ふてくされたような声。スマホの画面を逆に向けると、そこにはパジャマ姿の夢子が立っていた。ぼんやりとした明かりで、表情はよく見えない。
「どうしたの」
「寝れないよ」
「……うん」
としか言いようがなかった。そういえば夢子は食後にもコーヒーを飲んでいた気がする。
ひとまず部屋の電気をつけてベットに腰を掛けた。その隣に夢子も座る。
「何回かうとうとするタイミングはあったんだけど、なぜかその度に外で犬が吠えたり、時計の音が気になったりして」
あるあるだなぁ、などと浅いことを考えていた。しかしこれが本人となると中々に難しい問題なのも知っている。
「体を温めると眠れるんじゃないか?ホットミルクとか飲むか?」
「うん、飲む」
明らかにいつもよりふてくされている。しかしこれが本来の妹というものなのだろうか。
一度下へ降りて小さな鍋でミルクを沸かし、カップに移してから少し冷まして、そこにまあまあの量の砂糖を入れて部屋に戻った。夢子は変わらず、ベッドに座ってふてくされていた。
カップを手渡すと、夢子は息を数回吹きかけてカップの縁を啜った。啜っただけで、ミルクは口に入っていないように見える。そうか、夢子は猫舌だったのか。
そんなことを考えて、俺はしれっとベッドに横になって布団をかぶった。
「ちょっと。まだ寝れないよ」
「うん。でもお兄ちゃん眠い」
結構頑張ったし、寝ちゃダメですかね。
「……じゃあ一緒に寝る」
夢子が、思わず目が覚めるようなことを言った。
ありがとうございました。
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