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第一章

ブロイデンヴィーユ公国

首都 ノルドハーヴェン

聖暦一六三八年


 一人の少年が宿の窓から真っ青な空を見上げていた。下からは料理の香りが漂い、笑い声も聞こえてきた。少年フリードリヒ・ベルンハルトは小さな溜息をついた。

 (旅に出てもう十年か…母さんたちはどうしているかな…)

 本来なら静かで落ち着いた田舎暮らしが良かったのだが、村を出なければ恐らくリンチされていただろう。

 何故なら彼は転生者だからである。

 転生者とは、「伝統を軽んじ、神の言葉を理解せず、危険な思想を持つ売国奴」として認識されているが、実のところはただ異世界から転生した者たちの事である。彼ら自身には何の罪もないのだが、社会には差別され、教会には異教徒呼ばわりされ、政府には不穏分子扱いされる。現にブロイデンヴィーユでは転生者が民衆に殺されたとしても気にする人は少ないようだ。

 (政府公式で弾圧が行われていないだけでも良しとするか。)

 再度溜息をついた後、フリードリヒは部屋に戻り荷物をまとめ始めた。

 最近のいつ戦争に巻き込まれるか分からない世界情勢に対抗すべく、ブロイデンヴィーユ公国が常備軍の設立を行っているらしい。公国軍の関係者や政府のお偉いさんに見つかる前に首都を出たほうがいい、とフリードリヒは考えたのだ。

 (徴兵されて前線に送られるのはごめんだ。)

 荷物と共に部屋を出て、目の前の廊下を通じて階段の方へと向かった。階段を下りた先には宿の食堂があり、厨房からは鼻歌が聞こえる。

 漂って来る料理の香りから察するに、今日のお昼は美味しそうなスープのようだ。

 少し気になったので、フリードリヒは厨房に顔を出すことにした。厨房の中には宿のオーナーの娘がストーブの前でスープの味見をしていた。娘の表情を見るに、料理には成功したご様子。どうやら彼女はまだフリードリヒがいることに気づいていないようなので、少し驚かすことにした。

 「やあ、エリカ。今日のお昼ご飯はアイントプフかな?」

 急に声を掛けられ、娘は幽霊を見たかのような表情で振り向くが、声の主を見るなり少しは落ち着いた。

 「な…なんだ、フリッツじゃない。驚かさないでよ。」

 「ごめん、ごめん。あまりにもいい香りがしたから、つい…」

 「はぁ、まったく。あ、でもご飯の方は正解!さっき市場でウサギの肉売っていたから入れて見たの。良かったら食べて行かない?」

 「…いくらかかる?」

 「私からのおごり!」

 「やったぜ。」

 そんな会話の中、フリッツの目線が自然と時代外れのストーブの方へ向いた。ストーブの本体は鉄製で、正面には炭や薪を入れる扉があり、スープの入った鍋はその上に置いてあった。見た目からしては、十九世紀半ばのストーブのようだ。本来なら十七世紀前半の世界には存在しないはず。

 (考えてみればこの国ではこういうタイプのストーブが普通みたいだ。子供の頃は気にしてなかったけど、今考えて見ると違和感が半端ないな…)

 恐らく転生者の仕業だろう。

 フリッツは改めて食堂の方へ向かい、エリカは一人分のスープとパンを持ちあとについていった。

 「本当にまた出発するの?せっかく十年ぶりに会えたのに…」

 エリカが少し寂しそうな表情を浮かべた。

 この子はフリッツの同じ村で育った幼馴染である。かなり仲が良かったため、フリッツの現在の状況はすでに察している。

 「首都に来る時は毎回この宿に泊まるから、それで許してよ。」

 そう言いつつ、フリッツはスープの最初の一口を食べてみた。

 「…十年たつと料理も進歩するものなんだな…」

 「そりゃあそうでしょ。ずっと練習していたんだもん。」

 今日は泊まっている客の数が少ないのか、食堂にはフリッツ以外の客は一人なく、それを確認したエリカはフリッツと同席することにした。

 「あ、そうそう。今日軍が初めての大規模軍事演習をやるんだって。」

 それを聞いたフリッツ思わずスープをこぼしそうになった。もう少し気を付けていなければ大惨事になっていただろう。

 「…まじか…」

 新たに入手した情報に対しフリッツは軽く溜息をついた。軍事演習が行われるとなると、逆に街にとどまったほうが徴兵を避けられそうだ。

 「…って、何処でその情報知ったんだ?」

 そう問われたエリカは気軽に「お父さんから!」と答えた。

 (相変わらず物知りだな、あの親父…)

 スープを飲み干したフリッツは、残ったパンをハンカチで包みカバンの中に入れた。

 「やっぱりもう一晩泊まってもいいかな?」

 それを聞いたエリカは少しほっとした表情を浮かべた。

 「わかった!じゃあ荷物は今日まで泊まってた部屋に置いとくね。」

 「それぐらい俺がやるから…」

 「だーめっ!これ一応私の仕事なんだから、黙ってお姉ちゃんにまかせなさい!」

 「はーい。」

 納得した表情を浮かばせたエリカは早速フリッツの荷物をまとめ始めた。その間、フリッツ本人は残り一日をどう過ごそうか悩んでいた。観光をするにしても目立つ観光地はすべて見物済み。他にも別に用はなくただ宿に籠るのもつまらないだろう。

 「やっぱり何か手伝わせろよ。少なくともあと一泊暇だし。」

 それを聞いたエリカは一旦その場で止まり、天井の方を向いた。考え事をする時に彼女がよくやる癖である。

 「そうね…。あ、じゃあちょっと待ってね。」

 そう言い残すとエリカはフリッツの荷物と共に二階へ上がって行った。


 しばらくするとエリカは何やら紙のような物を持って戻って来た。

 「はい、これ今必要な材料のリスト。悪いけど買って来てくれないかな?」

 フリッツはリストを受け取ると一応目を通した。大半はごく普通の調味料などで、所々薬草の名前が書かれており、危ないような怪しい材料などは見当たらなかった。

(良いことだ。)

エリカは度々かなり無鉄砲な行動をすることがある。子供の頃、「自分オリジナルのお薬作ります!」と宣言したら間違って火薬を作ってしまい大事になったこともあった。

 (案の定火薬が誘爆して大火傷したもんな、あいつ。)

 リストを確認し終わると、フリッツは軽く溜息をついた。

 「わかった。金はあとで返してくれるよな?」

 「もちろん!」

 「なら行って来るか。荷物の方はありがとな。」

 「仕事だし礼なんていらないよ。いってらっしゃい。」

 

 フリッツは最後の頼まれた材料をカバンに入れた後、市場を離れることにした。本来なら早めに帰るほうが良いのだが、大規模軍事演習のせいか政府のお役人さんがほとんど見当たらない。少しは寄り道しても大丈夫のようだ。

 (ついでになんか旅に使えそうな物があるか探して見るか。)

 そう思ったフリッツは改めて市場の中へ入って行った。

 個人的に必要だと感じていた物は紙と鉛筆である。宿に戻った後の暇つぶしに使おうと考えた。

 紙はすぐに購入できたが、何故か鉛筆を売っている商人が中々見つからない。時代外れの一品ではあるが購入は可能のはずだ、首都にたどり着く数日前までは持っていたのだから。

 (転んで無くしたのは流石に痛いな。)

 数分後、フリッツは炭でできた代用品を見つけることに成功した。棒の形に固めた炭の周りに木製のカバーを付けた、いわゆるチャコールペンシルである。

 (何も無いよりはましか。)

 そう思いつつ、フリッツの所持していた小銭の何枚かが鉛筆と引き換えに消えてしまった。

 (薬草とかに使った金はエリカが弁償してくれるからいいか。)

 買い物が終わり今度こそ宿に戻ろうとしたその瞬間、誰かがフリッツの袖を軽く引っ張り始めた。驚いて振り向くとそこにはマントを羽織った一人の少年が立っていたのである。腰には短剣(カッツバルゲル)を下げ、頭には帽子をかぶり、足には軍靴を履いている。歳はそれほどとってはないように見えるため、恐らくどこかの貴族か傭兵の子供だろう。

 「すみません。えっと…旅の方ですか?」

 以外と丁寧な言葉使いだ。

 「あ、ああ。そうだけど…」

 「そっか!よかった。あの、エッセルトンという村への道はご存知ですか?」

 「知ってるけど…」

 「よろしければ案内してくれますか?街からはあまり出たことがないので…」

 それを聞いてフリッツは少し考え込んだ。

 エッセルトンとはブロイデンヴィーユの首都ノルドハーヴェンの西に位置する小さな村である。あまり特徴は無いが、首都からは徒歩で三十分位あればたどり着く事ができる。

 (そう言えば首都へ来る途中に通ったな。)

 「いいぜ。付いて来な。」

 「本当ですか?!ありがとうございます!」

 少年は眩しいほど明るい笑顔を見せると、早速フリッツの後を付いて行くことに。

 フリッツは一度ため息をついた後、街の出口へと向かった。特に用があるわけでは無いのだが、少しばかり暇つぶしにはなるだろう。ついでにエッセルトン周辺の景色はなんとなく落ち着くのにもいいかもしれない。

 (まあ、別に何も起こるわけでもあるまいし、買って来た素材も長持ちする物ばかりだし、少し位寄り道してもいいか。)


(…これは流石にしくじったかな。)

 フリッツは目の前の光景を見るなり冷や汗を掻き始めた。その間隣に歩いていた少年は笑顔を浮かべてフリッツを追い越す。

 「いけない!もう始まる!」

 「…これを見に来たんか…」

 ようやく事情を理解したフリッツは深くため息をついた。

 目の前に広がる平原は一面色鮮やかなでうるさい。人や馬の声、ラッパや太鼓の音が響き渡り、様々な色の旗が風で揺れている。

 目の前にいるのは軍事演習中のブロイデンヴィーユ軍である。

 (…これは逃げた方がいいのか?)

 フリッツはチラッと連れの少年を見る。今逃げたとすれば逆に怪しまれる可能性が高い。貴族か傭兵の子供かもしれないこの少年といればむしろ安全だろう。

 (別にこういうのに興味が無いわけではないし、少しばかり見てくか。)

 そう思いつつフリッツは少年の隣に座った。

 二人のいる丘は見晴らしが良く、模擬戦場の全てが目に入る。軍勢は約二つに分断されており、戦場の中央を流れる川を挟んで布陣している。北側には小さな坂があり、頂上には大砲が数門配置され砲台と化していた。

 双方特に動こうとしないため、フリッツは市場で買った紙と鉛筆を取り出し双方の布陣と地形を紙に書き始めた。

 「…何をしているのですか?」

 どうやらフリッツの行動は連れの少年の好奇心に触れたようだ。

 「ん?ああ、少しゲームをしようと思って。」

 「…ゲーム?」

 気になった少年はもう少し近くへよると、フリッツが少年から漂う妙な香りに気付いた。

 (女性用の香水…?)

 フリッツは軽くため息をついた後、仕事にもどった。

 一見演習に参加している部隊は様々に見えたが、他国の軍隊とは異なりある程度の統一性が見られる。歩兵の大半は民間用の服の上からベスト状のギャンベソン と水色のリブリー を着、足には軍靴を、頭には羽飾りの帽子をかぶっていた。見た感じから察するに、帽子の羽の色は連隊ごとに統一されているよう。

 「甲冑を装備してる兵が以外と少ないな…」

 「鉄砲相手に甲冑なんて無意味ですよ。」

 そう少年はフリッツの独り言に返事すると、カバンから小さな望遠鏡を取り出した。軍の将校などが使う望遠鏡で、全長は一尺ぐらいのよう。

 「あ、始まった。」

 突然の無数の発砲音と同時に作業を終えたフリッツは、自分のカバンから双眼鏡を取り出し演習を観察することに。

 「…なんかガバガバだな…」

 演習であるため双方空砲を使用していたが、そのため色々と混乱が発生しているようだった。双方死者が出ないため決着がつかないらしい。

 (まあ、初めての軍事演習だし無理もないか。)

 隣の少年の視線にフリッツが気付いたのはその時である。

 「…どうした?」

 「それ、何ですか?」

 少年はフリッツの双眼鏡に指を指す。

 (ああ、たしか双眼鏡も時代外れか。)

 「あ、これか?これは双眼鏡。二連装の望遠鏡みたいなものさ。」

 「…使ってみてもいいですか?」

 フリッツは軽く頷くと、少年に双眼鏡を渡し、少年はそれを使い演習中の公国軍の観戦を始めた。

 「…視界が広い。これなら戦場の全体像が把握しやすくなりますね。」

 「で、戦況はどうかな?」

 「兵たちの動きがガバガバだ。これじゃあちゃんとした訓練にはならないよ。」

 「なら、もう少し実用的な訓練をしよう。」

 そう言われた少年は気になってフリッツの方へ振り向いた。

 「実用的な訓練?」

 「ああ。クリークシュピール だ。」

 フリッツは先ほどまでうめていた紙を見せた。簡単な演習場の地図が書かれており、その上に公国軍の布陣も書かれていた。

 興味が沸いた少年はフリッツの隣に座り込むとフリッツの解説に熱心に耳を傾けた。

 「まず、北側に布陣している軍を北軍、南側に布陣している軍を南軍と呼称しよう。北軍の戦力は歩兵四個連隊、騎兵一個連隊、野砲六門、その他司令部、補給部隊など。南軍の戦力は歩兵二個連隊、騎兵二個大隊、野砲八門、ロケット砲八門、その他司令部や補給部隊などとなっている。南軍は川の南側に陣取って川沿いに歩兵を、その両翼に騎兵を配置している。野砲やロケット砲はその後ろ、一列に並んでいる。北軍は北東側にある丘に野砲、その西側の麓に歩兵を四角形状に配置している。騎兵はその後ろだ。」

 少年は「ふむふむ」と納得した表情を浮かべると、フリッツは更に続けた。

 「さて、どうやって戦う?」

 「勝利条件は?」

 「戦闘発生の状況によるな…どういうのがいい?」

 「お任せします。」

 「じゃあ遭遇戦にしよう。北軍側ならどう戦う?」

 そう問われた少年は少し考え込んだ。

 「…まず歩兵で川沿いに散兵線を作り、丘の砲台と共に敵の歩兵を削ります。敵が釣られて川を渡ろうとする間、歩兵を丘の上へ引き上げさせます。敵は丘の上の本隊に気を取られている隙に騎兵一個連隊で敵の砲兵を潰します。その後本隊と連動して残存する敵を前後からつぶします。どうでしょう?」

 意外と筋の通っている答えを得たフリッツは少しばかり感心した。

 とは言え、他にも方法がある。

 「敵が囮に釣られなかったらどうする?」

 少年は作戦の欠点を伝えられると、「あっ…」と小さく言った。

 「俺なら騎兵を丘の上に潜め、本隊を大砲諸共撤退させる。何故か分かるかな?」

 フリッツは少々教師面をしてみた。本来なら生徒の思考を誘導して答えへ導くのが物事を教えるにあたって一番有効である。しかし少年の閃きがあったかのような顔から察するに、その必要はなさそうだ。

 「本体を囮にして釣り、大砲を高地から下ろすことであえて敵に隙を与える。明らかに隙が空いていれば敵も囮に引っかかりやすくなる。」

 少年の答えを聞くとフリッツは思わずにやけてしまった。

 「正解だ、()()()()。」

 少年は少々びっくりした表情を浮かべると、軽くため息をついた。

 「どうやって女だってわかったのですか?」

 「香水で。」

 「ああ、なるほど。」

 少女はかぶっていた帽子を外すと、その下から赤髪のポニーテールが姿を現した。エメラルド色の瞳は改めてフリッツの方を向き、唇は軽く微笑んだ。

 「旅人さんはもしかしてどこか遠い異国の軍師だったりします?」

 「まさか。ただの旅人さ。」

 明らかに何か隠していると察した少女は視線を公国軍の演習場へと戻した。

 「…結局決着がつかずに終わったようね。残念だわ。」


 二人が街に戻った時にはもう日が暮れてもおかしくない時刻となっていた。街の門を通ると同時に少女がいきなりフリッツに話しかけてきた。

 「そういえばまだ旅人さんの名前を聞いてなかったわ。さっきまで知人と話すかのように会話していたのにね。」

 少年は先ほどまで外していた帽子をかぶった後フリッツの方を向いた。

 「あたしアンナ。旅人さんは?」

 「フリードリヒ・ベルンハルト。」

 「フリッツでいい?」

 「お好きなように。」

 「首都にはどのぐらいいるの?」

 「さあ、まだ分からないな。短くてあと一日かな?」

 「…そう…」

 アンナはそう聞くと黙り込んでしまった。何か考え事をしているようだが、フリッツは気にせず歩き続け、気が付けばもう宿の前に到着していた。

 「ここに泊まっているのですか?」

 アンナはフリッツの泊まっている宿を指差した。

 「ああ、そうだけど…ダメだったか?」

 「いや、別に…」

 アンナの目が新しいおもちゃを見つけたかのようにキラキラしていたのはフリッツの気のせいだろうか。

 「そろそろあたしも帰ろうかな…」

 クスクスと笑うアンナはなにやら楽しそうな事を思いついたようだ。

 「じゃあフリッツ、()()()。」

 そう言い残すとアンナは夜の街へと消えていった。

 フリッツがアンナの行動を見て寒気がしたのは単なる偶然だろうか。


 とある屋敷の一部屋の窓がそっと開いた。部屋は十二畳ほどの広さで、片隅にはカーテンに覆われているベッドが一つ。反対側には箪笥と本棚、それに机が並んでいる。開いた窓から人影が部屋の中へ入り込んだその時である。

 「また帰りが遅いですよ、姉上。」

 声を掛けられ驚いた侵入者は恐る恐る声の主の方を向いた。

 「えへへへ…ばれちゃった…」

 アンナは苦笑いしながらそういった。その間アンナに声をかけた人物はため息をつきながら姿を現す。

 声の主は十六歳位の少年だった。髪と目の色はアンナと同じく赤とエメラルド色だが、目の下のそばかすが少々目立つ。

 「結局何処に行っていたのですか?父上らが心配していましたよ。」

 少年はそう問う間、アンナは部屋の箪笥へと足を運んだ。

 「もちろんあたしは軍事演習の視察に行っていたけど、ヘルムートは?ちゃんと勉強してた?」

 アンナは上衣を脱いだ後箪笥から別の上衣を取り出した。

 「詩とか絵画とかの勉強だったからあまり集中できなかった。演習の方はどうだった?」

 弟のヘルムートは姉からの質問を回避しつつそう問う。姉の方はその間軍服に着替えていた。

上は白いベストの上に水色のテイルコートと真っ白な軍手。下は赤の一本線が左右の腰から足首まで縫い込まれた水色のズボン。足には真っ黒な革製の軍靴。ズボンは腰回りの革ベルトで止めそこから短剣を下げている。テイルコートには金糸でなぞった紅の袖口と襟。正面には六個の黄銅のボタンが二列、計十二個並び袖口にもボタンが一個ずつ縫われていた。

アンナが着替え終わったその時、部屋のドアを誰かがノックした。姉弟の中で先にドアにたどり着いたのは弟の方である。ドアを開けた先の廊下には使用人らしき人が姉弟を見るなりお辞儀をした。

「失礼いたします、ヘルムート様(プリンツ・ヘルムート)アンナ(プリンツェッシン・)(アンナ)はこちらにおられますか?」

「ああ、姉上なら今着替えて…」

「何の用です?」

使用人はアンナが部屋にいることに気付くと改めてお辞儀をした。

「はい、姫様。公王陛下がお呼びでございます。姫様直属の民兵部隊(ラントヴェーア )の件でお話があると…」

アンナは軽くため息をつく。

「わかりました。今から向かうと父上に伝えてください。」

「承知いたしました。」

使用人はもう一度お辞儀をすると廊下の奥へと歩いて行った。

 「ああ、面倒くさいな…あたし個人のお金から武具を集める資金を出したってばれたのかも…」

 「姉上が親衛隊への予算を民兵部隊設立などに使うからですよ。」

 ヘルムートは箪笥の上に置いてあった赤い羽根飾りの付いた黒い三角帽子を手に取り、アンナに渡した。

 「はい、忘れ物。」

 「ん?あぁ、ありがとう。」

 アンナは渡された帽子を受け取ると真っ先に被り箪笥の中にあった鏡で帽子の角度を確認した。

 「とりあえずこれでいいか。」

 「姉上、早く行かないと父上に怒られますよ。」

 ヘルムートはすでに廊下の中で待っているようだ。

 「わかってる。行きましょう。」

 そう弟に告げると、ブロイデンヴィーユ公王の娘アンナ・ソフィア・フォン・ブロイデンヴィーユ姫は忘れ物がないか確認した後部屋を出た。


 この娘が後に世界史を揺るがす大帝国の覇者となるのだが、それはまだ先の話。今まさに運命への第一歩を踏み出したばかりである。

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