秘密
「茜」
今まで黙っていた主音が急に口を開いた。
「俺はどうしてお前がそんなにも桜を嫌うのか気になっていた。視界にも入れたくないなんて相当だと思ったし、本当はずっと理由を聞きたかった。でも聞けなかった。人には知られたくないことの一つや二つあるものだし、学校でも言ったように個人の好き嫌いを誰かが決めつけるのも好きじゃない。でも、今お前は俺に桜が嫌いな本当の理由を教えてくれた」
主音は桜から目を離して僕を見た。
「だから、俺も俺の秘密を一つ話すよ」
「え?」
困惑されるか、同情されるか。
そのどちらかだろうと思っていた僕は驚いた。
「俺はこの桜に呼ばれてきたんだ」
桜の幹に手を添えながら主音は言った。
「は?」
僕の口から気の抜けた声がもれた。
「俺は昔から普通の人が聞こえない声が聞こえる。植物の言葉が分かるんだ」
「…なんの冗談だ」
「冗談じゃない。そういう反応を絶対されるから今まで誰にも言わなかった」
主音は溜息をついた。
「実際に声が聞こえるわけじゃない。ただ自分の中に言葉が沸き上がってくるんだ。唐突に涌き出てくる時もあれば集中してやっと分かることもある」
「お前、大丈夫か…?」
植物の声が聞こえる?他の人には聞こえない声?
ただの冗談なのか、それとも精神を病んでいるのか…?
急に主音が心配になった。
…確かに主音には独特の雰囲気があった。人の輪の中にいてもどこか彼だけ特別で少し異端だった。集団では多かれ少なかれ個性は埋没していくものだ。それでも彼は決してその集団と同じものにはならなかった。どうしてか分からないけれど、彼はどこにいても「主音」という唯一人の存在だった。
ー決して他の誰かにはなり得ない。
(その理由がこの秘密だとしたら…)
「お前たちからしたら俺はおかしいのかもな」
主音は静かに言った。その声には怒りも諦観も何もなかった。
いつも通りの「主音」の声だった。
「でもそれが俺の日常だ。霊感のある人が他の人間には見えないものが見えるように、俺には声が聞こえる。声のない声が。誰にも届かない言葉が、聞こえるんだ」
桜は舞っていた。
「植物だけじゃない。人の心も強い感情なら分かる時があるよ。…家族以外で他人に話すのはお前が初めてだ」
主音は小さく笑った。
「言葉が聞こえたんだ。声のない声が。よく聞いてみるとこの桜の声だってことが分かった。哀しみが、伝わってきた」
主音は桜の幹に触れた。錯覚だろうか。花びらが一層舞い散った気がした。風もないのに変わらず花びらは舞い続けている。
「3日前と8日前にも同じ言葉が聞こえた」
「3日前と8日前…」
僕は呆然とした。桜が咲くこの季節は特に情緒不安定になる。最近は夜中に目が覚めることが多かった。そういう時は決まって今日のように一人で桜を見にやってきていた。3日前もそうだったし、確か1週間ほど前も僕はここに来た。
「あんまりにも悲しそうだったから、今日初めてここまで来たんだ。どうしてこの桜はこんなにも悲しんでいるんだろうって」
「な、んで。悲しんでいるんだ」
意識せず声が震えた。
分からないのか、と主音は言った。
「お前が悲しんでいるからだろ」
主音の声は寂しい夜の空き地に静かに響いた。
「目の前でお前が悲しんでいるのに何もできない。応えたくても応えてやれない。声を掛けることも慰めることすら出来ない。その無力さが、哀しみがお前に分かるか?」
「あ……」
「桜はお前たちが思っている以上に繊細で優しい生きものなんだよ。人の感情、他者の気持ちに影響を受けすぎる」
主音は手のひらを上にして桜を見上げた。桜の花びらは主音の手のひらを掠めて地上へと落ちていく。
「だから主音は桜に群がる人間が嫌いなのか…?」
主音はうなずいた。
「賞賛、歓喜、陶酔。人間のそういった感情は桜だって嫌いじゃない。むしろその気持ちに応えようとあんなにも艶やかに花を咲かせてくれる。けど人間もそういった正の感情ばかりある訳でもないだろ。寂しい顔をしている人間がいれば気にかかるし、人間同士の喧嘩でもあれば桜も同じように傷ついている。根元にゴミを撒き散らされたり、枝をへし折られたり、勝手に人の都合で植え替えられて、今までいた場所と別れなければいけない時もある」
それでも桜はいつもそこに在る。
ただ黙って満開の花を咲かせてくれる。
「お前たちは知らない。何十年、何百年、桜がどれだけ長い間、俺たちを見守ってきてくれたか。どれだけ人間を気にかけてくれたか。どれだけ人間の蛮行に心を痛めてきたか」
――お前たちは知ろうともしない。
人間を責めているはずの声は何故か優しかった。
「桜が、どれだけ俺たちのことを愛してくれたか」
月の光がうっすらと主音と桜の木を照らしていた。暗闇に淡く浮かび上がるその光景はどこか現実味がなくて、神々しくて、美しかった。今まで見てきたどんな桜よりも。あの日見た、魔が潜んでいそうなくらい綺麗だった桜よりも。ずっと。美しかった。
そして、主音はぽつりと言った。
「本当に綺麗なものには、人はなかなか近寄れないものだ」
学校で主音が言いかけた言葉。
それはこの言葉だったのかもしれないと僕は思った。
桜の痛みを知る主音だからこそ、言える言葉。
「桜は、なんて言ってるんだ。…僕に何か言っているのか」
震える声で僕は聞いた。
ずっと聞きたかった。
僕が勝手に理不尽の象徴として忌み嫌ってしまったものの声を。
ずっと応えて欲しかった。
あの時、新を連れて行ってしまったものの言葉を。
助けられなくて、ごめんなさい。
主音の言葉が耳に届いた瞬間、桜が一層と舞った。
淡く、柔らかく。
言葉にできない想いを乗せるかのように。花びらは舞う。
僕の頬を涙が伝った。
「……う、うう…うぁああああああ」
自分でも訳の分からない感情が込み上げてきた。
後から後から涙は溢れてくる。
主音の言葉が果たして真実なのか、それとも彼の創作なのか。
僕には分からない。
分からなくても構わない。
そんなものはもうどうでもいい。
確かに今、僕は桜の声を聴いた。
言葉が届いた。そう感じたのだ。
悲しんでいたのは僕だけじゃなかった。
苦しんでいたのも悔やんでいたのも僕だけじゃなかった。
桜の幹に触れ、腕を回す。
「ああああ…、うああああああああ」
桜を抱きしめながら僕は泣いた。
新はもう戻ってこない。二度と会えない。
もう言葉は届かないし一緒に遊ぶこともできない。
理不尽で、許せなくて、辛い。
きっと一生、桜を見るたびに思い出す。
それでも。それは僕だけの悲しみじゃなかった。
分かっていた。本当は分かっていた。
新の家族。親戚に友達。警察。
辛いのも、悲しいのも、やりきれないのも僕一人だけじゃない。
皆、理不尽なあの事件を抱えながら、生きている。
分かっていた。
「ううっ…うっ」
桜を見るのが辛かった。
嫌でも君を思い出す。
この世の残酷さと理不尽さを突き付けられる。
自分がしてしまったことの重さを思い知らされる。
涙でぼやけた視界に淡い色の花びらが映った。
桜も悲しんでいたのだ。
もしかしたら、声なき声で僕たちの何倍もやりきれない想いを叫んでいたかもしれない。
花びらは舞っていた。
ひらり。ひらり。
あんなにも、見るのも耐えられないと思っていた桜の花びらが、まるで誰かの流した涙のように感じられた。
「茜。桜は繋がっているんだ。俺たち人間が情報を共有するように、桜も情報を共有している。だから…」
「ああ。分かってる。…桜の気持ちも、やりきれなさも。僕は、きっと誰より分かる」
嗚咽を押し殺しながら、僕はそう答えた。
「主音、先に帰っていてくれないか。……もう、大丈夫だから」
「…分かった。お前がそうして欲しいのなら」
主音は全てを悟ったかのように笑って言ってくれた。
「…ありがとう」
「うん。じゃあな」
主音は踵を返し、公園を出て行った。足音が遠ざかっていく。
足音が聞こえなくなって、主音がいなくなった後も桜はずっと舞い続けていた。
はらはらと。ひらりひらりと桜は舞う。
「お前も…悲しかったんだな。ずっと『もの』だと思っていて、ごめん」
――桜が、どれだけ俺たちのことを愛してくれたか。
「ごめんな…」
幹に触れる。この木は確かに生きている。
白いものはひらひらと舞い、僕に答えをくれる。
僕は溢れてくる涙をぬぐった。
「なあ。新は、今…どうしてるんだろうな」
桜を見上げて僕は言った。
そして月が傾くまで、僕は桜と一緒に泣き続けた。