忘れられない記憶
ちょうど季節は今と同じ。
春の盛り。
桜は今が時だとばかりに、一斉に咲き誇っていた。
「茜!ほらこっちだ」
「待てよ。新」
少年が桜並木の中を駆けていく。
九条新は、桜が好きだった。
茶色に近い髪をなびかせて、桜の木々の中を意気揚々と走り抜けていく。髪や肌。新は全体的な色素が薄く、ほっそりとした体躯をしていた。
まるで女の子のようだと周囲にからかわれては、そのたびに新は持ち前の頭の良さで言い返していた。僕もよく女のような名前だとからかわれていたから、自然と僕たちは仲良くなった。
中学が始まって数日経った頃、新は僕に言った。
「茜。週末桜を見に行かないか。お前も好きだろ?」
「え、いいな!」
僕は新の急な誘いに興奮を隠せなかった。
「ちょうど今見ごろだもんな。せっかくだし桜の名所まで見に行くか?」
僕らが住んでいる街にも勿論桜は咲いているが、電車で四十分ほどかかる場所に全国でも有数の桜の名所があった。家族で一度だけ行ったことがあるが、百種類を超える数千本の桜並木があり、夜には建物から吊り下げられた数十もの灯篭の明かりが一斉に灯る。仄かな灯りに照らされた数多の桜達は幻想的な色合いを見せ、現実を忘れられるほどの美しさがそこにはあった。
「俺はそこに行ったことがないんだけど。でも、きっと綺麗なんだろうな」
「ああ。すごく綺麗だったよ」
僕は太鼓判を押した。
本当に別の世界に紛れ込んでしまったのではないかと思った。それぐらい非現実的に美しかったのだ。周囲の大人たちも圧倒されてただただ桜を見ていた。
「へえ。言葉を忘れるくらいにか。いいな。そこに行こう、茜」
「ああ。親に言うとついてくるって言いそうだから、昼間に二人で行こう」
「オーケー。俺も道順調べとくよ」
新は笑って言った。
子供だけで遠くまで行くことはあまりなかったが、新と一緒なら不思議と大丈夫な気がした。僕から見ても新は同世代の誰より大人びていて賢かったから。
週末の天気は快晴だった。春の空。太陽の光がさんさんと降り注ぎ、心地よい風が吹いていた。
「あと二駅だ」
「うん。楽しみだな!」
僕たちは普段乗らない電車に乗り込み、窓から見える建物や学校の友達の話をしながら目的の場所に着くのをわくわくしながら待っていた。普段の自分たちの生活圏内から外に出た高揚感が僕たちを包んでいた。
「もう中学生なんだよなあ」
「なんだよ。しみじみと」
新の言葉に対して僕は茶化すように言った。
「いや。嬉しいなって思って。子供だとできないことっていっぱいあるだろ?」
「例えば、遠くの桜を自分たちだけで見に行ったり?」
僕はにやりと笑って言った。
「ああ。それもそうだ」
新はそれを思い出したように笑って言葉を続けた。
「それもあるし、単純にできることが増えてく。誰かが辛い時、自分にできることが増えてれば、選択肢も増えるだろ。それが嬉しいんだ。守られる側じゃなくて、守る側にも立てるようになる」
新は言った。中学生に似合わない大人びた表情だった。
前にちらっと聞いたが、新の両親はあまり仲が良くないらしい。新は決して家族の悪口を言うことはなかった。それでもなんとなく家庭が上手くいってないことは察せられた。
「お前は偉いなあ」
「偉くはないよ。結局今できることは少ないし」
「いや、偉いよ。…なあ、来年は美和ちゃんも一緒に桜を見に行かないか?」
「え」
新には二つ下の妹がいた。今は小学五年生で新によく懐いている可愛い子だった。
「いいのか」
「ああ。新の両親の許可が取れればだけど」
新が一緒とは言え、さすがに新の妹を両親の許可なく出かけさせて、後で二人が怒られたりしたら嫌だった。
「美和も喜ぶよ。ありがとう。茜」
「うん。来年が楽しみだな」
僕はそう言いながら、窓の外の景色を眺めた。建物はだんだんと減っていき、美しい緑が多く目に映るようになっていた。目的地まではもうすぐだった。
この時まで僕は来年も再来年も、新と一緒に桜を見に行けると信じていた。信じていたんだ。何の疑いもなく。
「うわっすごいな」
「……」
目的の場所に辿り着くと視界一杯の桜達が僕らを迎えてくれた。
真っ白な花をつける山桜、淡紅色のソメイヨシノ、薄い紫を帯びた花びらの陽光桜。他にも詳しい名前は知らないけど、八重咲の桜や枝垂れ桜など、さまざまな品種の桜が一斉に咲き誇っている。
「綺麗だ…」
主音は目の前の光景に圧倒されたように言葉少なく感動していた。
「だろ?夜も幻想的で綺麗だったよ」
ゆっくりと歩きながら、頭上の桜を見つつ僕は得意げに言った。
「そうか…確か夜は灯篭の明かりが灯るんだっけ。綺麗だろうなあ」
新は目を細めて言った。その視線は斜め上の桜から離れない。
僕たちはしばらく歩きながら周囲の桜を見ていた。どの桜もそれぞれ色や形が違って目を奪われた。
「あ!あの桜珍しいな!茜行こう」
新は気になる桜を見つけたらしく、桜並木の奥を指さし走り出した。
「あ、待てよ新」
新は足が速い。別の方角の桜を見ていた僕が振り返ったとき、新はもう走りだしていて随分先へと行っていた。その背中に向かって声を掛けたが、新は止まらずにどんどんと先に行ってしまう。
「わっ」
新を追いかけようと走り出したところで急に強い風が吹いた。思わず足を止めた僕の周りに白い花びらがひらひらと舞い降りる。上を見上げると一本のソメイヨシノが立っていた。周りの桜より格段に幹が太く、枝も多い。立派な桜だ。白に近い淡い色の桜が数えきれないほど枝に沿って咲いている。その花が風に揺れて、ひらひらと花びらを散らしていた。
はらりはらり。ひらりひらり。
風に舞う花びら。満開の淡い花。
なんて綺麗なんだろう。
美しいものにはそれだけ魔力がある。
圧倒的な力で人間の心を揺さぶり支配する。
僕は桜から目が離せなかった。足が地面に縫い留められたように動かない。
……………………。…………。…………。
しばらくして、ようやく足が動いた。桜に「もう動いてもいいぞ」と命令されたかのように、急に体と思考が動き出す。
(そうだ、新を追いかけないと…)
友達の存在を思い出し、僕は再び走り出した。沢山の桜の木が四方八方に立ち並び、まるで僕を監視するかのようにただこちらを見ていた。
「……新?おーい新!」
新が指していた場所につき、辺りを見回してみたが、新はどこにもいなかった。人はまばらだが桜の木々が立ち並び、視界を遮る。
「新!どこだー?」
僕は歩きながら、桜の木の裏に新がいないかを確かめて回った。
「もっと奥まで行ったのかな」
新は協調性があるやつで、めったに自分勝手な行動をしない。一声もかけずに遠くに行ってしまうなんて珍しい。それともそれだけ桜に夢中になってしまったのだろうか。
(確かに綺麗だもんな…)
自分自身もさっき、あまりに美しい桜に捕まってしまった。歩いていてもついつい頭上の美しいものに目を奪われてしまう。白に近い花が大量に咲き、まるで本当に何かの魔力でも秘めているかのようだ。僕はそう思いながら、新を探し続けた。