月明かりの下で
夜の道を歩いて十五分ほど。誰もないない空き地で僕は足を止めた。
月明りに守られるように、そこに桜はあった。
どんなものにも表と裏、昼には昼の夜には夜の顔がある。
夜に見る桜は普段昼間に見る桜と比べてどこか物悲しく、神秘的にさえ見える。
夜を照らす月の光が原因かもしれない。
「……」
桜の木の下まで来て、僕は桜をじっと見上げた。夜の闇に浮かび上がるように桜はただ咲いている。
……別に桜自体は嫌いじゃない。
むしろこんなに綺麗な花は他にはないと思う。
一歩。さらに近寄って僕は桜の木に触れた。
ざらざらとした濃い茶色の幹。生命の色。
生きている感触がした。
「お前は僕を笑っているのか?」
ぽつりと僕は言った。
桜は答えない。当然だ。
「悲しんでいるのか?」
深夜に一人。
桜に話しかけているなんて、はたから見たら不審人物確定の行為だ。僕が僕のようなことをしている人を見たら確実に危ない人間だと思って距離を置く。
それでも僕は桜に聞かずにはいられなかった。
「なあ、答えてくれよ」
(頼むから…)
「どうなんだよっ!」
(応えてくれ…)
声を荒げても桜は表情一つ変えてはくれない。
「どうして…なんでっあの時あいつを連れて行ったんだ!」
僕は叫んだ。何年も心の底から言いたかったことを桜にぶつけた。
その時。ふわりと桜が舞った。
「……え?」
正確に言うと風もないのに桜の枝が揺れて、沢山の花びらがひらひらと舞い降りたのだ。
ひらりひらり。
花びらが舞う。
視界が淡い色の風で染まる。まるでさっきみた夢の中のように。
「……」
美しかった。
桜が僕の言葉に応えてくれたと信じてしまうほどに。
もう一度、桜に触れようと僕は手を伸ばした。
「茜…?」
無人のはずの空き地で声がした。
伸ばされた手と僕の心臓が一瞬止まった。
声のした方を振りかえってみると、そこには私服姿の主音がいた。
「お前、なんでっ、ここに」
「言っただろ。人が群がっているのが嫌だって」
動揺している僕とは対照的に、主音はいつも通り落ち着いていた。まるでさも当然のように、すたすたとこちらに歩いてきて、僕の前に立つ。
「お前も花見か?桜は嫌いじゃなかったっけ」
「……」
どうして、ここに。なんで、お前が。いつから居たのか。
ぐるぐると頭の中が靄で覆われていき、僕は何を言うべきか迷った。
「綺麗だな…」
動揺して返事ができない僕を気にもせず、桜を見上げながら主音は言った。
それに合わせて僕も桜に視線を戻す。
花びらは舞い続けていた。
夜の密やかな月明りの下でひらひらと舞う桜。
それをただ見つめている僕ら。
今だけ、世界は閉ざされていた。
「……。そうだな」
「ん?」
「桜。…綺麗だよな」
観念したように言うと、視界の端で主音がうっすらと微笑んだのが分かった。
ひらり。ひらり。
花びらは舞う。
憐れんでいるようにも、悲しんでいるようにも見える。
「僕も子供の頃は好きだったんだ」
ぼつりと言った言葉は、主音に向けて言った言葉なのか、桜に向けた言葉なのか僕にも分からなかった。
数年前まで、目の前にある淡く美しいこの花が好きだった。
本当に大好きだった。
「なんで今は嫌いなんだ?」
主音の声は優しかった。
「桜は、」
今なら全てが許される気がした。
僕は誰にも言ったことのない「理由」を口にした。
「桜は僕の大事な友達を連れて行ってしまったから」
「……」
主音が目を見開いてこちらを見た。
「友達がいたんだ。そいつは明るくて優しくて、子供だった僕たちの中で誰より大人びていた。頭が良くて、人の心に敏感な奴だったんだ。いじめにあっている奴を誰よりもまっ先に助けたり、誰も気づいてないような人の悩みを察して話を聞いてやったり。正直今の僕よりも子供だったあいつの方が大人だったと思う」
―――そんな奴だったから、一緒にいるのが楽しかった。
僕は淡々と話し始めた。
「中学一年の時、そいつと桜を見に行ったんだ。僕は桜が好きだったし、そいつも桜が好きだったから」
僕は桜を見上げた。
それに呼応するかのように、桜は花びらを散らせ、微かに揺れていた。