僕と桜
僕は桜がきらいだ。
あの薄紅色の花も、儚く散ってゆく花びらも何もかもが嫌いだ。
風になびき、ひらりひらりと踊るようにそれは舞う。
薄紅色の淡い花びらが数枚目の前を横切る。
何度も言うが僕は桜がきらいだ。
桜を連想するようなことも嫌いだし、実際に実物を見ることはもっと嫌いだ。そんな僕は今暗澹たる気持ちで、道を歩いていた。
「見て!すごい桜きれいー!」
「本当だ。写真撮ろう!」
「撮ろう!撮ろう!本当に綺麗だね」
季節は春。
4月に入ったばかりのこの季節、あちこちで桜を見かける。
満開の桜。ソメイヨシノ。白に近い花。ひらひらと舞う花びら。
僕が通う城中高校への通学路では校門から二十メートルほど前の路まで桜が沢山植わっており、今の季節はその桜達が一斉に花開く。目の前の女子達が、朝からテンションを上げて咲き誇っている花の写真を撮っている。
(朝からうるさいな…)
女子達の朝から元気な声を心底鬱陶しく思いながら、なるべくそれらを視界に入れないように僕はその横を無言で通り過ぎた。
それでも桜の花びらは視界の端でひらひらと舞っている。
桜並木を何とか平常心で歩ききり、校門をやっとの思いでくぐった。
靴箱の前で「遠野茜」と書かれたロッカーから上履きを取り出し、靴を履き替える。そのまま階段を上り、自分の教室に辿り着いた。
たったそれだけ。いつものなんてことのない日常の一コマ。それだけのことで、朝から千里を歩いたような気持ちになる。
2年A組の教室のドアを開けると、2人の男子生徒が僕に声を掛けてきた。
高須健斗と主音零夜だ。
高須は背が高く、陸上部に所属しており、日に焼けた健康的な外見をしている。対する主音の方は、中背中肉であり高須と違って部活には所属しておらず白い肌をしているが、醸し出す雰囲気のせいか全く脆弱さを感じられない奴だった。高校に入学してクラスが一緒なってから、比較的この二人とはよく話をするようになった。
「おはよ茜」
「おはよう遠野」
高須と主音。2人はほぼ同時に言った。
「ああ。…はよ」
「なんだ。機嫌悪そうだな」主音が驚いたように言った。
「こいつ去年もこの時期そうだったんだ。花粉症か?」
高須が面白そうに聞いてくる。
「違う」
僕は不愛想に答えた。
「茜は情緒不安定らしい」
高須はやれやれという表情を浮かべて言った。
「春だからな」
主音も納得したようにそう言ったが、それは当たらずも遠からずだった。
「ただの寝不足だよ。もういいだろ、HR始まるから席に着こうぜ」
僕は自分の席に鞄を置きながら右手で二人を追い払う仕草をした。
「はいはい」
「じゃあな」
二人は大して気分を害した様子もなく、それぞれの自分の席に戻っていった。
「朝礼始めるぞー」
一息つく間もなく担任の教師が間延びした声を上げながら教室に入ってきた。僕は溜息をつきながら鞄から教科書類を取り出して机の中に押し込んだ。
「お前、桜が嫌いなのか」
朝のHRが終わり、三限目の数学の授業が終わった時。
短い休憩中に窓際の僕の席までやってきて、主音零夜はいきなり言った。
この『主音』という友人は名前自体も変わっているが、中身も負けず劣らず個性的な人間だった。中学からの仲の高須とは違い、主音は高校に上がってから出来た友達で、彼についてはまだ知らないことが多い。
主音は独特の価値観を持っていて、いつも落ち着いている。そのせいかよく知らないものにはもの静かな印象を与えるが、決して大人しいわけではなく、全てのものに物怖じというものをしなかった。先生とも敬語では話しているが対等のように話をしているし、僕はこれまで主音が慌てふためいているところを一度も見たことがない。去年のクラスでも彼はその雰囲気と独特の気性で同級生の中でも一目置かれる存在だった。そして、妙に勘が鋭い。
「何でそう思った?」
僕は主音に聞き返した。
「お前窓から外を見ている時、よく眉間に皺が寄ってる。いつからそうだったかと思ったけど、桜が咲く前は特にそうじゃなかった。あと帰る時正門からじゃなくて、わざわざ裏門から帰っているだろ。あれも正門からだと桜並木を通らないといけないからじゃないか」
「………」
「最近朝も不機嫌なのは、桜が咲いているから。違うか?」
授業中、ふと窓の外を見れば校庭に咲いた桜が嫌でも目に入る。正門を通らず裏門から帰るのも同じ理由だった。朝だけは時間がないから正門から通ってはいるけれど、時間に余裕がある時はわざわざ遠回りをして正門を避けて裏門から校舎に入ることもあった。
それも全て桜を視界に入れたくないからだった。
「…正解」
僕はしぶしぶと答えた。
「何で?」
主音はすかさず聞いてくる。
「いいだろ。別に」
回答に対する理由はあったが、それを誰かに話す気はおきなかった。余計な詮索はされたくない。そもそもその「理由」を上手く話せる自信もなかった。
その代わりに質問をした。ふと聞いてみたくなったのだ。
「主音、お前は桜が好きか?」
「俺か?俺は桜が好きだよ。桜に群がる人間は嫌いだけど」
「ふっ、はは。人間は嫌いなんだ」
相変わらず独特なものの考え方だ。主音の言葉を聞いて今日初めて僕は笑った。
「桜に魅せられる気持ちは分かるけどな」
主音はふっと遠い目をして言った。
「……僕はそうは思わない」
主音の言葉につられるように、思わず桜を連想した僕は言った。
「そうか…。いいんじゃないか」
「え?」
僕は驚いた声を出した。
「人と同じものを必ずしも好きになる必要はないだろ。何が好きで何が嫌いか、それは個人がそれぞれ決めるものだ。どうしてだかこの国は、数が多い「好き」なものが「正しい」みたいな風潮があるけど、それが必ずしも「正しい」とは限らない。それにそもそも他人に強要するものでもない」
主音はごく当たり前のように言った。
「案外、個々の「嫌い」なものには寛容になれても、「好き」なものには寛容になれないことってあるしな」
どうして、こんなにも綺麗なものを好きではないのか。
どうして、これだけ人から好かれているものを、見るのも厭うくらい嫌うのか。
非難される、理由を聞かれると思っていた僕は言葉を失った。
「それに…」
「それに?」
主音は何かを言いかけて言葉を飲み込んだ。
「いや、何でもない」
主音は微かな笑みを浮かべて僕の席を離れていった。