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2回目

 結果から言うと、お袋の実家にやって来てから3日間何もなかった。

 いつものように畳の上でゴロゴロしていた。

 スマホのゲームもスタミナを使い切り、勉強もやる気が起きない。

 一度やる気がなくなると、その気は二度と起きることはない。


健吾けんごー? 起きてる? 健吾けんごー!」


 お袋の声が聞こえるとその理由が大体わかってきた。この3日、この時間に呼ばれるのは買い物の為だ。

 バスに乗って駅近くにあるスーパーに行かされるのだ。

 面倒だが、断ると夕食のおかずが無くなる。俺だけが。

 憂鬱な気分で1階に下りるとやはり買い物だった。


「何で毎日毎日、俺が買い物へ行かなくちゃならないんだよ」

「何言っているの、そっちが言い出したんでしょ? 買い物を任せて欲しいって」


 そうだっただろうか、あまり覚えていないがそんな事を言ったかもしれない。

 断れる雰囲気でもないので、メモをするためにスマホを出してメモアプリを起動する。


8月14日

・いつもの時間、いつもの場所で彼女と待ち合わせ


 すでにメモが記入されていた。

 何のことか思い出せないが、確かにこんなメモをした覚えがあった。

 これは買い物を指したメモのはずだが、何故わざわざメモを残したのか、それは思い出せなかった。


―――


 空は晴れ渡り、頭上から太陽が照りつけ、行く道のアスファルトを焦がしている。微かに陽炎が見えた。田舎とはいえ年々、気温が上がっている。

 汗がじっとりと滲み、着ているTシャツもべとべとしてくる。最低でも日差しを防げる日陰が欲しい。

 家を出て10分、いつものバス停が見えてくる。

 「北山田」と書かれた錆びかけの丸い標識が見えてくる。

 そこには先客がいた。

 まず、目に付くのは総白髪のセミロング。次に黒い衣類。

 儚げな表情を浮かべる美少女。実に俺好みなのだが、総白髪というのは気合が入りすぎている。髪の根本に黒い部分が見えない。全くの白だ。正直、あまりお近づきになりたくない。

 俺は彼女から離れるように、ベンチの隅に座る。


「初めまして!」


 俺に気が付いたのか、美少女がこちらに寄ってくる。

 纏う雰囲気とは全く違う勢いの元気な挨拶に、面食らってしまった。


「は、初めまして……」


 その言葉を聞いたのか、彼女は矢継ぎ早で言葉を繰り出してくる。


「私は矢国やくに 澄子とうこ、7月10日生まれのかに座! 今は高校2年生。健吾くん、3日ぶりに会えたね」


 初めてから始まって、また会えたと締めくくるのはおかしいと感じつつも、自己紹介を返す。


「俺は山本やまもと 健吾けんご、高校1年……どこかで会いましたか?」

「そっか、やっぱり忘れてるんだね」


 俺には彼女の言葉の意味が分からなかったが、先程までの元気な笑顔が再び儚げなものになったように感じた。俺にはその表情を晴らすことは出来そうにない。その理由がいまいち分からない。


「実は私たち、一度会っているの。その時に健吾くんと約束したの」


 彼女の大人びて悪戯をした子供に笑ったような顔が俺の近距離まで近づいていた。


「何でもしてあげるって……」


 耳元で囁かれた言葉についドキドキしてしまう。

 「何でも」ということは、文字通り何でもしてくれる。言うがままにしてくれるということだ。

 あんなことや、こんなこと、子供のお願いから、大人のお願いと何でもありなのだ。


「何でも?」

「何でもよ」


 この目の前で薄く微笑む魅力的過ぎる女性に何でも……。

 思わず、息を飲む。

 何処までなら、いいのか。あまりハードルが高いと相手にドン引きされるだろうし、行き過ぎると警察に通報されはしないだろうか。

 「何でも」という甘美な響きが俺の思考力を鈍らせていた。普通に考えれば犯罪行為なのではないだろうか


「早口で『バス、ガス、爆発』と、3回言ってみて」

「バス、ガス、爆発。バスガス爆発、ばすがしゅばくはちゅ」


 言い切れなかった彼女は平静を保ちつつも口元を引きつらせて我慢していた。

 その様子が可愛かった。控えめに言って最高だった。少し朱が混じってきた頬を見ると、最高に可愛かった。

 良く分からないお願いをした俺は最高に冴えていた。


「こんなことでよかったの?」


 もっと色々とやって欲しいことはあっても、合法と犯罪の線引きができない。

 こう、胸をもませて欲しいとか……あ、ささやか過ぎる胸ではそれは可愛そうか。

 お願いを決められないのなら、他人に委ねてしまうのも、方法の一つかもしれない。


「逆に、矢国さんは……」

「澄子」

「……澄子さんは」

「澄子」

「澄子は何をしたい?」


 勢いで下の名前を呼び捨てにされてしまった。意外と強引なところがあるが、今更な感じがする。


「そうね……キスとか、してみる?」


 いきなりのことに頭がついていかない。

 今日であった女子に何でもしてあげると言われ、今はキスをねだられている。そんな事が許されていいのだろうか。


「キキキ、キスですか?」

「そう、キスよ。口と口でする大人のキス」


「キ、キスは、ファーストキッスは、もっとお互いを知ってからじゃないですか? こんな行きずりでするものじゃなくて、もっと心通わせた同士がするものであって……」

「乙女かな?」


 キスはあまりにもハードルが高い。たとえるなら、棒高跳びで棒を持たずに挑むくらいハードルが高い。


「うそうそ。本当は一緒に遊んで欲しいだけ」

「遊ぶ?」

「うん。この近くに公園があるの。一緒に行こう?」


 遊びたいのか。俺も彼女と遊びたい。それくらいなら、許されると思う。

 だけど、この付近に公園なんてあるのだろうか。


「ねぇ、付いて来て」


 彼女に従い、バス停の向かい側にある林へと進んでいく。

 その途中、白髪交じりで背が曲がったお婆さん杖を突いて歩いていた。


「こんにちは。お婆さん」

「珍しいねぇ、真っ白な髪なんてねぇ」

「よく言われます」


 挨拶に対して若干無礼な返しをした老婆だったが、彼女は嫌な顔もせずにニコニコしながら相手をしていた。

 器の小さな俺なら、絶対に相手にしない。元々、挨拶なんてしない。


「さ、こっちこっち。公園はもうすぐだから」


 彼女の先導から2分、小さな公園に到着していた。

 公園と言ったら、広いスペースに中央に噴水、周りにベンチが並ぶ大人のデートコースだと思っていた。まさか、こんな子供の公園に招待されるとは思っていなかった。

 さび付いたフェンスと生い茂る雑草が公園を囲み、公園自体にも雑草がぽつぽつと生えている。全く手入れされていないことがうかがい知れる。

 遊具は滑り台とブランコのみ。昨今の危機管理から公園から多くの遊具が消えたが、この公園は元々この程度の遊具しかなかっただろう。


「あ、遊びましょ」

「何して遊ぶんだよ」

「こうして遊ぶに決まってるでしょ!」


 そう言った彼女は塗装が剥げて誰も使わなくなった滑り台に上っていく。所々さび付いていて、彼女の黒い服に錆が付かないか心配になる。


「じゃあ、行くね!」


 元気に片手を上げた彼女はおもむろに滑り台を滑る。

 当然膝が立ち、少し股を広げた格好になる。それは、つまるところ、スカートの中がうかがい知れるぎりぎりのところで、その様子から目が離せない。

 すべり終えた彼女はこちらの視線に気付いたのか、急いでスカートを押さえた。

 恥ずかしさのためか、彼女の白磁のような肌が真っ赤に変わっていく。その様子が、大人びた雰囲気と相まって反則的に可愛かった。


「滑り台は駄目。やっぱりブランコにしましょう」


 慌てて軌道修正を図る彼女は颯爽とブランコの上に立つ。

 こういう時は、普通腰を下ろすものではないだろうか。もう、漕ぐ気満々という感じだ。

 1人ではしゃいでいるように見える彼女に続き、隣のブランコに腰を下ろした。


「昔、こういうことしたよね」


 彼女はブランコを思い切り漕ぎ出した。少しずつ勢いをつけて、すぐに乗り出しそうになる程になっていた。身に付け入る上品な衣類が汚れることなんて気にならないほど、夢中になっている。

 そんな嬉しそうな彼女を見ていると、こちらも童心に返った気がしてくる。


「ねぇ、健吾くんは、本当に私にしたいことないの?」


 漕ぎ続ける彼女がこちらに視線を向けているようで、こちらの視線を出会った。


「何か……か、そうだ」


 俺はあることを思い出した。


「買い物! お袋に買い物頼まれてた!」

「え?」

「ヤバイ! 早く行かなきゃ、バスが行っちまう!」

「ちょっと待って!」


 急いで携帯で時間を確認する。

 バスが来るまで後3分。

 来た道を思い返せば、ぎりぎりの時間だ。


「待って! 待って! このブランコ止めて!」

「マジで?」


 彼女は本気でブランコを止められないらしい。その声と顔は迫真であり、嘘を言っている様子はない。

 このまま放置したら、怪我するかもしれない。


「ちょっと待って! 先ずは漕ぐのを止めて……」

「漕いでないよ?」

「いや、漕いでるから! 少しずつ勢いを殺して……今だ、キャッチ!」


 勢いが収まってきた頃に、彼女をブランコごと抱きとめる。それが楽しかったのか、彼女の顔には再び笑顔が戻っていた。


「ねぇ、もしよかったら、明日も一緒に遊ばない? 今日と同じ時間、同じ場所で待ち合わせ」

「おう、一緒に遊ぼうぜ!」


 それだけの口約束で俺は急いでバス停へ向かう。行きとは違い、道がわかっているだけ急いでいけた。

 このままならバスに乗れる。


「嘘だろ……このままだと、2時間待ちだぞ……」


 そこで目にしたのは、発進した直後のバス。その後姿を見送るしかなかった。1日に3本くらいしかバスがない程の田舎と比べれば、2時間は良心的なのかもしれない。

 彼女の元へ行こうかと思ったが、格好がつかない。今日はこのままバスを待つことにした。


 その日、買い物が大幅に遅れたことで、何故か俺のおかずが一品減っていた。



―――


 翌日になると、俺はいつもの時間にバス停へ赴いていた。

 今日は買い物を自主的に受けてきた。当然、昨日出会った、何でもしてくれる彼女と会うためだ。

 彼女と会えることに気分が高揚し、まるで背中に羽が生えたように足取りが軽い。こんなのは、小学生の頃に行った遠足以来のような気がする。

 今日は彼女にして欲しい事がある為、ここに来たのだ。


「初めまして、私は矢国 澄子、7月10日生まれのかに座! 昨日ぶりだね健吾くん」


 「北山田」と書かれた錆びかかった標識。そこに備えられたベンチに腰掛けていた総白髪の彼女がこちらを視界に捕らえ手を振っている。

 昨日した約束は間違いではなく、本当にしたものだと気分がよくなる。俺も負けじと手を振り返す。

 子供のように笑う彼女の顔はとても楽しそうで、こちらも楽しくなってくる。

 これは恋人同士というのは生き過ぎだが、仲のいい女友達といっても、彼女は反論しないだろう。


「初めましてはおかしいだろう? 昨日、約束をした仲じゃないか」


 少しキザっぽく言ってみた。今は格好いい自分に酔いしれてもいいだろう。

 もしかしたら、最初で最後かも知れないから。


「それより、今日は何する?」

「もう一度確認したいけど、何でもしてくれるんだよね?」

「そうね。昨日もそう言ったし」


 確認をした俺は彼女の隣に腰を下ろす。


「澄子には買い物に付き合ってもらう」


―――


 「北山田」から出発した、人がいないガラガラのバスに乗り、15分。目的地である「山田駅」へ到着する。

 少し錆びのある薄い緑色のバスの背後を見送りつつ、周囲へ視線を移す。


 「山田駅」はこの一帯を統括するバス停がある駅前である。

 山田市の中では最も栄えており、様々な店舗が並んでいる。シャッター街になりつつある今でも、他の地域と比べても圧倒的に店舗の種類が多い。何か欲しいものがあれば、ここへ行けば大抵揃うという活気ある駅だ。

 少しの入道雲が混じった青い空が無限に広がり、眩しい太陽はアスファルトの照り返しでとても暑い。

 駅前というわりに背の低いビルが建っていて空が広く感じる。こんな田舎ではこれでも十分都会だった。


「ここは暑いね。家にいるときとは大違い」


 総黒色の衣類を纏っていれば、それは暑いことだろう。前もって買い物へ行くことを伝えておけばよかったのだろうか。でも、俺は彼女の携帯番号を知らない。そもそも、彼女は携帯を持っているのだろうか。


「今日は地域のスーパー「タチ屋」へ行きます。ここで夕飯の買い物をしたい。言うことを聞いてくれるんだろう?」

「いいよ。何でもしてあげる。でも……」


 彼女は一旦言葉を切ると、細めた目でこちらをじっと見つめてくる。


「本当にこんなことでいいの?」


 俺は「これがいい」と返すと、彼女の手を握る。思っていたよりひんやりとした彼女の手は火照った手にはとても心地よかった。


 彼女と共に来たのは地域のスーパー「タチ屋」

 最近よくある複合型のスーパーのように沢山の店舗を包括しているわけではない。

 本当にスーパーだけで構成されており、デートに行くようなお洒落な場所ではない。食材を買うのに適してはいるが、それ以外の目的でくることはないだろう。

 そんな面白みのないスーパーに一歩踏み入れると、快適な冷風が滲んだ汗を拭き取っていく。


「あー、涼しい。クーラーがこんなに恋しいのは初めてかも」

「これからが本番だからな。覚悟してもらう」


 俺は積みあがっている買い物籠を一つ手に取ると、もう片方の手で彼女を握る。

 少しドキドキしているが、表情には出さない。出ているかも知れないが、それでいいと思えた。


「田舎なのにこんなに広いスーパーがあるなんて、知らなかった。あるところにはあるんだねー」


 住んでいる家に帰ればこの程度のスーパーなんて星の数なのだが、田舎というのが重要な点である。

 広いといっても、たかが知れている。そのためか、いたるところに陳列されている商品は多種に渡り、それは子供のおもちゃ箱のように色鮮やかだった。


「よし、先ずはメモを確認して……」


8月15日

・いつもの時間、いつもの場所で彼女と待ち合わせ


・ひき肉   300g

・たまねぎ  3個

・片栗粉   1袋

・卵     1パック



「今日の晩御飯はハンバーグみたいね。好物?」

「大好物って訳じゃないけど、かなり好きな部類かな。お袋のハンバーグって意外と美味いんだよ」

「手作りかぁ、いつか作ってあげたいな」


 彼女がスマホの画面を眺めながら、まるで恋人みたいなことを言い出す。予想外のことに彼女の横顔をつい見やってしまう。

 真剣に見つめる彼女は頭の中でレシピを考えているのだろうか、それとも俺が食べる姿を考えているのだろうか。自惚れとは思っていてもこれは純粋に嬉しい。


「よし! 先ずはたまねぎを買うか。野菜、精肉、卵の順で回ると早い」

「買い物慣れしてる?」

「こっちに来ると、買い物は俺の仕事だからな」


 入り口を抜けて始めに見えてくるのは青果物コーナー。色とりどりの野菜、果物が山のように積まれている。大きいスーパーでは良く見る光景だが、この田舎では珍しいことだ。

 彼女は辺りを見回すと、値札に気をとられているようだ。


「意外と安い……このレタスなんて、地元じゃ148円するよ?」


 彼女が言った値段は俺の地元も同じくらいの値段だった。大きく表示されている価格と比べると確かに安い。

 ここまでの苦労を考えると、少し損をしているような気がしてならない。そこは伏せておく。


「よし、さっさと買い物を済ませるぞ」

「おー!」


 俺が右手を上げると、彼女も一緒に手を上げる。このノリの良さが案外心地よくていつまでも一緒にいたいと思わせる。自分が地元に帰るまでは一緒にいられる。だが、その先は? 今は考えない。


 青果物コーナーを越え、精肉コーナーへ。

 ここでは精肉している現場を覗き見る事が出来る。

 肉を並べたショーケースの奥で、ガラス越しに店員が肉を切りそろえている。昔、親に連れられて行ったお肉屋さんのようだった。


「なあ、俺思うんだけどさ、1日中肉を切り続けるのって大変だよな。豚、牛、鳥と違いはあっても人間の肉とさほど変わらないんだぜ? そのうち、何の肉を切っているか分からなくなって、いずれ本物の人の肉を……」

「駄目、そういう怖い系の話は駄目、NG」


 彼女は耳を押さえて恨めしそうにこちらを睨んでいる。怪談を聞いた小学生に見える。


「冗談だとしても、1日中同じ事をし続けるってのは大変だよな。サービス業で1日中、愛想を振り撒くなんて、絶対に耐えられん」

「健吾くんはそうかもね。でも、私だったらきっと楽しいと思うけどね」


 彼女になるほどと相槌を打つ。

 今もそうだが、笑顔で話をする様はとても似合っている。しかも、彼女ほどの美人なら誰もが羨む接客が出来ることだろう。適材適所という単語がこれほどしっくり来ることは無い。


「でも、私にはちょっと無理かな」


 彼女の笑顔が少し翳ったような気がした。次の瞬間には元に戻っていたので気のせいだろう。


「ひき肉ゲットと、次は卵かな」

「安いのがあるといいね」


 精肉コーナーを抜け、卵を売るスペースへ向かう。

 その途中、冷凍品コーナーが目に止まる。


「なあ澄子、アイス買っていこうぜ。なんと俺の奢りだ」

「本当に! 何がいいかな……」


 俺の提案に彼女は乗り気で物色し始める。スーパーという広い敷地のため、コンビニを越える品揃えだ。

 どれがいいか目移りしてしまう。


「よし、俺は折角だからマルガリソーダにするぜ」


 マルガリータを想像させる名前だが、ただのソーダ味のアイスキャンディーだ。

 結構気に入っており、スーパーでよく買う。


「でも、本当にいいの? あまり高くはないけど、気が引けるね」

「安心して欲しい、お袋からもらった買い物費用で賄える」

「親のお金で奢りとか言っちゃうのはどうなの?」


 そんな事を言いながらも、彼女はアイスの物色をやめない。やはり、女性は甘いものが好き。この法則からは逃げられないらしい。

 彼女もアイスを決めてかごの中へ入れる。

 その後、順調に卵、片栗粉をかごに入れ、会計を済ました。


 買い物が終わりタチ屋から出ると、夏の暑さに焼かれてしまう。一瞬で体に汗が滲んでくる。

 自分が思っていた以上にスーパーの中は涼しかったようだ。


「早速、アイス食べようぜ」


 タチ屋の入り口近くにあるベンチに腰を下ろす。

 日陰になっており、直接日光を浴びていなかったにもかかわらず、お尻が熱かった。

 座ると同時に包装を取っ払うと、水色のキャンディーが出てくる。これだけでも、涼しさを感じるから不思議だ。


「あ、スプーンが無い」


 彼女はカップ式のチョコミントアイスクリームだった。当然、スプーンが必要である。


「何か代わりになるものがあるといいんだが……」


 そう思いながら、マルガリソーダをひとくち齧る。その際に、自分手で何を持っているかに気が付いた。


「そうだ! 澄子、このアイスの棒をスプーン代わりにしたらどうだ? 俺が先に食べれば棒が使えるぞ」

「ちょと、それは流石にデリカシーに欠けるわよ」


 否定的な言葉を口にしながらも、彼女はくすくすと口元を隠しながら笑う。

 実にいい考えだと思ったのだが、何が駄目だったのだろう。


「私、スプーン貰ってくるね。そうじゃないと、健吾くんと一緒に食べられないよね」


 一緒に食べる。そこの言葉に少し嬉しくなってしまう。いつもは気にしないが、今は彼女と一緒にアイスを食べているのだ。一緒に食べないと駄目だろう。


「分かった。待ってる」


 無事スプーンを貰ってきた彼女と一緒にアイスを食べ始める。少し溶けかけている彼女のアイスを見ると、ふと思い出す。


「チョコミントって、好悪が別れるけど、好きな方?」

「好悪とか、意外な言葉を使うね。私、チョコミントは大好き。確かに歯磨き粉みたいな味がするっていう人もいるけど、そんなに歯磨き粉かな?」

「俺も歯磨き粉みたいな感じはしないな。昔の人が大声で言ってただけなのかもな」


 そんな他愛も無い話に花を咲かせながらアイスクリームを堪能した。


―――


 山田駅から北山田へ帰ってきた。

 2時間おきにしか来ないバスなので、もう日が落ち始めている。

 部屋でゴロゴロしていたときとは違う。楽しい時間というのはこんなにも早く過ぎるのかと、残念な気持ちでいっぱいだった。


「あー、今日は楽しかったね」

「ただの買い物がこんなに有意義になるなんて思ってもみなかったな。すげー楽しかった」

「でも、何でもしてあげるから、もっと色々言ってもよかったんじゃない?」

「いや、俺にとってはこれが最高だった」


 そうなんだと、明るい笑顔で言われると、自分は間違っていなかったと確信できた。

 このまま別れてしまうのは少し寂しいので何か言おうとも思ったが、結構な時間を拘束してしまった。向こうが言ってこないと少し誘い難い。


「ねえ、健吾くん、明日は時間ある?」

「時間ならいくらでもある。予定も入っていないし、買い物なんて断ったらいいし」

「それなら、明日お祭りに行かない?」


 彼女の言うお祭りとは、東山田付近にあるハクサン神社で催される祭りのことだ。地域のお祭りということで、かなりささやかではあるが、唯一の娯楽といってもさしあたり無い。


「絶対いく」

「よかった。じゃあ、明日は今ぐらいの時間にハクサン神社前に集合でいい?」

「なら、4時半くらいでいいか?」

「うん、それくらいでお願い」


 俺はすかさずメモを取る。


8月16日

・4時30分にハクサン神社前で彼女と待ち合わせ


 彼女とか書いてしまったが、この程度なら特定はできないだろう。

 明日の事に思いを馳せるだけでも、心が高まり、待ち遠しくなる。今日の待ち合わせ以上にワクワクしてきた。


「絶対に行くから!」

「私も!」


 今日はここで彼女と別れた。

 帰る足取りも軽く、にやけながら家へ向かう。

 家ではにやけている姿が気持ち悪いと指摘されたが、その程度はどうということはなかった。

 今日はおかずが減ってはいなかったが、ハンバーグが気持ち小さかった。

 アイスを買っていたのがばれていた。レシートを渡せば知れるのは当然のことだった。



―――


 翌日、俺は新品のパンツをはいたかのように晴れ晴れとした気分だった。

 持ってきた服の中では最も格好いいモノを選び、最大限のお洒落をしてきた。これなら、彼女と並び立っても相応しく思われるだろう。お似合いのカップルという訳だ。

 「北山田」バス停からバスで8分、「東山田」のバス停へ到着する。

 ハクサン神社はここから徒歩で10分程度の場所にある。自分が思っていた以上に険しい道のりだった。


 4時20分。

 バスの都合で少し早めに到着してしまった。とはいえ、そこまで早いわけでもない。すぐにでも彼女に出会えるだろう。


 そわそわしながら、髪のセットは万全か弄っていると、いつもと違う紺色のワンピースを着た彼女がいた。総白髪と紺色のコントラストがモノクロだった彼女を彩っている。


「初めまして、矢国 澄子です。知ってるよね」


 こんな時でも「初めまして」と言っているのか。何か理由でもあるのだろうか。


「お待たせ、ど、どうかなこの服。浴衣を着てこれたらよかったけど、無かったから代案」

「最高です。唯一無二の天下無双の可愛さです」


 一も二もなく言葉が出ていた。控えめに言っても、夏らしい、いや夏だからこそ涼しさを感じるそのワンピースは世界1位だった。

 つい、頬が緩んでだらしなく開いた口に口角が上がっていく。もう彼女に釘付けで虜にされていた。


「―――そうやって言われると、ちょっと照れる、かな」


 彼女は少しうつむいて顔を朱に染めている。

 こういうのはお世辞も含まれると思われるかも知れないが、俺にとってはそんな事はない。

 真っ直ぐに正直に彼女の姿から目を離せない。


「もう、行くよ。ここでじっとしてても始まらないからね」

「そろそろ行くか。澄子のワンピースはいつも視界に入れられるしな」


 彼女との祭りにテンションが上がって、セクハラまがいの言葉を放ってた。これは自重しなければいけない。

 俺は彼女と鳥居へと続く短い階段を上っていく。

 鳥居からは光が漏れ出し、やがて視界が光でいっぱいになる。

 社へと向かう一本道の両側に少しではあるが屋台が並んでいて、所々に電球式の提灯が辺りを照らしている。いかにも田舎の祭りと言う感じがして懐かしさを感じた。


「電球だと分かっていても、提灯って綺麗よね。祭りだって感じがして」

「それに、やっぱり屋台だろ。この漂ってくるイカ焼きの匂いがたまらないな」


 彼女も同じく祭りを肌で感じている。

 祭りに来る人は、やはりというか当然と言うか、老人ばかりである。こうして、男女のカップルは全く見受けられない。ここは俺たちが主役なのだ。


「こうやって友達と一緒に来たのは、初めてかも。ねぇ、屋台とかまわろっか! それとも、お賽銭とか入れちゃう?」


 彼女ははしゃいであちこちを見渡す。その様子に俺は笑いをこらえた。

 まるで新しいおもちゃをもらった子供のように目を輝かせている。


「ここじゃないけど、親父と一緒に祭りに行っていたな。屋台で売ってるものをせがんで、困らせてさ。ケチだと思いつつも、それもまた楽しかった」


 彼女は興味深そうにこちらの話を聞いていた。初めてというのは誇張ではなく、その言葉通りなのだろう。彼女からお祭りに関する昔話は出てこなかった。


「どこから、まわろっか。やっぱりお賽銭かしら?」

「そんなもんいらねぇよ。先ずは金魚すくいだ!」


 早速、赤い背景に白い文字で「きんぎょすくい」と書かれた屋台へと赴いた。

 こんな祭りの金魚すくいはたいしたことはないと思っていたが、意外とそんな事はなく本格的で心が躍る。

 水槽の中には赤い良く見る金魚に、黒かったり白かったりまだらだったり、大きかったり、ちいさかったり。種類も和金に出目金、ランチュウと他の奴も結構種類が豊富だ。


「よっしゃ、見てろよ。俺のポイ捌きを。きんぎょすくい屋を戦慄させたこの腕前!」


 戦慄したのは屋台の親父。あまりに金魚をすくえず、追い回した末、何も救えない。ただ金魚を疲弊させるだけしかできなかったあの日。金魚の寿命が縮んだことだけは確かだ。

 今回は流石にそんな事はないだろう。


「あ、でも。お互い実家帰りだよね……金魚飼えないよね」


 そういわれてみればそうである。

 金魚をすくうことばかりに気をとられていたが、すくっておいて世話を任せるわけにはいかない。

 それにしても、どうして彼女は俺が実家にやってきている事を知っているのだろうか。簡単な推理かなにかだろう。


「金魚すくいは簡便しておいてやろう。じゃあ、次はたこ焼きだ。たこ焼きにしよう」


 俺は彼女の手を取って別の屋台へ向かう。

 無意識に手を握ってしまったが、これはチャンスだと思いつつ彼女の小さな手を軽く握り締めた。

 彼女はそんな事を気にも留めず、さっきから笑いをこらえているようだ。


「親父さん! たこ焼き1パックください!」

「あいよっ! はい、たこ焼きだ。出来立てだから、食べるときは気をつけてな、それとそこの彼女にも食べさせろよ」


 たこ焼き屋のおじさんはたこ焼きのパックに2本の爪楊枝をつけてくれた。こういう心遣いが嬉しい。

 だが、本命のたこ焼きはあまり美味しくなさそうだった。


「ほら、たこ焼き。一緒に食べようぜ」

「お金はいくらぐらいした?」

「ふっ! 今日は女の子と祭りに行くって言ったら親が軍資金を出してくれた。だから素直に奢られるといい」


 親の金で胸を張る姿に彼女は威張ることじゃないよねと、また軽く突っ込みを入れられた。

 俺は熱々のたこ焼きのパックから爪楊枝を取り出して、おもむろに1つ口に入れる。


「あふ、あは、あふ、あほ」


 言われた通り、たこ焼きは口の中を焼いていく。思っていた以上に熱くてまともに喋れない。


「早く食べすぎだよ。もっと冷まさないと」


 そういいながらも、まだ熱いだろうたこ焼きを口に入れた。その様子は俺と同じ末路を辿っている。


「あふ、おほ、あほ、あふ、ふふ」


 同じく口の中を焼いているだろうたこ焼きを美味しそうに食べながら笑っている。何がそんなに嬉しいのか分からないが、こちらまで嬉しくなってくる。無駄に高いテンションも相まって、自分の行動が判断ができなくなってきた


「くそっ! たこが入っていなかった! くそー! 損した! 次! 次だ!」


 次のたこ焼きに手を伸ばし、口の中に放り込む。


「あふっ! あへ! おほ! はふ」


 だが、熱いことをすっかり忘れていて、再び口の中が熱で蹂躙されえていく。全く成長していない。


「あはははははっ! あー、面白い。健吾くんは結構無謀だね!」


 何がそんなにツボに入ったのか、本気で笑い始めた。大声を上げて、周囲の視線を集めながら。

 少し涙を流すほど笑っており、指で涙を拭っていた。

 程なくして、たこ焼きを食い尽くす。


「ほらほら、急がない。ソースがついてるよ」


 彼女はハンカチで口の周りを綺麗にしてくれる。顔がいつもより近い。意外な行動にどぎまぎしながらじっとする。

 口を拭いてくれた彼女は微笑んでいつもの距離へ戻った。


 次はイカ焼き屋へ。

 店先からやってくるしょうゆベースのソースが鉄板の上で焦げていく。その圧倒的なしょうゆの香りが本流となり人を吸い込んでいく。

 その香りに俺も釣られていく。


「イカ焼き! いいか? イカ焼きはゲソがいいんだ、ゲソを食べるんだ」

「ん? 他に胴体とかもあるけど?」

「いいか? イカには10本ものゲソが付いているんだ。それを金額換算すると、絶対に本体より高い。つまり、本当の主役はゲソなんだ。それに、1本のものがいい。たまにゲソを複数刺したものがあるが、ゲソ換算すると、ゲソのほうが高いんだ。だから、ゲソを食べるぞ」


 イカ焼きという香りに釣られた俺はつい饒舌になってしまう。

 俺の薦めがあり、2人はゲソを買った。

 口いっぱいに広がるしょうゆに舌が幸せになっていく。祭りと言えば、これを1本食べないと後悔が残る。


「よし! 次だ! 何か食べたいものは?」

「私、わたあめがいい! あの大きなやつがいい!」


 彼女もテンションが相当上がってきたのか、周りへの気配りがなくなってくる。

 視線の先にあったものは袋にキャラクターの絵が描かれている綿菓子だった。

 あんなもの、原価はたかが知れているが、肖像権の問題があるので意外と儲からないのかも知れない。


「このキャラのものがいい!」

「これ知ってるキャラか? 俺、知らないんだよ」

「知らない? 日曜日朝にやってる『キュアちゃん』だよ! 特撮の前にやっている人気番組!」


 彼女は意外とテレビ好きだったようだ。

 俺も昔は見ていたが、最近は見ていない。そもそも、テレビを見る時間が殆どない。ネットだけで十分だ。


「これくださいな!」


 上機嫌な彼女は受け取った綿菓子をすぐに取り出す。顔と同じくらいの綿菓子に躊躇なくかぶりつく。彼女がただの年下の子供に見えて微笑ましかった。

 その姿が可愛くてつい、スマホを取り出す。


「何? 何?」

「はい、チーズ」

「い、イエイ」

「ナイスショット!」

「ナイスショットって、使いどころ違いよね!?」


 白い髪の彼女が白い綿菓子にかぶりついている圧倒的に白い写真をゲットした。こうして写真を撮るのは初めてのことだったかもしれない。何気にレアな写真だ。


「よし、次は澄子の番だ! さぁ、俺を撮れ! 思う存分この姿をスマホに収めるがいい!」


 そんな俺の姿を見て、何か奇妙なものを見たという冷たい視線を浴びせてきた。俺にはそういう性癖がないので、心が折れそうになる。


「あ、違う、違う。暑さで頭がおかしくなったとか思ってないから。ほら、私ってスマホもってないし」


 そういえば、彼女のスマホを見た事がない。電話番号も交換したことも無い。こんな時勢にスマホをもっていないとは珍しい。


「あ、これも誤解、今持ってないってだけで、家にあるから」


 それにしても、スマホを持ち歩かないとか珍しい。不便ではないだろうか。


「なら、この俺の姿をその網膜に焼き付けるといい!」

「大丈夫だよ。私は健吾くんを忘れないから」


 スマホを持っていないのなら、そういう対応も仕方がないことだ。

 その後は面白おかしく綿菓子を食べて屋台をまわった。


―――


「あー楽しかった!」


 祭りの喧騒から離れ、休憩しようと社の後ろにやってきていた。提灯が備え付けられて灯りは問題なかった。


「あっ! 蚊がまた耳元で!」


 俺は鬱陶しい蚊を振り払いながら彼女の話を聞いていた。ここは蚊が多いらしく祭りの参加者は殆ど寄ってこない。

 静かに休憩するにはもってこいの場所だった。


「ありがとな。祭りに誘ってくれて。最高に楽しいぜ!」

「こっちこそ、健吾くんが来てくれたから、私も楽しかった! 人生で1番楽しかった」

「1番なんて言い過ぎじゃないか?」

「ううん、私にとってこんなに楽しいのは最高で最後だと思う」


 最後という言葉が気になったが、ものの喩えだろう。

 俺は気分が高揚していたこともあって、調子に乗っていた。


「明日もさ遊ぼうぜ! 絶対に楽しいから!」

「明日、明日か……」


 彼女の言葉が急に歯切れが悪くなってきた。明日は何か用事があったりするのだろうか。


「用事は無いけど……多分、無理かな」

「どういうこと? 俺と一緒だとやっぱり詰まらなかった?」

「そんなことない! 絶対にそんなことない! さっきも言ったけど最高に楽しかった! だから……だから……」


 彼女は何かを考えているのか、俯いたまま口を閉ざしていた。そして、何か覚悟を決めたのか、強く意思の感じる瞳でこちらを見つめてくる。

 そんな初めて見る目にこちらも佇まいを整えてしまう。


「明日は無理なの。明日になったら健吾くんは私を忘れちゃうから」


 何を言っているか分からない。彼女の思考がまるで理解できない。


「健吾くんはきっと、この3日間を忘れちゃう。私と遊んだこの3日を」

「確かに俺は物覚えが悪いけど、こんなこと忘れるわけ無いだろ」


 単なる冗談と笑い飛ばせるほど、彼女はふざけていない。


「ねぇ、知っている? 私たちが出会った日の3日前に出会っていたこと」

「あれ? 3日前には初めましてって……」

「じゃあ、どうして私は健吾くんが親の実家に帰ってきていることを知ってたのかな?」


 そういえば、金魚すくいのところで、お互いに帰省中だと知っていたのだろうか。いや、どこかのタイミングで口にしていたのではないだろうか。


「私は今から6日前の11日に健吾くんと出会っているの。そこでまた会う約をしたから、3日後の14日に出会えた」


 14日、その言葉を聞いてスマホのメモアプリを起動する。そこにはこう記されていた。


8月14日

・いつもの時間、いつもの場所で彼女と待ち合わせ


 確かにメモがあった。

 だけど、このメモをした記憶が曖昧だ。彼女って誰だったか思い出せない。


「そういうことなの」


 確かにそんな事があったかもしれない。物忘れが悪すぎるだけだと思いたい。


「健吾くんは、人に忘れられたことってある?」


 今まで人生ではそんな経験は少ない。名前を間違えられたりして、何だか悲しい気持ちになったことはある程度ではないだろうか。あれも一種の忘れられたことだろう。


「私はね、3日ごとに忘れられてる」

「は?」

「私は3日ごとに全ての人の記憶から消えているの。どんなに親しくなった人でも、親友になっても必ず」


 彼女の言葉に理解が追いつかない。

 あまりに唐突で突拍子も無い。それに荒唐無稽な言葉だ。

 彼女の真剣な様子から、ふざけているとは思えなかった。


「どんな時を過ごしても、どんなに親しくなっても、私にとって再会はいつも初めてなの」


 言葉が出なかった。

 スマホのメモを見る限り、俺は彼女を忘れていた。

 総白髪なんて忘れようの無い特徴を持つ彼女を忘れていた。それも、完全に。


「みんなは私との出来事を忘れてしまう。だけど、私は覚えている。それってどういう意味か、分かる?」


 何度も「初めまして」を繰り返してきた。彼女と会うときはいつも「初めまして」と言っていた気がする。

 どんなに友情を深めても、向こうが一方的に「初めまして」と言われるのだ。

 自分に関する情報は全て消えてしまう。

 それは、世界で一番孤独な少女なのではないだろうか。

 誰の記憶に残らない、誰でも「初めまして」と言われてしまう。

 しかも、3日ごとに味わうのだ。それでも、その出来事は彼女に蓄積されていく。


「俺にはその意味はわからねぇ。そんな事になったこと無いしな」

「だから、もう会うこともできない。ここで明日の約束しても、誰も覚えていない」


 息を飲んだ。

 その出来事じゃない。今にも泣きそうで、言葉をこらえて、淡々とそう言って来る彼女の姿に。


「何でそんな事に?」

「分からない。知らない間に。それと一緒にこの髪も白くなっちゃって」


 それは、決して冗談ではない。演技でもない。嘘も言わない。そんなものを一切感じさせない。彼女の含蓄のある言葉。


「だからさ、私はこの3日間を胸に秘めて生きるの。こんなに楽しかった事はなかったから、この記憶を思い返せば、きっと楽しい気分になれるから」


 俺は言葉を繋げなかった。


「それじゃね、この3日間、本当に楽しかった。ありがとう、健吾くん、さよなら」

「待ってくれ、これまでの記憶がを失って本当にいいのか? これでお仕舞いでよかったのか?」


 こんな分かりきった言葉を口にする俺はきっと卑怯だ。

 彼女が何を言うかわかっている。

 彼女は俺の胸にすがってきて、小さな口から出る大きな声が喉から絞り出される。

 俯く彼女の表情は見えない。でも、想像は出来る。


「そんな事、あるわけない! これで終わりなんて嫌! また会って後でこんな事があったよねって、一緒に思い出したい! もう1人だけは嫌!」


 これが彼女の本音だ。世界で1番一人ぼっちの彼女からあふれ出る偽らない想いだ。

 だから―――


「いや、もう一度会おう」


 勝手に言葉が口から出ていた。それは言葉というものでなく、俺の心だったのだと思う。


「忘れるのなら、約束はできない」


 本当に忘れてもいいなら、こんな事をわざわざ言う必要は無い。言わなければいつもと同じ、俺は彼女を忘れるだけだ。


「だけど、また会おう」


 彼女がわざわざ記憶から消えることを言ったという事は、どこかで期待しているのだろう。

 俺に本当のことを伝えたい。忘れてほしくない。自分がいつもどんな気持ちでいるか、知って欲しい。分かって欲しい。また会いたい。

 自惚れかもかもしれない。それでも、この言葉だけは伝えたい。


「明日、いつもの時間、いつもの場所に俺はいると思う」


 俺だって今日のことを忘れたくない。それは彼女と違う意味で、今日彼女と記憶を手放したくない。いつも、その胸にあって欲しい。


「そっか、そうなんだ。じゃあ、私も行ってみようかな。明日、いつもの時間、いつもの場所に」


 少し鼻声になった彼女の声が耳に届く。

 願わくばまた彼女に会えますように。

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