金ボタンを失くして
駿府城の発掘現場、にわかづくりの資料館である日、『発掘』されたという軍服の金ボタンを見かけました。そこから思いを馳せた短編です。
「なんだ……」
僕は思わず声に出していた。
「……こんなところに、あったんだ」
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幸吉が、それを失くしたことに気づいたのは、連隊の寄宿舎に戻ってしばらくしてからのことだった。
彼は制服のまま布団に倒れ込み、そのまま明け方まで泥のように眠っていた。
だから、金ボタンが無くなっていた……しかもふたついっぺんに失くしていたのに気づいたのは、翌朝はやくのことだったのだ。
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白井先生
(前略)
先生にご教授頂いた日々がすでに懐かしくもある今日この頃であります。
しばらくお返事できなかったこと、平にお許し下さい。
実は謹慎を喰らっておりました。
私は以前より粗忽な面を多々持ち合せておりまして、歩けば肥だめに落ちかかる、荒ぶった馬に不用意に近づいて蹴られる、苦心した報告書を間違って薪ストウブにくべてしまう、等々、失敗続きでありました。
そこに、今回束の間の休暇時、支給された制服の金ボタンをふたつも逸してしまったという大失態を演じまして、申し開きもできぬ状態でありました。
ありがたきことに、今回失くしたボタンにつきましては無事、再配給され、今では、制服も寮母殿に直して頂き、元のようになりました。
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幸吉は、ペン先を舐め、わずかに目を逸らして屋根近くの嵌め殺しの丸窓を見上げ、しばらくの沈思黙考の末に、また便箋に向き合った。
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先生にまずいっとう先にお知らせせねば、と父母より先に、筆をしたためた次第です。
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本当は、知らせたのは白井先生が一番ではなかった。そこを厳密に記すと先生をむやみに心配させることになるだろう。激怒する可能性もあった。
そこまで踏み込んで書くこともあるまい、と幸吉はペンを走らせる。
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実は、出撃の命が下り、明日出立が決定いたしました。
まず思い起こすのはわが師の恩、というわけでありまして、寒村の四男に生まれ育ちし私にとって、白井先生の教えはまさに、雷電のごとく衝撃的であり、慈雨のごとく心に沁み入るものでありました。
しかし私はまだまだ未熟者であります。
先日金ボタンを失くしたのも、我が未熟さが招いた顛末でありました。
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幸吉はまた束の間、目線を紙から外す。
ふいに美和子の瞳が脳裏をよぎり、ずきりと胸が痛んだ。
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「行かないで」
突然背後から抱きすくめられ、幸吉は思わず前によろめいた。
堀に転がり落ちなくて良かった、さいしょは正直それしか思い浮かばなかった。
「美和さん」
まだ早鐘のように鳴り響いている胸を目立たないように押さえつつ、幸吉はあえてのんびりと背後のひとに呼びかける。
「ちょっと、手を離してください」
返事はなかった。幸吉は責めた口調にならないよう、少し声を落とす。
「これではふたりで落ちてしまいますよ」
「いっそのこと」
美和は彼の外套に顔を埋めているらしく、くぐもった声で答えた。
「ふたりでこのまま……落ちるのも」
泣いているのだろうか? 幸吉の胸の鼓動は更に早くなる。しかし、美和はやっと心を落ちつけたのか、背中の重みが急に引いた。
幸吉はさりげなさを装い、自然なていでゆっくりとふり向いた。
古い城あとというのに、そこには単に地面の起伏にあわせて、痩せた松と雑木の林が続くだけだった。
木もれ日がちらちらと美和の髪の上で踊っている。彼女はそっぽを向いたまま、果てしなく続く木々の向こう、細く続く歩道を眺め入っているふうにもみえた。
かさ、と厚く積もった細い枯葉が足の下で鳴る。馥郁たる針葉樹の香がいっしゅん、鼻孔をかすめる。
「ここには本当に」
美和の声も普段通りに戻っている。
「お城があったのでしょうか、しかも将軍様の。まるでただの丘のようですし、ただの林のようですが」
「この谷になったところが昔、内堀だったのだそうですよ。だからあの向こうに」
幸吉は片手を彼方に差し伸べる。
「天守閣があったのだとか」
美和は彼の伸ばした手先を見ている。どこか茫洋とした目のまま。
「まったく思いつきもしませんね。今のこの荒れ果てた様子からは。でもいつかは」
美和の目がまっすぐ、幸吉を射抜く。
「何もかも明らかになるのでしょうか?」
「だと思います」
幸吉もまっすぐ彼女を見た。たぶんおそらく、初めて。
最初で最後、なのだろうか。
「後の人びとがここを掘り返して、色んなものを掘り出して、当時の様子をくまなく日の下に明らかにしてくれるでしょう。もしかしたら、その頃の天守閣すら見事に再現するかもしれませんね」
そう、我々が勝ちさえすれば。
幸吉の声が少し強くなる。
「我々が勝って、我々の正義が全世界に明らかとなって……」
なぜなのか、言葉はいつもよりもすらすらと出た。
それは多分
「勤勉で実直なるこの国の恩恵で、誰もがみな豊かになり、網の目のように経済が発展し、物資が隅々まで行き渡るようになれば。
その時、象徴のごときこの場に、天守閣は燦然たる光を帯びて、碧空に威風堂々たる姿を再び現すことでしょう」
自らの言葉ではなかったから、なのだろう。
いつも聞かされていた、他からの言葉だから。
言葉の強さに打たれたかのように、美和子は目を伏せる。
彼女の伏せたまつげの奥、黒く潤んだ瞳が、幸吉には今いちばん怖かった。
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白井先生
お言葉のひとつひとつが、見に沁みたのです。
特に沁みた言葉は、またどこかでお会いした時にでも。
しばらくは、お目もじかないませんこと、お許し下さい。
互いに、よき明日を祈り、最善がつくせますように。
さようなら
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美和子がつぶやくように言った。
「父が、何と言ったか忘れたのですか?」
今度地面を向いたのは幸吉の方だった。
美和子の父である白井先生は、ただ一つ、こう言ったのだった。
「生きて、繋げよ」
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生きるとは何だろう? 幸吉はそのことばを聞いた後から悶々と反芻したものだった。
自らの命が絶えても、生きることはできるのだろうか?
それならば、どのような手立てで?
必ず死なねばならぬ、この場でいかに繋げられるのだろう?
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もの思いにふけっていた幸吉は、またいきなりしがみつかれて足もとをふらつかせた。
「やっぱり」
今度は、前から。
幸吉は息を止めていたに違いない。時間すら、止まっているかと思われた。
「やっぱり、行かないで」
「美和さん……」
美和子が胸元に、すっぽりと幸吉の両腕の中にすべて収まっている。
生まれてから初めて、起こってほしいと願っていた奇跡の、あまりにも急な出現に彼の頭の中はすでにまっ白になっていた。
じぶんの声すらどこから出ているのか、はっきりとしない。
それが自身の声なのかどうかも。
ただ分かるのは、その重み。そして、木々の影か彼女の頭の上でちろちろと動いていることしか。
「よしてください。行かねばならないのは、どうにもなりません」
「なぜ」
目のすぐ下、美和子の肩はよわよわしく震えている。しかし、掴んでいる腕の力は恐ろしいほどだった。
彼はじり、と後ろに下がる。かかとが柔らかい土にわずかに食い込み、その後ろにすでに地面があるのかは、彼の預かり知らぬところとなっていた。
「なぜ、どうにもならないのですか」
「上からの命令なのです……大切な」
「私よりも、大切なのですか」
はい、とも、いいえ、とも答えられなかった。答えはひとつしかないのに、彼にはどうしても、口を動かすことができない。
その代わり、両腕にせいいっぱいの力をこめて、彼女を抱きしめる。
永劫の時が流れたかと思われた。
その後の記憶が、彼にはさだかではない。
気づいたら寄宿舎で朝になっていて、着たきりの制服から金ボタンがふたつ、失くなっていたのだった。
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出撃後の第三十六連隊の最期については、二週間後になる当時の新聞が大きく報じていた。
その記事にひそかに泪する人びとは多かっただろう、しかし白井先生も娘の美和子も、その数には含まれていなかった。
記事となる日の未明、彼らの町は空襲でほぼ壊滅状態となった。
二人暮らしのつつましい家も、その犠牲となった、家の主たちとともに。
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僕は何から先にしたら良いかすっかり分からなくなって、しばらく部屋の中をうろうろと歩きまわって、それから急に、そうだ、これは直接知らせてやらなければ、とあわててフォンをタップした。
「ハイ、ジョー、ひさしぶり」
ミックの大声が更に続ける。
「どうしたんだ? 財団へのこないだの融資の件で、何かあったの? 別件? あ、そう言えばお見舞いの花とても喜んでたよ、彼から手紙行っただろう? 返事がないって彼ずっと……」
「相変わらず早とちりだな、おじいちゃん。メールで返事したのに。しかも返信も、もらっているよ。それよか今、彼はいる? 話ができる?」
「コーチ?」ははっ、と彼は明るく笑って「西海岸までドライブに行ってる、って言ったらどうする?」
答える前に、ミックが部屋を横切って、彼のベッドまで行った様子がうかがえた。
「可愛い孫からだよ」と言っているようだ。しばらくごそごそと音がしてから、ようやく
「よお」
耳慣れた、優しい声が響いた。「譲、元気か」
逸る心を押さえながら、僕はいきなり本題に入った。
「見つかったよ」
「えっ?」
彼はすぐに、何のことか判ったようだ。そりゃそうだ。
百歳に近づくまでずっとずっと、ひとつきり心に留めていたことだったから。
「そう、あの金ボタンが」
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おじいちゃんは、とにかくドジというか、おっちょこちょいというのか、何かと細かい失敗ばかりする人だった。歩けば溝に落ちるし、ぼんやり考え事しながら歩いてデモの小競り合いのまん中に突っ込むし、最新式のフォンに替えたばかりですぐ壊すし、よく今まで無事だった、と思うようなことばかりだった。
それでも、大戦後にはゼロから出発してすぐ海外に渡り、そこからがむしゃらに働いて一代で財を築いた。
遅くなってから生涯の伴侶を得て、幸いなことに子宝にも恵まれた。
その後も色んなことがあったけど、今ではミワ財団の設立者としても、世界的に名を知られている。
僕は彼の孫のひとりで、彼の生まれ故郷であるここ日本で、大学に通いながら日々平穏にくらしている。
おじいちゃんのコウキチ、通称コーチはずっと海外を転々としていたが、さすがに体の自由がきかなくなってからは、ずっと暖かい南の国で、信頼のおける人たちとともに静かな余生を送っていた。
それでも、僕は――彼の大切な思い出に一番近い場所にいたせいなのか――誰よりかも可愛がって貰えていた気がする。
それはきっと、僕がいつの日か、彼のずっと探し求めていたものを見つけてくれるかも……そんな期待もあってのことだったのかも知れないが。
なぜおじいちゃんは連隊と命運を共にしなかったのか? それもおじいちゃんらしい理由だと言えばその通りだった。
彼は出撃の当日――いかなる事情か今では誰も知らないのだが――彼は寄宿舎二階の自室から駈けおりる途中もんどりうって階段を転がり落ち、意識を失った。
医療的措置ひとつ受けられることもなく、彼はそのまま営倉に放りこまれ、残る第三十六連隊はそのまま出陣して……すべて、帰らぬ人となった。
コウキチが息を吹き返したのは、単に偶然だったとしか言いようがない。
それが天の配剤と言う人もいるだろうが、僕にはよく、分からない。
ただ、おじいちゃんはその後の人生では、自らができることを、そのまま貫き通しただけだった。
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僕の住むこの街で、ようやく将軍の天守閣が発掘されようとしていた。
予算のめどがつけば、かつての天守閣含めた城郭が復元されるであろう、と市長は力強く語っていた。
そして広大な荒れ地が少しずつ区画整理され、掘り返され、出てきたものは注意深く分別されつつあった。
天守閣のあったと言われる堀らしきくぼみの址から、金ボタンがふたつ発掘されたという記事を、僕はぐうぜん、ローカルニュースサイトで見かけたのだった。
「先の大戦頃の陸軍軍服から外れたボタンであると、専門家は語っています。一度にふたつというのはかなり珍しく……」
土砂に埋もれ、歳月のせいもあって、ふたつは重なるようにくっつきあって、離れることがなかったのだと記事にはあった。
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どうしてミワ財団が中央市から公園の敷地一帯を全て買い取ったのか、どうして州都公園がこのように復元されたのか、今までの僕の話で少しは分かってもらえただろうか?
市の事業として進めるのならば、天守閣の完全復元をうたっていたのではないのか? それをどうして世界的にも名の知られた財団がわざわざあんな形に? 僕もいろんな人からそう問い詰められた。せっかくの復元計画をどうして水に流したのだ、と。
でも、完全なる天守閣はいつでも誰にでも体験できるようになったでしょう? と僕は反論している、まあバーチャル空間での、幻の城ではあるけど。
それでもけっこうな人気なのは誰も否定できないだろうね。
そして今でも、かの公園は静かなる木立に囲まれ、ゆるやかな起伏の中、枯葉に覆われた小道をたどることができる。
いっとう奥には、小さな木造平屋の資料館がひとつ。
もちろんバーチャル天守閣を見るために見学者は絶えることないが、もうひとつ、彼らが必ず足を止めてくれるのが、そう、あの金ボタンの展示されたケースだ。
それは今でも、ふたつひっそりと寄り添い、僕たちに静かな声で語りかけてくれている。
生きて、繋げよ、と。
(了)